2002
02.27

スキー入門 II : 第2の悲劇!序章

スキーらかす

 人間の能力は、とっさの時にどのような対応ができるかで計測される。

  お尻の穴から冷たい風がスーッと入って来る。
踏みしめていた大地に、突然ぽっかり穴があく。
確かなことをやっていたはずなのに、確かさが突然消えてしまう。

 その絶体絶命の危機にあっても、私は小憎らしいほどに理知的であった。

 「ほかの奴は、どうやってリフトから降りてるんだ?」

  冷静に状況を見極めようとする姿勢、どこに着目したら解答が得られるかを探り出す視点、瞬時にそれをこなす知性。これこそがヒトを進化させたのである。

  学ぶ、の語源は、真似る、にあるといわれる。並はずれて優れたヒトが発明したものを、ほかのヒトたちが真似し、新しい技術が社会に普及する。これあればこそ、自然に落ちている石や棒きれしか道具にできなかったヒトが、やがて天才の導きにより、打製石器、磨製石器を経て金属器を使うようになった。木の実を集め、魚を釣り、野生動物を狩るしか食料調達の手段を持てず、常に飢えの恐怖と戦っていたヒトが、殺して食べるだけだった動物を家畜にすることを覚えた。稲や麦を栽培してより多くの食料を手にするようになった。

 人間に「真似をする」知性がなかったら、車もテレビもできてない。いまでも、その辺で拾った棒っきれを振り回しながら、狐や狸(食べられるのかなあ)を追いかけ回して飢えを凌いでいるに違いない。

  私は、この人類の輝かしき歴史の正統な継承者である。危機に臨み、とっさに真似をする決断を下したのである。秀逸な危機管理というよりほかない。

  ポイント・オブ・ノーリターンを越えてしまった私は、生涯でこれほど真剣に何かを学んだことがあったかというほどの真剣さで、先に行くスキーヤーのリフトからの降り方のカンニングに取りかかった。

  降り場が、少しずつ近寄る。目を凝らす。リフト本体は、どう見ても降り場を過ぎても直進している。直進した空のリフトが私たちの右側に列をなし、下に向かって行進している。
空になったリフトをまじまじと見る。どう見ても、 降り場についた瞬間に、座席がどこかに消えてくれるような、ハイテックで人に優しい仕組みにはなっていない。

  では、スキーヤーはどうやってリフトから降りるのか? 下から上に運び上げられている途中の私には、ポイント・オブ・ノーリターンを越えても、まだそれが見えなかった。見えるのは、降り場がその先にあるのだろうと思われる断崖の先端のみである。私が見たいのは、その先にある。見たいものが見えないのは、超ミニをはいた美女が階段の遙か上を行くのを、下心を持って見上げるのに似る。見えそうで見えないのが何とももどかしい。見せろよ!

 まもなく終着点。私の目の位置が、やっとものの役に立つまでに高くなった。待ちに待った瞬間である。前を行くスキーヤーたちの姿が動きが見える……。

  えっ!

  降り場で、彼らはリフトから立ち上がると、両足にはいたスキーで足下の雪を踏みしめ、そのまま緩いスロープを滑り降りているではないか! しかも、いとも簡単そうに……。

  そうか、そうだったのか。滑ってリフトから自らの体を引き離すのか。やっぱり、リフトは自然消滅してくれないのか。でも……。

  俺たちゃぁなあ、今日初めてゲレンデに出たんだぜ。なめたらいかんぜよ!
そんなん、無理だって!

  私は、人類のすばらしき歴史にのっとり、リフトからの降り方を頭で理解はした。理解はしたがが、解決法が見いだせなかった。

 理解することと、理解した内容に従って自分の体を思い通りに動かすことは、まったく別のことなのである。だって、1時間前に生まれて初めてスキーを足につけたんだぜ! つま先は体より1mも先にあるし、かかとは体から1mも後ろにある!どうしろっていうんだよ!

  と叫びたいのはやまやまなれど、そういうわけにもいかない。なぜなら、1つ前のリフトには息子が乗っており、私と一緒には下の娘がおり、1つ後ろのリフトには妻と長女が控えておるのだ。私が内心の恐怖に駆られて不用意な叫びをあげたりしたら、我が一家は全員がパニックに落ち入って収集がつかなくなるのは必定、というせっぱ詰まった状況なのだ。

 男には、耐えねばならない、やせ我慢をせねばならない瞬間がある。

 私は、またひとつ、人生の真実に遭遇した。

 転けた。まろんだ。転倒した。
1つ前のリフトに乗っていた息子が、である。

 私には、息子より不利な条件が付きまとっていた。だって、娘が一緒なのである。嫁入り前の娘にけがでもさせたら大変だ。親御さんにあわせる顔がない。 あ? 親って、私か……。

 この窮地から娘を救出するためには、私が下になって、クッションの役割を果たしながら転けなければならない。 上下が逆になったりすれば、それはもう、 真性悲劇である。

 私は、この哲学に従って行動した。正確に記述すると、事態は次のように進んだ。
転けた。下敷きになった。そのままズルズルと滑った。スキーの板はどこかに行ってしまった……。

 頭から足下まで雪まみれになりながらスキー板を探し出し、先に降りた長男、私の体の上で無事を保った次女とともに、何とかゲレンデまで歩んだ。そう、滑ったのではない。スキー板を装着したおかげで不自由になった足を、何とか左右交互に前に出す繰り返し運動を続けたのである。

 ゲレンデに出る。倒れずに前に進む。頭にあるのはそれだけだった。人間とは不思議な生き物である。大枚の金を支払い、時間をつぶし、寒い思いをして、不自由と恐怖に身をさらす。私って、私たちって、人類って、いったい何をしているのだろう?

 札幌国際スキー場のゲレンデの、最も長いコースは山頂から3.6kmある。一気に滑り降りるとなかなか気持ちがいい。もっとも、気持ちよくなったのはずっと後日のことではあるが。

  ファミリーゲレンデは3.6kmの途中、ちょっと平らになったところから始まる。延長は1.6 km。私と息子と下の娘が降り立ったのはこの地点であった。

  リフト降り場から、ファミリーゲレンデが始まるところまで、そう、50mもあっただろうか。当面の目的地は目前だった。

 うんしょ。おっ、右のスキー板が左のスキー板を踏んでしまったではないか。次は左のスキー板を前に出す番なのに、これじゃ動かせないだろ! どけよ、右板。こら、どけって!
恐る恐る右の板を浮かせてちょっとだけ脇に動かし、 やっと自由になった左の板を一歩前に踏み出す。すると今度は、加害者と被害者が逆転する。おっとっと。どちらが善でどちらが悪か。禍福は糾える縄の如し。良くできたミステリーのように複雑な絡み合いをみせる。 スキーとは、なかなか奥が深いものだ。
それでも、我々の前進の意志は固かった。前へ、前へ、前へ…… 。

  もうすぐスロープが始まる地点にたどり着く。あと7歩、6歩……

  そんな努力、苦闘を続ける我々をあざ笑うかのように、私の目が届かないところで、我がファミリーに第2の悲劇が迫っていた。前進に集中しすぎていたのだろう。私は、迫り来る悲劇にまったく気付かなかった。だが、それは私の至らなさのせいであろうか?

 突然、私の目に、ゲレンデをリフト降り場に向かって駆け出す、多数のゲレンデ係員の姿が飛び込んできた。

 何が起きたんだ?

【初出2002年2月27日】