2008
08.01

2008年8月1日 続シリーズ夏・その9 スパゲティ

らかす日誌

自分で確かめたことはないが、8月の初旬は統計上最も気温が上がる時期なのだそうだ。関東地方の週間予報を見ると、次の日曜日から最高気温33℃、34℃の暑い日が続く。とうとう、我が最大の敵「暑さ」の本隊登場ということか。
私はまた呪文を唱える。

 「あと1ヶ月半、あと1ヶ月半……」

 

唐突だが。
あなたは、生まれて初めてスパゲティを食べた時のことをご記憶だろうか?
皿が運ばれてくる。見ると、ざるうどんのようなものが乗っている。いや、よく見るとうどんより細い。これは一体何なのだ?
それだけならショックは小さい。私にとっては初めての食べ物だが、欧米では広く食されているらしい。だとすれば、食って食えないことはないはずだ。
ショックは、皿に添えられているフォークである。えっ、このうどんみたいなヤツ、箸で食べるんじゃないの? フォーク……。これでどうやって、このひょろひょろと長い食品を口に運べばいいんだ? この細いヤツを1本1本突き刺すのか?

恐らく、あなたはそれほどのショックもなく、スパゲティとの初対面を済まされたはずだ。通常は親、あるいは物知りの友がそばにいてフォークの使い方を教えてくれる。なるほど、このフォークをそうやって使うのか。最初はぎこちないかも知れないが、2度、3度と試みるうちに、コツの一端ぐらいは身に付く。そこまで進めば、スパゲティとの2度目の対面はスムーズに進む。

だが、生まれて初めてスパゲティ+フォークという組み合わせに出会った時、そばにいる日本人は誰1人ノウハウを知らず、ノウハウを身につけているのは、我々には外国語である英悟しかしゃべらない人間だけだったらどうか。おい、このうどんの親戚を、フォークでどうやって食べるんだ?
私はサンフランシスコで、そんな危機に陥った。

で、私はどうなったか。話をそこへ進める前に、私が危機に陥った経緯をご紹介しなければなるまい。

サンフランシスコの毎日は多忙だった。
彼の地で新聞経営者として成功している日系人を表敬訪問した。まず新聞社を見学し、夜は自宅に招かれて食事をご馳走になった。私が、この世に「フルーツポンチ」なるものがあると知ったのは、ここである。

農園を経営して成功した日系人は、バーベキューパーティに招いてくれた。広い庭で肉を焼きながら、そのおじさんは

「ほら、腹にはいるだけ食べなさい。まだまだたくさん買ってあるから、遠慮しちゃいけないよ。子どもは食べたいだけ食べなきゃ」

と次々と肉を皿に入れてくれる。1枚が100g以上もある牛肉である。
当時、牛肉は高級品である。我が家の食卓に顔を出すことが、さあ、年に何回あっただろうか。出てきても、2、3回箸を運ぶと、私の分は終わりである。腹一杯食べるなんてのは夢のまた夢だった。
それを腹にはいるだけ食べろって?!

「あのー、少しお聞きしたいんですが。この牛肉、1枚いくらぐらいするんですか?」

ご馳走になりながら、出てきた食品の価格を尋ねる。大変に失礼なことである。それは分かっていたが、私は知りたかった。日本ではほとんど目にすることがない牛肉が、10人の子どもと、それに倍するほどの大人たちの全員が、腹にはいるだけ食べるほど用意されている。すげーっ。
私は、アメリカの豊かさの程度を知りたかったのである。

「うーん、1枚1ドルぐらいかな」

食った、食った。少なくとも6、7枚は食べたはずである。とすると、1ドル=360円×7=2520円。
私の1ヶ月分の新聞配達料以上が一夜にして私の腹に収まった。

「肉を食べたらバナナもあるからね。あ、君、1本ずつ取らなくていいよ。食べたいだけ、そう一房持って行きなさい」

バナナを一房……。アメリカの豊かさに目を見張った。

ご馳走になればお返しをする。gentlemanの常識である。 我々little gentlemenにも常識は備わっていた。ちゃんとお返しをした。、である。
私が指揮する(いつの間にか、そんな立場になっていた)少年少年合唱隊が整列した。日本を遠く離れて農園経営で成功し、いまやアメリカに根を張ったこの方も、きっと日本が懐かしいはずだ。最近の日本の歌はご存じないはずだ。
少年少年合唱隊は、確か3曲ほど披露した。むろん、曲名までは記憶にない。だが、農園経営者の目に滲むものを見た記憶はある。

野球場へ大リーグの試合を見に行った。地元チーム、サンフランシスコ・ジャイアンツとどこかの試合である。

 “Peanuts! Peanuts! ”

という黒人のピーナツ売りの声が、何故か耳に残っている。

多彩な日程が組まれていた。どれもこれも、心から楽しかった。だが、私はまだ、サンフランシスコでのメインイベントをご紹介していない。
新聞配達、である。

宿舎を出たのは、朝の4時半頃だったろうか。我々は車に乗せられ、真っ暗なサンフランスシスコの町を走った。

「販売店に行くのかな?」

それが日本の常識である。日本の新聞配達はまず販売店に行き、自分が配達する分だけ新聞を持って配達に出る。

ところが、日本の常識はアメリカの常識ではなかった。私は、見も知らぬ四つ角で車を降ろされた。

「ほら、あそこに新聞の束が置いてあるだろ? あそこで待ってなさい。すぐにこの地区受け持ちの新聞少年が来るから、彼と一緒に配達して」

サンフランシスコでは、新聞配達員は販売店には行かない。新聞社がトラックで新聞を運び、町の拠点、拠点に必要部数だけ落としていく。配達員はその地点まで行き、配達する。

「ここはねえ、1年中ほとんど雨が降らないから出来るんだよ。雨の多い日本じゃとてもこんなことは出来ない」

車が去った。私はたった1人で、サンフランシスコの暗い街角に放り出された。
えっ、こんなこところで? お化けは出ない? 変なヤツが突然現れたりしない? いや、誰も来なかったらどうする? 宿舎への道は分からないぞ。どこに行けばいいってんだ……。それに、これから現れるかも知れないヤツって、英語しかしゃべれないんだよな。そんなんと2人きり? ひと言も話が通じなかったらどうするんだよ。俺、日本に、故郷に帰れなくなったらどうしよう……。
人間とは弱いものである。想像は、どんどん悪い方に向かう。自分で作り出したイメージに自分が怯える。

が、まあ、確かにここには新聞の束が積んである。いずれ、誰かがやってくるのだろう。俺の運命は、これから現れるヤツに託すしかないじゃないか。思いまどうなんて時間の無駄。いまは、じっと待つしかない。

という覚悟が、中学3年生の私にできあがっていたとは思えない。だが、覚悟が固まろうが固まるまいが、私にはじっと待つしか選択肢はなかった。

“Hi! ”

といいながら彼が現れたかどうか、記憶にない。

 “Oh, hi. How do you do? ”

と私が応じることができたのか、全く確信がない。
だが、彼は現れた。年の頃も背の高さも私とあまり変わらない。違うのは、彼は彫りの深い顔をした白人のアメリカ人で、地面から腰までの距離が長く、私は扁平な顔をした日本人で、彼よりも腰が下にあることぐらいである。
彼は、たしかクリスといった。
お互いに通じたのか通じなかったのか判然としない挨拶、自己紹介を済ますと、早速新聞配達に取りかかった。コミュニケーションがうまく取れないときは体を動かす。気まずい時間を作らないためのノウハウである。

配達を初めて、私は日本とアメリカは全く違う国、全く違う社会であることを思い知らされた。新聞の配り方が全く違うのである。

概ねの方はご存じないと思うので、やや詳しく解説する。
いま、私の住む横浜市では、新聞を届けてくれるのは20代のお兄ちゃんたちだ。彼らは50ccのバイクの荷台に新聞を積み、ババババッとエンジン音をさせながら軒から軒を回り、荷台の新聞の束から1部ずつ抜き取って各家庭に届ける。

私が新聞を配っているころは違った。自転車で配る場合は、エンジン音がしないだけで、いまのお兄ちゃんたちとやり方はほぼ一緒だ。違いは、ほとんどの新聞少年たちが歩いて新聞を配っていたことだ。歩いて配るには、一定のスタイルがあった。
まず、必要部数だけ新聞を取り出し、綺麗に積み重ねる。この新聞の束を、長い軸に沿ってそのまま2つ折りにする。それをやや厚めの紙でくるみ、ばらけないようにする。
くるみ終えたら、幅の広いひもを右肩にかけ、新聞の束を左の脇に抱えてひもをその下で結ぶ。こうして新聞を持ち歩くのである。
配るときは、内側から1部づつ抜き出す。抜き出した新聞は、新聞受けがある家庭は新聞受けに入れる。ない家庭はほかの工夫がいる。引き違い戸の玄関の家は、その引き違い戸の隙間から中に入れる。ドア式の玄関だと、下の隙間か、あるいは上の隙間を狙って中に入れる。木戸に挟む家もある。とにかく、それぞれの家で、新聞を入れるところが違う。
それが、当時の日本の常識だった。

クリス君は違った。
彼が取り出したのは、頭からすっぽりかぶる布製の道具だった。こいつはなかなかよくできていて、前と後ろがカンガルーのお腹にあるような袋になっている。その両方の袋に、詰め込めるだけ新聞を詰め込むのである。そして、前にある袋から1部ずつ新聞を取り出す。前の袋の新聞がなくなると、首を中心にしてこの布製の道具をくるりと回す。後ろにあった、新聞が詰まった袋が前に来て、新聞がなくなった袋が後ろに行く。

「よくできてるなぁ」

当時アメリカは、世界で最も進んだ工業国であった。工業は様々な創意工夫の集積である。そのアメリカは、こんなに便利な新聞配達の道具を作り出している。

「そりゃあ、戦争に負けるわなあ」

各家庭への届け方も独特だった。
袋から取り出した新聞を、クリス君は3つ折りにした。そして、一方の端を他方の端に挟み込む。こうすると、新聞はばらけない。彼は道路から、このように加工した新聞を、配達先のドアに向かって投げるのである。まだ暗いサンフランシスコの住宅街に、ドン、ドン、ドンと新聞がドアにぶつかる音が響く。
これがアメリカの新聞配達スタイルだった。新聞を1部ずつ、確実に各家庭の中に入れる日本の流儀に比べれば遙かに楽である。

だが、お立ち会い。このおおざっぱさがアメリカの工業をダメにしたのではないか? この細かな神経の使い方が、日本の製造業を世界一にしたのではないか? というのはあと知恵ではあるが、案外あたっているかも知れない。

こうして我々は新聞を配り終えた。時刻はまだ6時過ぎである。私の迎えは来ない。

“Would you come to my home?”

とクリスがいったかどうかは忘れた。だが、いずれにしろ、私は彼の部屋に招かれた。新聞を配りながら、通じるか通じないか判然としない英語での会話の成果である。
私はビートルズが好きだと言った。
クリスは、ビートルズのレコードなら持っている。仕事が終わったら僕の部屋でビートルズを聴かないか、と提案した。
一も二もなく、その提案に乗った。いずれにしろ、迎えが来るまでは私は暇なのである。時間を潰さなければならない。

クリスの部屋は、妙に細長かった。いま思えばたいしたものではなかったが、彼はレコードプレーヤーを持っていた。電源を入れると、ビートルズのアルバムを載せ、ピックアップをおろした。

 It won’t be long yeh, yeh, yeh
 It won’t be long yeh, yeh, yeh
 It won’t be long yeh, till I belong to you

これ、これ、これーっ。俺、アメリカでビートルズを聴いてる!

“You drink milk? ”

ありがたくいただいた。クリスが自ら牛乳を温め、コップに入れて持ってきてくれた。家族はどこにいるのだろう?
俺はポールがいい。いや、ジョンの方が格好いいぞ。リンゴだって可愛いじゃないか。ジョージは渋いよな。君の好きな曲は? 2人でビートルズを熱く語った。はずである。田舎の公立中学3年の英語力が通用していたら、の話ではあるが。

我々はスパゲティの話から遙かに遠くに来てしまった。おいおい、スパゲティはどうなったという読者もいらっしゃるだろう。私がこう書いたので、そういえばスパゲティの話だったな、と思い起こされた方もいらっしゃるかも知れない。
皆さん、間もなくです。間もなくスパゲティに戻ります。あと少しだけお付き合い下さい。

クリスの家まで迎えが来たのは7時頃だった。クリスには心から礼を言った。わずか数時間一緒にいて片言の英語で語り合っただけだが、10年来の知己のような気がしていた。が、もう2度と会うことはないだろう。彼に別れを告げて車に乗り込んだ。

なのに。
私はクリスと再会した。それも、その日の昼である。昼食を取りにレストランに行ったところ、クリスたちが待っていたのだ。新聞社の引率の人達が仕組んだサプライズだった。

そこでクリスとどんな挨拶をしたか、話をしたかは全く記憶にない。
記憶にあるのは、我々の目の前に出てきたのがスパゲティだったことだ。

繰り返す。
目の前に皿がある。うどんに似たものが乗っている。横にはフォークしかない。どうやって食べる? なにしろ、15歳になって生まれて初めて遭遇した食べ物なのだ。

いや、私に記憶力がなかったら、フォークですくい取ってすすり込んでいたに違いない。ところが邪魔なことに、私には人並み優れた記憶力があった。日本を発つ前に、私は西洋料理のマナーを学んだのである。その一節に、こんな行があったのをご記憶だろうか?

 「洋食では、音をたてることを嫌います。和食では、うどんや蕎麦は音をたててすすり込むのが粋な食べ方ですが、洋食にはそんなマナーはありません。スープも、音をたててすすってはいけません」

音を立ててはいけない。だから、このうどん様のものはすすり込んではいけない。だったら、どうやって食ったらいいのよ!

周りにいるのは、私と同程度の常識しかない派米少年たちと、私には半分も理解できない英語という不可思議な言語を操るサンフランシスコの少年たちである。
サンフランシスコの少年たちなら、スパゲティの食べ方ぐらい知っているだろう。だが、英語で何と言って聞いたらい? 聞けたとしても、彼らの答えが理解できるか?
ともに不可能である。だったら、この青い目ばかりのレストランで、日本男児として恥をかかずにスパゲティを食うにはどうしたらいい?
私は必至で考えた。
ねえ、あなたが私だったら、どうしました?

「そうか!」

やはり私は、当時からただ者ではなかった。これしかない、という答えを直ちに見つけたのである。
見る
アメリカ人たちの食べ方を見る。
見て、真似る
これしかない。

見た。
彼らはスパゲティの山にフォークを突き刺し、フォークをくるくると回していた。そして、フォークの先にスパゲティを巻き付け、それを口に運んでいる。

なるほど。そうやるのか。意外と簡単そうではないか。私にもできるはずだ。
早速実行した。フォークを突き刺す。くるくる回す。フォークを持ち上げる。これでフォークの先にスパゲティが巻き付いているはずだが……。
!!
確かに巻き付いている。だけど、尻尾がいっぱい出てるぞ! フォークから垂れ下がっているスパゲティが何本もあるぞ!
仕方なく、そのまま口に運んだ。垂れ下がったスパゲティは、仕方なくすすり込んだ。できるだけ音がしないようにすすり込んだのは言うまでもないが……。
私は日本男児として、戦勝国アメリカの大衆の前で恥をかいてしまったのだろうか? 彼らは、ジャップとはその程度の生き物よ、とせせら笑ったのであろうか……。

というところまでは記憶にある。だが、あの時、サンフランシスコで食べたスパゲティがどんな味だったのか、どれほど考えても思い出せない。俺、本当にスパゲティを食ったのか?
サンフランシスコ滞在中の最大のイベントは、このように幕を閉じた。

 

以下は、後日胆である。
大人になっても、スパゲティの食べ方には悩んだ。フォークをスパゲティの山に突き刺す。そのままくるくると回す。そしてフォークを持ち上げる。あれっ? フォークに巻き付いてない尻尾が垂れ下がってる! この尻尾、どうしてくれよう?
長い間、私はしっぽを噛み切った。こうすれば、口に入れるのはフォークに巻き付いている分だけである。すすり込まなくても済む。噛み切った尻尾は皿に落ちるから、次の時にフォークに巻き付ければいい。
だが、噛み切るとは、噛み切ったしっぽを皿に落とすとは、かなり下品な食べ方ではないのか?
更に悩んだ。
そのうち、フォークとスプーンでスパゲティを食べる一群が現れた。まずスパゲティを軽くフォークに巻き、それをスプーンの皿の部分に押し当てて更にフォークを回す。そうすることで、フォークで取り分けたスパゲティのほとんどがフォークに巻き付く。すすり込む必要はなくなる。なるほど、なかなか考え抜かれて手法である。
だが、私はスプーンを手に取ることをひたすら拒んだ。これ、ちょいと見にはスマートかも知れないが、違うだろ? 目が青い連中はスプーンなんか使ってないぜ! 道具を使って奴らと同じになろうというのは逃げじゃないか? イチローは特別な道具は何も使わず、大リーグの超一流選手になってるぞ!!

ある時、

「なるほど」

という食べ方をしてる女性を見た。レストランで、ああ、あの人の食べ方は綺麗だな、と思ったのでじっと見ていたのだ。
彼女の手法はこうだった。
スパゲティの山にフォークを突き刺すところまでは一緒だ。だが、彼女はそのままくるくるとは回さない。まずフォークを引き上げ、フォークにつられて出てきたスパゲティを山から切り離す。その上でフォークをくるくると回すのである。こうすると、スパゲティは見事にフォークに巻き付き、一口分となる。
実に優雅なスパゲティの食しかたである。

以来、私は胸を張ってスパゲティを食べられるようになった。
ん、だからどうしたって?
いや、それだけのことなんですが……。ご参考にはなりませんか?

我々はサンフランシスコでの日程を終えた。次に向かったのは、ヨセミテ公園だった。