2006
09.04

2006年9月4日 ビッグバン宇宙論

らかす日誌

8月24日の日誌で、好色 義経記を読み始めたとお伝えした。
過日、読了した。

これ、小説だろうか? ハイライトシーンはある。だが、一貫したストーリーがない。この本だけでは、義経なる人物の生涯が、細切れにしか分からない。
もちろん、ずいぶん昔の人だから、生涯の全貌が今に残っているわけではなかろう。だが、失われた断片を想像力でつなぎ合わせて再構成したものが歴史小説であるはずだから、これは歴史小説ではない。

そう思って裏表紙を見たら、

「そんな義経の素顔を求め、大胆な推理と解釈を加えて講談調に仕立てた、爆笑の一代記」

とあった。なるほど。だけど、爆笑だったら落語調と表現した方がいいのではないかい? 歴史はピッピッピで作られるという、ま、ホントかもしれない解釈を強く打ち出しているところは、艶笑落語にたくさんの材料を提供できるかも。

NHKの大河ドラマでやった「義経」や、司馬遼太郎の「義経」とあわせて鑑賞することをお勧めする。
世の中には様々な義経像が存在しうることを、驚きとともに、あるいは慨嘆とともにご理解頂けるのではないかと思う。

大道裕宣像も、たくさん存在しうる……。

この本を読んでこの日誌を書き始めるまでに、もう1冊読了した本がある。

ビッグバン 宇宙論(サイモン・シン著、新潮社)

である。新聞の書評で見て買い、しばらく書棚で眠っていた本だ。

一言で言う。面白い! 読み進むに連れて先を読みたくなる。結果として、食事をしながら読みふけって我が妻に叱られたり、「らかす」の原稿を書くはずの時間を読書に費やしたりと、弊害は数々あった。だが、弊害が気にならないほどの知的興奮を体験することを保証する。

しかし、人間とはたいしたものである。
太陽は地球を回っているように見える。夜空で輝く星たちも地球を回っているように見える。

ほとんどの人が、自分はそんな世界に住んでいると信じて疑わなかったのに、ひょっとしたら違うのではないかと考えた少数の人々がいた。そして彼らは、実は地球が太陽を回っており、星は時とともに場所を変えていることを解き明かしただけでなく、宇宙の始まりまで見つけ出してしまった。そんな知的な営みの歴史が、ほとんど数式を使わず、実に分かりやすくまとめられている。恐るべき筆力だ。

なかでも、なるほど、と思ったのは、それぞれの時代で、なぜ宇宙の姿が違ったのかを公平な目で記述してあることだ。現在の知識で、昔の人は知識が足りなかったと一刀両断にすることがない。

例えば、ガリレオが望遠鏡を天体を観測できる器具にまで育て上げ、それを使って天体の観測を始めたあとの1610年に、なぜ天動説が主流だったかを一覧表で見せる。

天動説 地動説
常識 すべてが地球のまわりを回っているのは当たり前のように見える。 地球が太陽の周囲をめぐっているとみなすためには想像力と論理の飛躍がまだ必要。
運動の感知 運動は検出されない。したがって地球が動いているはずはない。 ガリレオはなぜわれわれが太陽のまわりを回る地球の運動を感知しないのかを説明しようとしていた。
地表への落下 地球が中心であることにより、なぜ舞台は下に向かって落ちるのかは説明できる。すなわち、物体は宇宙の中心に引き寄せられるのである。 地球が中心でないモデルでは、物体が地面に向かって落下することに対する明白な説明はない。ようやく後年になって、ニュートンがこの文脈において重力を説明することになる。
恒星の視差 恒星の視差は検出されない。視差がないということは、地球が静止しており、観測者も静止していることと合致する。 地球が動くのだから、視差がないように見えることは、恒星が非常に遠くにあることを意味する。よりよい装置を使えば視差は検出されるかもしれない。
惑星運動の予測 非常によく合う。 ケプラーの貢献以降、完全に合う。
惑星の逆行 周転円と導円で説明される。 地球の運動と我々の視点が変化することから自然に説明される。
シンプルさ 非常に複雑である。惑星ごとの周転円、導円、エカント、離心円。 非常に簡単。すべては楕円運動をする。
金星の満ち欠け 観測された満ち欠けを説明できない。 観測された満ち欠けをうまく説明する。
太陽と月の傷 問題である。このモデルは天は完全だと主張するアリストテレスの宇宙観から生まれている。 問題ではない。このモデルは天体が完全か完全でないかについては何も主張していない。
木星の衛星 問題である。すべては地球のまわりを回るはず! 問題ではない。このモデルでは中心が複数あってもかまわない。

 どちらの理論が、よりよく宇宙を説明できるか。地動説は、望遠鏡を使ったガリレオの観察のおかげで、古い天動説に肉迫していた。だが、地球が動いているようには感じられず、重力への理解もなかったこの当時、天動説は多くの天文学者は依然として天動説を当たり前のことと受け止めていた。

 いや、お恥ずかしいことに、この本を読むまでは、ガリレオが宗教裁判にかけられ、

「それでも地球は動く」

とつぶやいた話は知っていたが、それは無知蒙昧な教会が、真理を弾圧した話としてしか理解していなかった。だが、宗教裁判がまっとうかどうかは別として、教会側にもガリレオの見解を非とする理屈はあったのである。教会の目、あるいは当時の知の巨人たちの目には、ガリレオは無知蒙昧で虚言癖のある、世の中に有害無益の男に見えていたのかもしれない。

こんな本が面白くないわけがない!

光の速度は、観測者に対して一定であることを基礎とした特殊相対性理論、重力理論としての一般相対性理論を創造し、宇宙研究の基礎を築いたアインシュタインさえも、当初はビッグバン理論を批判していた。

宇宙を理解するには、原子構造や核分裂、核融合の解明がが必要だった。

など、興味深い事実を次々に挙げながら、著者は我々をビッグバンにまで連れて行く。

ビッグバン理論の前に最後まで立ちふさがった理論を、定常宇宙モデルというそうだ。

「宇宙は膨張しており、銀河と銀河の間に広がっていく空間では、たえず新しい物質が生成されているとする宇宙のモデル」
(用語解説から)

という説明で理解しにくかったら、本文を読んで頂きたい。分かったような気になることは保証する。

この2つのモデルを比較するのに、著者は7つの評価基準を用意する。

・赤方偏移と膨張宇宙

 ・元素の存在比

 ・銀河の形成

 ・銀河の分布

 ・宇宙マイクロ波背景放射

 ・宇宙の年齢

 ・宇宙創造

である。

1950年、ビッグバン・モデルがうまく説明できたのは、赤方偏移と膨張宇宙だけだった。だから著者の採点は、○が1つ、×が2つ、残りは?である。

逆に、定常宇宙モデルは○が3つ、残りは?。この時点では、定常宇宙モデルの方がよりよく宇宙を説明する理論だったのだ。

しかし、1978年の段階になると、ビッグバン・モデルは○が5つに増え、残りは?。定常宇宙モデルは○が2つに減り、×が3つ、?が2つとなる。こうしてビッグバン・モデルが定着するのである。

私程度の読者にも、なんだか宇宙の構造が理解できたような気にさせてくれる本である。いまなら、ホーキンス博士とも議論ができそうだ。

ビッグバン宇宙論を強く推薦する。