2008
10.10

2008年10月10日 私の画像

らかす日誌

私はネット上で、安堂礼人を名乗っている(現在は実名にしております=2017年9月13日のコメント)。もちろんペンネームである。実名だと、勤め先や知人との関係が何かとややこしい。だから、このサイトを立ち上げる時、ペンネームで行くことに決めた。

さて、どんな名前にしよう?
デジキャス時代は「アンドレ」であった。いくらペンネームとはいえ、健康な日本男子にバター臭い名は似つかわしくない。今度は日本の名前せねば。日本人である私は、そう考えた。であれば、私の実像を彷彿とさせる名前にしたい。推敲に推敲を重ねた。

その美しさをとればキムタクか。いや、キムタクもだいぶ老けてきた。
その知性をとれば南部陽一郎か。ふむ、「自発的対称性の破れ」なんて何のことか分からないが。
その先見性からすれば、坂本龍馬か。いやいや、私は15、6歳まで寝小便をしていた男とは違いをはっきりさせたい。
その文章力に着目すれば、夏目漱石といきたいが。やっぱり畏れ多いかな。



とあれこれ考えていたら、面倒くさくなった。まあいいか、「アンドレ」を出来るだけ忠実に漢字に直しちゃお。とすると「アンド」は安堂、と。「レ」は礼人でいいか。

という次第で決めたペンネームである。ペンネームを使うぐらいだから、これまで、私や私の家族の正体がばれる画像は、一切お見せしてこなかった。
ところが本日、気が変わった。私は、私の画像をお見せする。

さあ、ご笑覧あれ!!

 長女の長男、啓樹の目に映じた私の顔である。鼻の下から顎にかけてのチョボチョボは、無精髭であろう。私は原則として、休日は髭を剃らない。だから啓樹といる時はいつも無精髭を生やしているのである。
そして、眼鏡の奥にある小さい目、あくまでにこやかな口元。3歳9ヶ月の幼児が描いたとは思えないデッサン力ではないか。なにやら、顎の長さまで実物に似ているような気がしてきた。しかも、上部に「ぼす」とある。啓樹が私を「ボス」と呼んでいることの表れだ。
丸っこい鼻。うん、これも現実をよく映し出している。ん、でも鼻の上に描かれた円は何だ? ひょっとして鼻の穴か? おいおい、そこまでリアルに描かなくてもいいんだけど……。

さて、これで私の顔かたちをしっかりと記憶に刻んで頂けたことだと思う。街角やバスの中、電車の中でお見かけいただいたら、気軽に

 「安堂さん!」(現在は大道さん)

と声をかけて頂きたい。お待ち申し上げる。

ついでである。我が妻も啓樹の手で表現された。

頭書きは「ばあば」。啓樹は彼女をこう呼ぶ。
この絵もなかなかだ。確かに妻は、赤いツルの眼鏡をかけている。眼鏡1つ描くのに、色まで考えるとはたいしたものだ。そして、眼鏡の奥にある目は、私の目より大きい。これも現実である。無精髭が描かれていないのも、観察の細かさを伺わせる。
でも、左右のほっぺから飛び出したラインは何だ? 「ばあば」はイヤリングなどしないぞ。耳でもないようだし、顔から飛び出すほどの皺がある、ってか……?
こちらには「けいじゅ」の落款まで入っている。「ボス」の絵にはなかったのに。

 

四日市からこの絵が送られてきて、かれこれ1ヶ月になる。ざら紙に描かれたものだが、これを手にした「ばあば」は喜んだ。この絵を持っていそいそと川崎のさいか屋へ出かけ、額装を頼んできた。いま我が家には、額に入った2枚の絵が飾られている。
ったく、ばあばばか、だよな。

さて、その啓樹であるが、最近、凄く行きたいところがあるらしい。幼稚園ではない。プールでもない。トイザらスでもなく、ディズニーランドでもない。

「啓樹、横浜のボスの家に行きたいの」

と口にしているらしい。
まだ4歳にもならぬのに、人の心を鷲づかみにする言葉の使い方を身につけている。恐るべき言語の才である。

啓樹が登場して瑛汰が出てこないのは可哀想だ。

昨日、瑛汰のパパは仕事が休みだった。そこで次女一家は、パパの実家に行くことを計画、朝、瑛汰にそう告げた。
聞いた瑛汰の目から、みるみる涙があふれ出した。ポロポロと涙を流しながら瑛汰はいった。

「瑛汰、ダイ(と瑛汰は私を呼ぶ。そのうちボスに買えてやろうと思っている)がいい」

ということらしい。

そういえば私は、昔から子どもにもてた。年配のご婦人にも可愛がられた。

「いや、俺が欲しいのは……」

の「……」部分、つまり妙齢の女性は、なぜか先輩女性に学ばず、幼い子どもたちの嗜好にも無縁だった。つまり、若くていい女からは無視されることが多かった。

なのに、である。私の血を引いているはずなのに、
言葉に巧みな啓樹、涙の使用法を心得ている瑛汰。
こいつら大人になったら、女を泣かせまくるんじゃないか?
なんだかうらやましさが募る今日この頃である。