2004
05.28

グルメに行くばい! 第38回 :番外編4 再びロンドン

グルメらかす

かくして、私は再びロンドンの地を踏みしめた。日曜日である。
仕事はない。
用事もない
友もない。
なのに、時間だけはたっぷりある。さて、どうする?

私は、この貴重な時間を買い物にあてることにした。平日は仕事から仕事への渡り鳥で、土産を見繕う暇もないのだ。
加えて、私には買わねばならないものがあった。
コートである。
トレンチコートである。
 アキュアスキュータムのトレンチコートである。

本国イギリスでは、あのバーバリーより高級品という評価を勝ち得ているのである。

(余談) 
それまでの私は、バーバリーのトレンチコートを愛用していた。馬鹿な友人から譲り受けたものである。 
この馬鹿は、イギリスに行く友にバーバリーのコートを頼んだ。頼まれた友は、サイズを見繕って買ってきた。この馬鹿が喜び勇んで手を通してみると、な、な、なんと、手が出ない! ばかりか、裾を引きずりそうである! 
この馬鹿の身長は、自称168cm、見た目164cm。ウエスト88cm、現在は98cm。こんな体格にあうトレンチコートは、バーバリーの本店では扱っていなかったらしい。 
ということで、私に 
「8万円で、どや?」 
と売りつけてきた。 
「1万円なら買う」 
「なんと! 丸善で買うと20万円はするぞ!」 
「お前が持っていても、たんなる場所ふさぎの布きれではないか」 
とすったもんだして、確か5万円程度で買った記憶がある。 
が、この馬鹿には大きすぎたトレンチコートも、私にはやや小さかった。以来7、8年。体にフィットしたトレンチコートは、私の悲願であった。

 準備を重ねてきた。アクアスキュータムのトレンチコートは、日本では15万円前後した。1つ前の香港では、日本円に直すと約10万8000円でデパートのショーウインドウにいた。

経済原則からして、日本より、香港より、本国イギリスの首都ロンドンの方が安いはずである。なにしろ、輸送費がかかっていない。関税もかかっていない。こうした確固たる見通しの元、私はロンドンに乗り込んだのである。

(解説) 
アキュアスキュータムは将校用、バーバリーは下士官用、と聞いた。あの馬鹿がバーバリーなら、私はアクアスキュータムを選択するしかないではないか。

 まずホテルに戻る。荷物を置き、歩きやすい靴に履き替える。ロンドンの銀座通り、リージェントストリートに、いざ、出陣!

呆然とした。営業している店が1つもない! アクアスキュータムといわず、バーバリーといわず、ダックスといわず、デパートといわず、すべての店がお休みなのである。
いや、開いている店があることはあった。“Souvenir”と書いた土産物店である。入ってみると、日本の観光地で売っている観光土産のようなチマチマした物が所狭しと並んでいた。私の役には立たない!

(ご参考) 
あとで聞いた話だと、キリスト教の教えでは日曜日は安息日で、働いてはいけないのだそうである。開いていたSouvenir Shopsは、ほとんどがキリスト教の戒律に縛られないインド人の経営なのだそうだ。 
日本では、日曜日は書き入れ時である。繁華街は人の波で埋まる。 
当時は、買い物ができなかった腹立ち紛れに、 
「キリスト教って、なんと不便な宗教であることか! おかげで文化が3世紀ぐらい遅れたんではないか?」 
と慨嘆したが、いまは、日本人って、日曜日にまで儲けのことしか考えないなんて情けないではないか! と心から思っている。人生は、暮らしは、多少の不便さが混じる方が味わい深くなるのである。

 買い物はあきらめた。あきらめざるを得なかった。が、買い物はあきらめても、日曜日の午後を1人だけで過ごさなければならない事情には何ら変わりがない。時間をつぶす方策を考えた。ホテルに戻って本を読むなんてのは、この際願い下げである。そんなもの、いつだってできる。
でも、商店がすべて閉じている日曜日に、さて、どこへ?

求めよ さらば与えられん

なるほど、探してみるものである。あったのだ、いい目標物が。
大英博物館である。ロンドンに着いてすぐに買った地図“A to Z”によると、リージェントストリートから歩いていける距離にある。こいつは行かずばなるまい。

駆けつけて、入場して、私は直ちに、「大英博物館の七不思議」を読みとった。First Contactで7 wondersを読みとるところは、流石に私なのである。

 ん? 英国は、厳しいキリスト教の戒律で、日曜日は働いてはいけないのではなかったか?
この博物館の職員は、全員がキリスト教の戒律に縛られない非キリスト教者なのであるか?
職員を採用する際、応募者に、キリスト教に帰依するものではなく、日曜日に働くことも辞さないとの誓約書でも取っているのであるか?

 

 展示物は世界中からの収奪品である。なので、これまでに何度も返還要求があったが、そのたびに英国政府は断っている。
「展示物は人類の遺産であり、どこかの国に所属するものではない。それがたまたまロンドンで展示されているだけだ」
 が断る理由である。ま、盗人猛々しいというか、根拠薄弱、まるで綱渡りをしているような危うい理由である。ために、入場料を取ると、
「英国の所有物でもないのに、なぜ英国に入場料収入が発生するのか」
 と詰め寄られかねない。仕方なく、無料公開をしているのである。以上は現地にいた友人の解説であった。
しかし、すべて政府支出で運営するのはしんどいらしい。小さな政府を目指したサッチャー政権は博物館の「自立」を求め、このため入場口に「募金箱」が置かれるようになった、とも彼は説明した。入場者の自発的献金であれば、建て前が崩れることはないと判断したのである。
その結果、収支がどうなっているのかは聞き逃した。

 

 日本の美術館で、展示物に触らせてもらったことがない私は経験不足なのだろうか?

 

 ミイラは、日本なら1体だけでもりっぱな展示物になる。当然、立派な入場料を取られる。

 

 ミイラの展示室のあちこちに、たぶん美学生なのだろう、スケッチブックを持った若い女性が座り込み、熱心にミイラを写生している
我が日本の女性たちはいかがであろうか?
「ミイラ? キモーイ!」
 などといって近寄らないのが関の山?

 

 いかに言葉を飾ろうと、展示物が収奪物であることの何よりの証左である。

 

 英国から日本にやってくる間に、British Museumのイメージはなにゆえに異常成長してしたのだろう?
5万7000㎡もある建物を目にして、箱庭文化に育まれた我らが先人が、思わず「大」をつけてしまったのか?  大英帝国への翻訳者の敬意の表れか?
ということで、3~4時間かけて大英博物館を回った。
ロゼッタストーンを見た、はずである。
エジプトの秘宝も見た、はずである。
古代ギリシャの彫刻も見た、はずである。
なのに、いま、全く記憶にない。何故か?
単なる時間つぶしの散策である。注意力が行き届かなくてもやむを得ない。

(余談) 
我が同僚H氏なら必ずいう。 
「惚けたんだよ。若いなりしてても年なんだよ、年」 
反論は、あまりない。せいぜい、 
「惚けは、1つ年下のあんたのほうが進んでいるのである」 
と事実を指摘する程度である。
しかし、「惚る」と「惚る」に同じ漢字が使われているのはなぜだろう? やっぱり、どちらもボーっとしてしまうからか? であれば、惚けも悪くない

 有意義な午後であった。見たものが記憶にあるかどうかは、有意義さとは関わりはない。大英博物館に足を運んだ、そのことだけでおおいに有意義なのである。
有意義な午後を味わい尽くすと、腹が減る。ホテルに戻る前に、本日のDinnerを楽しまなければならない。

ロンドン滞在が長引くに連れて、私の食生活には1つのパターンができつつあった。
朝食は、あのパン屋さんである。
昼食は、適当である。
夕食は、インド料理が増えた。裏切られることが少ないからである。

イギリスとは、食文化の果つる土地であるとは、多くの人が指摘するところである。その事実を指摘する1人に、作家の林望さんがいる。

 「野菜は茹でる」というのが、多くのイギリス人が素朴に信奉している料理の方法で、それも、日本人がさやいんげんを青くしゃっきりと茹でる、というのとは本質的に違い、どの野菜も、延々と、呆れるほど長い時間をかけて(時には重曹入りの湯で)茹でる。その結果、たとえばさやいんげんならば、色はほとんど薄茶色に変じ、かたちもぐずぐずに崩れてしまう。あれでは、さぞ栄養も壊れてしまうだろうにと、人ごとながら心配するのであるが、イギリス人はそんなことには全く注意を払わない。ジャガイモも茹でる、人参も茹でる、イングリッシュ・グリーンというちょっとカリフラワーの葉っぱのようなごわごわした緑色の葉菜があるが、それも色が抜けるまで茹でる。さやえんどうもさやいんげんも皆茹でる。老いも若きもこぞって茹でる。そうして、焼いた肉の隣に付けあわせて、塩やグレイヴィをかけて食べるのである。手間が懸からないといえば、これほど手間の懸からない料理もあるまい。

 スウェード(swede)という、馬に食わせる程にも大きな蕪の一種がある。さしわたし十五センチほど、見るといかにも堅そうである。イギリスではスーパーマーケットでいくらでも売っている野菜であるが、日本では余り見かけない。従ってこの野菜の料理法については残念ながら知るところがなかったし、もしかするとそこには非常な珍味美菜が隠されているやもしれなかった。そこで私は、マーケットの野菜売場で、このスウェードを片手に持ち、ぬかりなく四方を観察した。やがて、いかにも念入りに野菜を選んでは籠に入れているお婆さんが近付いてきた。あのお婆さんならば、だいぶんと料理にはうるさそうだし、経験も充分と観察された。私は思い切って、そのお婆さんに歩みより、この野菜の料理法を教えてくれるように頼んだ。すると、お婆さんは、大きく頷いて自信たっぷりに答えた。 
 「まず、皮を剥くのよ。そしてね、だいたいこのくらい(と指で三センチ程のサイズを示し)の四角に切ってね、そして、茹でます。四十五分から五十分くらいはかかるわね、茹でるのに。そして、食べる!」 
 その最後の所を「And, just eat it! 」ときっぱり言い切ると、彼女はにこりと微笑んだ。 
 何だ、結局、茹でるだけであったのだ。 
(「イギリスはおいしい」=平凡社より)

(私からの注) 
グレイヴィ=肉汁をワインでのばし、香り付けにバターを加えて煮詰めたソース。

 これが、食の面から光を当てたイギリスである。

「料理? そんなものは、世界中の植民地から料理人を連れてきて作らせればいい。我々はもっと高尚なことに時間を費やさねばならない」

と誰かがいったから、イギリスにはお国自慢の料理がない、という、本当か嘘か分からない、もっともらしい話もある。

これがイギリスである

従って、夕食に英国料理は避ける。
ソーホーにはチャイナタウンがあって中華料理店が並ぶが、こちとら、中華料理の本場香港から来た者である。ロンドンまで来て、なにゆえに中華料理を選択しなければならないか。

などと切り分けていくと、選択肢が徐々に狭まる。
狭まった選択肢の中で、あえてインド料理を選んだのは、これはもう、縁としかいいようがない。
ホテルの近くに、インド料理店があったのである。ものは試しと試みたら、実にリーゾナブルであったのである。

まず、生ビールを大ジョッキで頼む。タンドリーチキン、あるいはシークカバブ、それに野菜料理を添える。そう、カリフラワーのクミン炒め(「グルメに行くばい! 第30回 :カリフラワーのクミン炒め」を参照してください)でもいい。インド風餃子とでも呼びたくなるサモサも頼むか。ついでに、スープもいっちゃえ!
このタンドリーチキンが美味いんだよなあ。本当はかじりつきたいんだけど、ま、町中のレストランではそうもいくまい。ナイフとフォークで切り分けて、と。うむ、なかなかいい味つけと焼き具合だ。あれっ、ビールがもうなくなっちゃったよ。よし、ビールをもう一杯!

栄養のバランスを取るには、野菜料理も欠かせませんよ。なにしろ、旅はまだ始まったばかりなのだから。ほーっ、カリフラワーも丁寧につくってあるわ。クミンの香りがプンとたって、いいですよ、これ。
サモサは、こいつもナイフとフォークで切り分けて、と。外側はカリッと焼き上がって、中はまだ柔らかい。ふむふむ。ビールをもう一口、と。
食べちゃった。飲んじゃった。最後にカレーとサフランライスで仕上げよう。ふーっ、美味かった! 余は満足じゃ!
これであなた、10ポンドから12ポンド、つまり2400円から2900円というところである。日本でインド料理を食べるより、はるかに安い。あのパン屋さんの価格体系が、ここにも生きている。

(ご参考) 
インド料理は、おおむね辛いものと相場が決まっている。辛い料理を食べ終えて、ひりつく口を抱えて店を出るのか?
ご安心召されよ。食べ終えて、マンゴージュースを飲めば、辛みがぴたりと治まる、とまでは行かないが、ずいぶん辛みを抑えることができる。不思議な取り合わせである。

 こうして私は、ロンドンでの1人だけの夕食は、せっせとインド料理店に通った。大英博物館の散策を終えたあとも、迷うことなく博物館の近くのインド料理屋に足を踏み入れ、すっかり満足してホテルに戻ったのである。

かくして、我が衣服には、日を追って香辛料の臭いが染みついていった。我がロンドンの香りの想い出である。