2003
10.10

グルメに行くばい! 第13回 :グルメ開眼

グルメらかす

今回は転勤しない。なぜか、まだ札幌にいる。

♪時計台の 下で逢って 
私の恋は はじまりました 
  (「恋の街札幌」より)

 というわけでもないが。

これまでまともに登場する機会がなかったが、名古屋で生まれた。3番目の子供である。札幌で幼稚園に進んだ。

(余談) 
貧乏人の子沢山? 
No, No! 
胸を張って言おう。少子化が問題になる時代。2人で3つの新しい生命をこの世に生み出した我が家は、国民の義務を150%果たしている。

 人間とはいい加減な生き物である。人間の子育てもいい加減なものである。
最初の子は初体験である。見るもの、聞くもの、すべて驚きだ。勢い、子供に120%の手をかける。猫可愛がりする。
2番目の子は2番手である。目新しさがない。見るもの聞くもの、1番目の子供の繰り返しである。手を抜くコツも身につけている。そこそこに可愛がり、でも手はあまりかけない。
3番目になるとどうなるか。親としては、財布の中身、家の広さなどを勘案し、

「いくら何でも、この子が最後だろう」

と考える。最後だと思うと、また子育ての情熱が甦る。手をかける。なにしろ、これが最後の子育てかもしれないのだ。勢い、猫可愛がりになる。

お疑いの方、複数の子供をお持ちの方、自宅にある子供の写真の枚数、最近ではビデオテープの本数をご確認いただきたい。最初の子供の分はたくさんあり、2番目になると急減し、3番目は、また多くなっているはずである。

このような、人間の属性に従って育てられた子供は、どのように成長するか。

長男甚六
甘えっ子末っ子
しっかり者真ん中

このようになるはずである。
そして、我が家はこのようになった。

(解説) 
つまり、子供に対する親の愛情は、時として子供の成長を疎外する。間違った愛情は子供をダメにする。 
夏休み。通勤途上の電車で会う親子連れには、その実例が多い。 
少子化時代は、一人っ子が多い時代である。過剰に愛されること、過剰に与えられることを当然と受け止め、「我慢する」「与える」という言葉の欠けた辞書しか持たない「長男の甚六」が多数を占める社会である。 
それで健全な社会が維持できるか? できるはずがない。通勤途上での多くの人が感じる不愉快さは、このようなところにも由来する。 
少子化問題の一側面である。
ん? そういえば、私は長男、妻は長女である。私の家庭って……。

 ともあれ、幼稚園に通い始めた我が次女は、甘えっ子であった。
ほとんどの朝、定刻に起きない。そろそろ起きないと、幼稚園に間に合わない時間にも起きない。
バカな親(=我々夫婦)は、

「睡眠はたっぷりとらせないと。病気になるより、幼稚園に遅刻した方がいい」

と、寝かせておく。
幼稚園の先生も、

「登園拒否になるより、遅刻の方がいいですから」

と鷹揚だ。さすがは、北の大地、北海道の幼稚園である。
たっぷり睡眠をとった次女は、やおら起き出し、朝食をとる。歯を磨く。ヘアーをブラッシングする。急ぐ様子はない。悠揚迫らざる趣である。大物だ。
食べ終えると、集団登園グループは、既に出発したあとである。いつもは妻が送るのだが、気まぐれな我が家のお嬢様は、時折、

「お父さんがいい」

とおっしゃる。
久々にご指名を受けたバカ親父は、選ばれた誇りに震えながらお嬢様の手を取り、時には肩車をし、さっそうと幼稚園までお送りする。次回もご指名を、と体中でアピールする。
仕事に遅れる? そんなことは知ったことではない。

(余談) 
ここにもサラリーマンとしての岐路があったのか……。

 最初の冬、お嬢様はスキーに乗り気ではなかった。そりゃあ、初っぱなに「スキー入門」を体験をしたのである。幼稚園に通い始めたばかりの幼子が、二の足を踏むのも当然過ぎるほど当然である。
ところが、2度目の冬は違った。札幌の空気に秋の香りが漂い始めたばかりのころ、お嬢様は宣言された。

「お父さん。11月の3連休は、3日ともスキーに行くからね」

何が彼女を変えたのかは、私の知るところではない。私は、一方的に宣言され、連休になると車にスキー用具を積み込み、運転をし、財布をはたいてリフト券を買い、お嬢様に事故がないよう、お嬢様の2mほど後ろを滑るのであった。

お嬢様がスキーにのめり込まれてしばらくしてからのことだ。藻岩山市民スキー場に出かけた。
藻岩山には、幅が狭くて折れ曲がっているものの、大変に緩やかな滑降コースがある。夏場は登山道に使われているのだろう。お嬢様は、このコースを選択された。私は、いつものように2mほどあとから、ボディーガードよろしく従った。

180度近い左カーブだった。お嬢様は両膝を緩く曲げ、やや前屈姿勢をとり、ストックを両脇に抱え込んで快調にボーゲンで滑走されていた。

「だいぶ巧くなったな」

毎週のようにスキーに通っているのである。うまくならないわけがない。が、油断はゆとりから生まれる。
カーブに沿って左折すべく右足に体重をかけようとしたお嬢様が、バランスを崩してよろけられた。危ない、と思う間もなく、左折しきれなかったお嬢様はそのままの姿勢でコースを飛び出し、急な斜面を転げ落ちて行かれた。

「やっべー!」

お嬢様にもしものことがあれば一大事である。私=バカ親父=ボディーガードの責任問題にも発展しかねない。あわてふためいて現場に駆けつけた。いや滑りつけた。
2~3mほど下にお嬢様が見えた。泣き声が聞こえた。怪我はないか、と目を凝らす。

あっちゃー!

右足にはいたスキー板の前後が入れ替わっている。正確に言うと、スキーの先端部分がお嬢様の身体の後ろを向き、後端部分が前にある。しかも、スキーのビンディングははずれていない。スキー板、スキー靴が右足に固定されたままスキー板の前後が入れ替わっているのだ。足の親指がお尻の方に向いているのだ。

この光景から、人は何を想像するか。
そうである。骨折である。しかも、ポキリと折れた単純骨折ではない。骨がねじられて破砕する複雑骨折である。

私がガードにつきながら、お嬢様の右足を不具にしてしまったのか!?

血の気がひいた。あわててスキー板を脱ぎ、お嬢様が泣きわめきつつ横たわっていらっしゃるところまで斜面を降りた。

「おい、どうした、大丈夫か!」

と声をかけても、泣くだけである。
恐る恐る、複雑骨折しているに違いない右足にそっとさわった。
足から骨が飛び出している様子はない。そこまでの骨折ではなかったのか?
上から下までさわっても、泣き声は変わらない。痛みが極限に達していて、さわられても痛みが増すことがないのか?
ここまで確かめて、恐る恐るスキー靴を脱がせかけた。脱がせかけたら、スキー靴が自然に脱げた。ん?

スキー靴のかかとの部分から、お嬢様の右足のつま先が現れた。お嬢様のかかとは、スキー靴の前(すね当てとでも言えばお分かり願えるだろうか)から出てきた。
なんのことはない。スキー靴がぶかぶかだったものだから、足がスキー靴の中で、いやスキー靴が足の周りで180°回転しただけで、お嬢様のおみ足はひねり運動を受けてはいなかった―骨折してはいなかったのである。

「この年頃は成長が早い。ぴったりのスキー靴を買うと来年は使えなくなる。1、2サイズ大きいのを選べ」

前年の春にスキー靴を買ったときに発揮した生活の知恵が、お嬢様の右足を守った。

(感想) 
1年以上もたったのに、中で足が回ってしまうスキー靴……。 
滑りにくかったろうなあ。

 それにしても、あのころの次女は可愛かった。目に入れても構わないくらい可愛かった。食べたくなるほど可愛かった。正確に表現すると、もう少し後まで可愛かった。
なのに……、いまは……。
どうして、時は止まってくれないのだろう……?

(余談) 
ふだんはどうでもいいことしか言わない先輩が、1つだけいいことを言った。
「大道君、子供ってのはね、5歳までにあらゆる喜びを親に与えてくれるんだよ。5歳までの子供って可愛くて可愛くて仕方がないだろ? 6歳からはね、5年間にもらったプレゼントのお返しを、親はし続けるんだ」
この時だけ、先輩は人生の真実を表現した哲学者であった。

 

長女は札幌に来て小学校3年生になった。しっかり者である。マイペースである。
3歳から兄と一緒に続けていたピアノは、札幌でも継続した。そう、引っ越し荷物の中に、しっかりピアノが入っていた。
だが。趣味はピアノ。特技はピアノ。そんなモノトーンの世界に閉じこもるには、長女はエネルギッシュ過ぎた。チャレンジ精神を持ちすぎていた。
彼女は札幌で、新しい分野にチャレンジした。
バレーである。
でっかい女どもが、空中に打ち上げられたボールがフロアにつかないように、滑り込みまでしてボールを空中にはじき返し、最後は憎っくき敵、憎っくきあの野郎の顔面めがけてボールをたたきつける、あの野蛮なバレーではない。

本来は地面と接する機会を持つはずがない「つま先」で立つという、とても人間業とは思えない難行苦行を、いかにも楽しげに楽々とやり遂げてしまう、あのバレーである。

(余談) 
神は、足の裏で地面を踏みしめて立つものとして人間を造形した。つま先のワンポイントで立つ人間は、神の想定外である。

 バレーの発表会があった。長女が舞台に出た。薄い衣をまとって、ほんのりお化粧して、自宅では見せたことのない真剣な表情をして、指先にまで神経を行き届かせて、舞い、踊る。けなげである。

が、何か違和感を感じた。どこか、違う。バランスがおかしい。

隣に座る妻の足に目をやった。く、かかった。

私と長女が親子であることを、あの時ほど納得したことはない。

長男は小学2年から少年野球のチームに入って、札幌に転勤する時は正捕手だった。転勤が決まると、チームの監督が我が家を訪れ、

「息子を置いていけ」

という。とまどう私に、監督は追い打ちをかけた。

「隣の、奥さんの実家に預けていけばいい。そうしてくれれば、神奈川県一の捕手に育ててみせる」

ふむ。そう言われてもなあ。やっぱ、家族は一緒に住むのが原則でしょ。それに、どうしてもと子供が望むのなら別にして、親としては長男を野球選手にする気はない。

第一、長男は親の子である。そんな特別な才能を持っているはずがないではないか。長男の意向も聞き、丁重にお断りした。
転勤がなければ、神奈川大会ぐらいでは優勝するチームの正捕手になっていたかもしれない。運がなかったと諦めてもらうしかない。

で、札幌に来た。野球を続けたいという長男の意志を尊重してチームを探し、ある人が

「ここなら大丈夫」

というところに入れた。
1年もたなかった。何というか、練習に緊張感がない。監督がノックしているとき、守備位置についていない子供たちが、グランドのあちこちで遊んでいた。練習中も笑顔が絶えないのは一見素晴らしいが、楽しんで練習をするのと、ダラダラと面白半分で練習をするのとはまるで違う。限られた練習時間をできるだけ有効に使い、楽しみながら強くなる、という熱意はまるでない。

試合を見た。ぼろぼろだった。投手が四球を出し、走者がたまると安打か失策で得点される。ほとんど自滅した投手に代わって、長男がマウンドに登った。
待てよ! うちの長男は捕手だ。投手の練習なんかしてないぞ!
長男も打ち込まれ、試合は大差で負けた。

長男が、自発的にチームを抜けた。抜けてすぐに、小学校のサッカーチームに入り、レギュラーのキーパーになった。このチームは強豪で、ジュニアサッカーの全国大会に進む有力候補だと聞いた。期待した。
子供が増えすぎたという理由で、小学校が2つに分割された。当然、サッカーチームも2つに別れた。全国大会など行けるはずがなかった。
つくづく、運のない男である。

転勤の半年前に我が家が完成したばかりだった。

「下の倉庫は壊していいから、ここに家を建てろ」

という義父の申し出に甘えたのである。
だから、転勤先のマンションが、ひどく狭く思えた。テーブルや子供の学習机は横浜に残してきた。食事はちゃぶ台で、子供の勉強はちゃぶ台で、自宅に持ち帰った仕事もちゃぶ台で、と決め込んだ。

板張りのダイニングルームにカーペットを敷き、そこに座って食事をする。勉強をする。仕事もする。

しばらくは耐えた。しかし、不便だ。といって、今さら横浜からテーブル、学習机を取り寄せるわけには行かない。会社は、追加の引っ越し荷物の費用までは負担しない。

だから、札幌を去る時には捨てることを前提に、自作した。

テーブルは、12mmのベニア板で同じボックスを2つ作り、その上に、同じ厚みの90cm×180cmのベニア板の角を丸めてを乗せた。ベニア板1枚ではフニャフニャするので、4辺に12mmのベニア板を幅10cmほどに切って貼り付けた。ボックスと天板はL字型の金具で固定した。
上からビニールクロスをかける。立派なテーブルである。足の役割を果たしてるのはボックスだから、テーブルなのに収納性もある。

椅子も自作である。ベニア板を×字型に組み合わせて足にし、その上にベニア板を乗せてL字型の金具で固定した。

部屋が狭いので、学習机は折り畳み式にしたい。書棚も兼ねたい。何日か考えた。

できあがったのは、使わないときは壁からの厚さが20cmしかない学習机である。
原理は簡単だ。まず、奥行き20cmの書棚のようなものを作る。この書棚に、テーブルを蝶番で取り付ける。さらに、このテーブルの下に、テーブルから床までの長さの扉を取り付ける。これだけである。
不使用時は、この扉を閉めるとテーブルは蝶番のところから折れ曲がって下がる。使用時は、テーブルを持ち上げて扉を開く。そうすると、扉が足の役割を果たしてテーブルが固定される。我ながら、なかなかうまい工夫であった。

(余談) 
仕上がりがどうであったかは主観的な判断になるので、ここでは触れない。評価していただきたいのは、こうした工夫である。

 さて、雑談はこの程度にしよう。この連載のテーマは食い物なのである。我が家の雑事を書き連ねたところで、美味しい食い物を食べられるわけではない。

札幌で、私はグルメ道の義務教育課程を卒業した。人様のご意見を拝聴しなくても、自分の舌で美味いか不味いかが判断できるようになった。

卒業試験に通りそうな予兆は、札幌に来たころからあった。食材の宝庫と呼ばれる北海道の県庁所在地、札幌である。

「美味いものがたらふく食えるに違いない!」

と期待に胸を膨らませて赴任したのに、食うもの、食うもの

である。私より長く札幌にいる同僚に、

「美味いもの食いに行こう」

と誘われて夜の巷に繰り出しても、私の感想は、

だった。義務教育を終えていないと思っていた私は、てっきり、我が学習が進んでいないのだと信じ込んでいた。
未熟者だと思い込んでいても、実力不十分だと自覚していても、時として、チャレンジしてみたくなることはある。おずおずと発言してみたくなることはある。

発言した。

 「札幌って、あまり美味しいものないよね。ラーメンを除くと」

 相手は、 「中欧編IX:シュコダ社」の冒頭に出てきた「旧友」である。彼は、フリーのルポライターと自称していた。もちろん、この時点では旧友ではない。知り合ったばかりの知人であった。

 だろ! だろ! そうなんだよなあ。よし、私に任せなさい! 札幌にも美味しい店があることを証明してやる。ここでダメだったらあきらめてよ」

 私に任せなさい、で紹介されたのが、やはり「中欧編IX:シュコダ社」に登場した炉端焼きの店だった。そう、店の交際費でご馳走になってしまった、あの「憩」である。

 行った。

 なるほど、他の店に比べれば、我が舌が喜ぶのが分かった。が、最初に感じたのはその程度である。いわば、相対的にましな店だと感じたに過ぎない。

 悟りは、突然やってくる。

東京で同じ職場だった先輩が、出張で札幌にやってきた。といっても、会議を1つこなすだけである。主目的は、仕事を言い訳に、すすきのの夜を楽しむことにあった、と私は理解している。

会議が終わった。後輩たる私が案内役を務めた。この案内役は、当然のように「憩」にご案内した。

ホッケの一夜干しを食べ、トバを食べ、アン肝の昆布巻きを食べ、刺身(ヒラメやソイ、だったと思う。記憶にない)、店主の息子が焼いたというぐい飲みで酒を飲んだ。私にとってはいつものことである。最後に、焼きおにぎりみそ汁漬け物を食べて、会計をした。

「いやあ、いつも申し訳ありませんねえ。うちは材料代が高いので、ちょっとお高いんですよ。本当に申し訳ありません」

 顔をくしゃくしゃにしながら、本当に申し訳なさそうな顔で店主が請求したのは9800円だった。大の大人が2人、美味いものを腹一杯飲んで食って、の料金である。

 「いや、ほんと、素材がよくないとどんなに調理しても美味しいものはできないのでねえ。だから、私んとこで出す毛ガニは、仕入れが1パイ1万円以上するんですよ。申し訳ないんで、仕入れ価格に、包丁代として1500円だけのっけさせていただいているんです」

(後日談) 
「憩」で毛ガニを食べるには、前日の夕方5時までに、毛ガニを食べるという予約を入れなければならなかった。予約を受けて、店主が仕入れに行くのである。 
ある時、強力なスポンサーがいて、前日から毛ガニを予約した。 
当日。 
「すいませんねえ。これはいいと思った毛ガニがちょっとお高くて。仕入れで1万3000円もしたんですよぉ。申し訳ないんで、今日は包丁代を1000円におまけしておきますので、許してください」 
謝ってばかりいる店主であった。

 店を出ながら、先輩がボソッと言った。

「大道、北海道はいいなあ。いい店だなあ。ホントに美味かった」

その瞬間、なんだか、分かった気になったのである。

「そうか、これが美味しいということなのか」

食べ物が美味しいかどうか判断するときの、1つの軸のようなものが私の中にできあがった。いってみれば、開眼したのである。
「憩」に通う回数が増えた。店の交際費でご馳走になったのは、その成果である。

(余談) 
その昔、画廊で店員に 
「私、絵画というヤツが全く理解できないんですよ。昔から絵が下手だったこともあるけど、ピカソを見てもルノワールを見ても、何がいいんだかちっとも分からない。ここに架けてある、私が名前も知らない画家の作品との違いがどこにあるのか、見当もつかないんです」 
と嘆いたことがある。彼がくれたアドバイスは1つだけだった。 
「大道さん、いいものを見続けなさい。高い評価が定まっている絵画をできるだけたくさん見てください。たくさん見ていると、自然に分かるようになるものです」 
食い物も同じなのだろう。美味しいものをできるだけたくさん食べる。いつか、美味しいものを見分ける判断力が身に付く。 
絵画は、いまだに全く分からないが。

 我が生活信条に従って、家族を連れて「憩」に行った。
まず、ホッケの一夜干し、キンキの一夜干し、それにトバを頼み、私は酒を飲み始めた。
妻と子供たちは、思い思いに箸を動かして、ホッケ、キンキに挑んでいる。

ホッケといっても、800円定食のホッケを想像してはいけない。なにしろ、30cm以上もある大型である。脂もたっぷりのっている。味は、定食用のホッケとは比べものにならない。これで同じ魚かと舌を疑いたくなる違いである。当時、1匹1800円
対するキンキは、1匹4000円。30cm はあろうかという大物である。こいつも脂が充分にのって美味いし、食いでがある。
高い? そう、確かに高い。が、家族で、外で食事をするなんてことは、年に1回か2回しかない。いわば、我が家にとって「ハレ」の日なのである。ケチなことは言いなさんな。

2匹とも、あっという間に綺麗に胃袋に収まった。長男が私を見た。

「お父さん、もう1匹頼んでいい?」

 「ん? いいぞ。何が食べたい?」

 「ホッケがいい」

我が長男は利口である。親思いである。親父の財布を心配したのに違いない。

「キンキでもいいぞ」

 「いや、ホッケがいい。ホッケの方が美味い

長男を誉めてやりたくなった。確かに、私の舌にも、ホッケの方が美味に感じるのである。家族を連れずに行くとき、通常、ホッケは注文するが、キンキはあまり頼まない。価格の問題ではない。

(余談) 
この長男、どうも、私より味覚に敏感な舌を持って生まれたようだ。

 東京への転勤が決まった。「憩」の店主に挨拶に行った。というか、飲みに行ったついでに、転勤が決まったことを伝えた。

 「いやあ、残念だなあ。せっかく仲良くしてもらったのに。それで、大道さん。転勤前にもういちど店に来てもらえますかね? ちょっとお渡ししたいものがあるし」

「ああ、まだしばらく時間があるし、2、3回は来るんじゃないかな」

これほど美味いものを食わせてくれた店主が、さて私に何をくれるというのか。きっと食い物に違いない。なにしろ、

私が彼について知っていることは、腕のいい調理人であることに尽きる。
彼が私について知っていることは、自分の作るものを高く評価して食べてくれる客であるということに尽きる。

こうした関係である以上、プレゼントは食い物に違いない、と私は見当をつけた。

「この店主が、私に何を食べさせてくれようってか?」

食い意地が張った私としては、涎が出そうなありがたい話である。雨が降ろうが槍が降ろうが、少なくともあと1度は「憩」に行かねばならない。

行った。
いただいたのは、まるまると太ったニシンのぬか漬けだった。2匹、無造作に新聞紙でくるんであった。

「えっ、ニシンをぬか漬けにするの?」

驚く私に、店主は、

「これが美味しいんですよ。でもね、これはものすごく塩がきついから注意してね。食べるときは、3cm幅ぐらいに輪切りにして、ぬかを払って軽くあぶるんですよ。それでね、この、小指の先ぐらいずつ食べるんです。これで酒を飲むと、いくらでも飲めます」

横浜に戻って食べてみた。ニシンの脂がぬかの味と解け合って、しょっぱいんだけれども、いや、これだけしょっぱいと体に悪いだろうなと思うのだけれども、どうしてもまた食べたくなる。本当に美味かった。いただいた2匹が、瞬く間になくなった。

あれ以来、デパートの地下などに出かけると、ニシンのぬか漬けを探すようになった。見かけると買ってみる。
だが、いただいたニシンのように美味いものには、まだ出くわしていない。

 

というわけで、今週もレシピになるような話がなかった。
畏友「カルロス」の出番である。

 北海道には、氷下魚と書いてこまいという魚がいます。美しい名前です。文字通り、氷に穴を開けて捕る魚で、鱈目です。普通は、軽く干したり、カチカチに干して金槌でたたいて柔らかくしたりして、軽く炙って食べます。鱈系の魚は、天日で干すと、より美味しくなるようです。

 さて、今回は小生のオリジナル料理です。韓国のプゴックク(鱈汁)をモデルにしました。

 材料

 こまい又は干ダラ : 約1kg
      ごま油 : 大匙4
    絹ごし豆腐 : 2丁 
        葱 : 3本 
        卵 : 3個

  カチカチに干したこまいを金槌でたたいて柔らかくし、大きな骨をはずします。一緒に皮も剥いだ方がいいでしょう。そのうえで、水につけて戻します。よく絞り、ごま油でいためます。約25分中火でいためて、その上から水を注ぎ、煮ます。

 魚からゼラチンが染み出し、雪の様に白くなるまで煮ます。こうしてできたたスープに、豆腐とネギを入れます。

 最後にお椀によそい、塩と胡椒で味付けします。さらに、溶き卵をはります。

 なお、韓国では漬けアミと唐辛子で味付けをします。個人的には、こちらの方が美味しいと思います。漬けアミが手に入ったらトライしてみてください。

以上、お試しあれ。