2008
11.12

2008年11月12日 私と暮らした車たち・その10 ゴルフの3

らかす日誌

我が黄色いゴルフが、北海道の大地を疾駆する!
という希望に胸を膨らませて、北海道・札幌の地に降り立った。1985年3月31日の午後のことだった。
この日から、我が黄色いゴルフが勇躍北海道の大地を走り始めるはずだった。なのに、大誤算で始まったことは、「グルメらかす 第12回 :札幌ラーメン」に詳しい。過去の傷を2度も人前にさらす神経を私は持ち合わせていない。傷の正体を知りたい方は、そちらを読んで頂きたい。

その年の夏、我が家族は道東旅行に出た。せっかく北海道に住んでいる。札幌市か知らないのでは、北海道の100分の1も知ったことにはならない。ここは借金をしてでも北海道を回るべきである。
と私は考えた。

旅行プランは綿密に立てた。札幌を発つのは日曜日。最初の目的地は釧路支庁の白糠町である。ここのキャンプ場に宿泊する。2日目は阿寒湖、摩周湖を回り、根室支庁の羅臼町でバンガローに泊まる。3日目の目的地はサロマ湖畔である。宿舎は民宿を使う。そして4日目は大雪山までひた走り、ホテルに投宿する。

4泊5日という豪華な日程は、人間における疲労の問題を深く思考した結果作り上げたものだった。
簡単に言うと、まあ、最初の日は元気だ。キャンプでいい。2日目は、それに比べれば多少は疲労もあろう。屋根付きのところで寝たい。3日目ともなれば、布団で寝たくなるのは人情である。最終日は疲れがたまっているであろうと想像できる。サービスの行き届いたホテルでゆっくり体を休めたいではないか。

という考え抜かれたプランのもと、我が黄色いゴルフが北海道の大地を疾駆しはじめた!

いま我が家の流行歌は、ボブ・ディランの「Born in Time」であり1970年前後の岡林信康のライブアルバムである。
当時の我が家の流行歌は、これしかなかった。チェッカーズである。小学5年生の長男も、3年生の長女も、幼稚園に行き始めた次女も、うち揃って九州・久留米出身の小男に見せられた。その名を藤井フミヤという。ご記憶だろうか?

我が家にはチェッカーズのアルバムがすべて揃っていた。「絶対チェッカーズ!! 」「もっと! チェッカーズ」「毎日! チェッカーズ」、それに「CHECKERS in TAN TANたぬきオリジナル・サウンドトラック」というヤツまであった。
道東への小旅行を前に、私はカセットテープ作りに追われた。当時の車のオーディオシステムは、カセットデッキだった。すべてのアルバムをテープにせよ、とは我が子ども対からの命令であった。

本州以南の夏に毎年悩まされている人には信じがたいことだろうが、北海道の夏は快適である。むろん、我が現代車、黄色いゴルフにはエアコンが設置してあった。だが、北海道の夏を走るのに、エアコンはほとんど不要である。窓を開け放って(といっても、私のゴルフは運転席と助手席の窓しか開かなかったが)自然の風を満喫する。それが北海道の夏の楽しみ方だ。
開け放した窓からは、常にチェッカーズがシャウトしていた。

 「おい、牧場だよ。ほら、牛さんがいっぱい草を食べてるぞ」

♪涙の リクエスト 最後の リクエスト…………

「今度は馬だよ。走ってるぞ、速いなあ」

 ♪ちっちゃな時から悪ガキで…………

 「しかし、北海道は広いなあ。ほら、道が真っ直ぐだ」

 ♪胸に頬を埋め 泣いていたねあの日……

私の言葉の答えるのは、常にチェッカーズだった。ああ、やっとテープが1巻終わった。次は、ビートルズでも聴きたいな。

「おい、テープが終わったぞ」

助手席に座る長男が次のテープを私に渡す。やっぱりチェッカーズ……。
4泊5日の道東旅行中、我が黄色いゴルフの車内にはチェッカーズ以外のミュージシャンはいなかった。

(余談)
このような歴史があって、チェッカーズの楽曲は我がカラオケの持ち歌となる。
確か、「SONG FOR U.S.A. 」までは、ほとんどの曲が歌えた。喜んでいいのか、悲しむべきなのか。

 白糠町のキャンプ場に着いたのは午後4時を少し回ったころだった。早速事務所からテントを借りる。

「すいません。どの辺に張ったらいいでしょうか?」

 「どこでもいいよ。ほら見てみな。今日の客はあんたたちともう一組だけだから。昨日は結構いたんだけどねえ」

なるほど。今日は日曜日である。ということは昨日は土曜日。多くの人は週末の連休を利用してキャンプ遊びをするものらしい。ん? でもいまは8月だぞ。私のように夏休みを取って家族をキャンプに連れてこようというヤツはいないのか? それとも、北海道の会社には夏休み制度がないのか?

広大なキャンプ場をたった2家族で占拠する。日常、兎小屋に住む立場としては嬉しくないこともない。
が、人気のないキャンプ場とはうら寂しいものでもある。何かがあったら、誰が助けに来てくれるのか……。こんなことなら、昨日札幌を出れば良かった……。

夕食の支度を始めた。今晩は家族全員で作るカレーライスである。子供たちにも包丁をわたしてジャガイモの皮を剥かせ、人参、タマネギを切りそろえさせた。私は飯ごうで米を炊く。
調理とは、材料を切りそろえる段階が終わると閑なものだ。そいつらを鍋に入れ、水を加えて火にかけると、もうやることがない。退屈である。

ふと、閃いた。閃くとろくなことがないのが私の人生である。思えば、この黄色いゴルフで氷壁に挑み、見事一敗地にまみれたのも、もとはといえば閃きが原因であった。
が、閃いた時の私からは、暗い過去の記憶は消え失せている。

「おい、車を運転してみるか?」

男の子はメカに憧れる。そのメカを自分で操ってみたいというのは男の子の夢である。身近にある最も高級なメカは車だ。5年生になった息子が車を運転してみたいと思わないはずがない。
都会では無理である。そんなことをすれば必ず事故を起こす。でも、ここなら? なにしろ、資料によると8万m2もあるキャンプ場である。そこにいるのは、我が家族ともう一組だけ。事故の危険はゼロに近い。
息子が抱いている夢をここなら叶えてやれる。

「えっ、いいの?」

と息子がいった。

「見てみろよ。ぶつかるものなんてなんにもない。ここなら運転できるぞ」

息子の顔が輝いた。

「やる!」

運転席のシートを一番前に出して息子を座らせる。アクセル、ブレーキに足が充分には届かない。

(余談)
前回ご登場頂いた福本君は、小学校5年生当時の我が息子と同じような体格であったのか……。

 「よし、腰を少し前に出せ。この一番右にあるのがアクセルだ。これを踏むとスピードが上がる。真ん中にあるのがブレーキで、止まる時はこれを力一杯踏む。一番左がクラッチだ。これを踏んでギヤを入れ替える。分かったな?」

私は助手席に座った。

 「ギヤはニュートラルだな。すこしアクセルを踏みながらハンドルの右にあるキーを右に回せ。よーし、エンジンがかかった。次はクラッチを目一杯踏め。そのままにしておくんだぞ」

私がギヤをローに入れた。

 「ここからが難しいところだ。クラッチを少しずつ戻しながら、アクセルを少しずつ踏め。ゆっくりやるんだぞ」

ガクンガクン、ピタッ。

エンジンが止まった。クラッチを戻すのが速すぎたのだ。

「よし、最初からもう一度だ」

こんな作業を3、4回繰り返した。突然、我が黄色いゴルフが元気いっぱい走り出した。

「お父さん、動いている、動いてる!」

 「ハンドルを持って前をしっかり見るんだ」

私の右手はサイドブレーキのレバーを掴みっぱなしである。何かがあれば力一杯引っ張って車を止める。ここで車を壊されたら札幌に戻るだけでも苦労する。

 「速すぎる! アクセルを少し戻して」

 「ほら、ハンドルを右に切るんだ」

 「アクセルを離してブレーキ!」

ハンドルを持つ息子の顔は、これまで見たこともないほど真剣だ。ハンドルを握る手に力が入りすぎ、拳が白っぽくなっている。緊張しているのである。
我が黄色いゴルフは、整地されていないキャンプ場の中を、バウンドを繰り返しながら疾駆した。といっても、ローギヤだけを使って走るのである。時速はせいぜい10kmから15kmである。だが、それでもこいつは本物の車だ。俺は本物の車を運転してる! 息子の興奮が体中から匂い立っている。

一回りして、

「もういいか」

と聞いた。

「もういい」

といった。ブレーキを踏むように命じた。我が黄色いゴルフはエンストして止まった。
あの時、興奮さめやらぬ顔でゴルフから降りてきた息子の中で、あの体験はどんな生き方をしているのだろう?

肉と野菜を煮込み、カレールーで味付けしたその日のカレーライスがどんな味だったか、もう記憶にはない。食後はスイカを割った。全員で腹一杯詰め込み、食事の後片付けに入った。夕闇が迫るころである。

キャンプ場である。街灯はない。遠くの管理事務所のあたりに光があるだけだ。キャンプ客は我々ともう一家族だけ。暗い。
それに、電気がない。テレビも見られなければ、明かりがないからトランプもできない。何もやることがない。まだ午後8時。

「少し早いけど、寝るか?」

誰も異を唱えなかった。午後8時過ぎ、我々は白糠町のキャンプ場で眠りについた。やはり疲れていたと見える。

2日目は阿寒湖、摩周湖を回って羅臼町に達した。相変わらずチェッカーズが歌い続けていたことを除けば、特記することはない。

3日目。羅臼からサロマ湖に向かうため知床半島を越えた。札幌を出てまだ風呂に入っていない。

「今日は民宿だから、風呂に入れるぞ」

相変わらずチェッカーズ・オン・ステージ状態の車内で私がいった。その時である。道の左に立て看板が見えた。熊ノ湯、とある。

「おい、風呂に入りたいか? あそこに露天風呂があるみたいだぞ」

全員が風呂に入りたいといった。私は黄色いゴルフを路肩に止め、まず下見に行った。路肩から急な坂道を降り、急な坂道を上る。ある、ある。湯煙が見える。管理人はいない。ということは、あれか? この風呂、無料?

知床の大自然に抱かれながら湯船に浸かった。いい湯だった。こんな人里離れたところに秘湯がある。北海道は奥深い。

4日目。サロマ湖畔の民宿を出た黄色いゴルフでは、チェッカーズがしつこくやっていた。「TAN TANたぬき」を聞くのはこれで何度目か……。
ややうんざりする思いの私が運転する黄色いゴルフは、それでも快調に走って夕刻までには大雪山のホテルに着いた。4泊5日の旅行最後の日である。

札幌を出て4日目。何よりの馳走は風呂である。全身の血行を良くし、疲労素を洗い流してくれる。
このホテル、最上階に広大な浴場があった。ジャングル風呂があり、滑り台の付いた風呂があり、大展望風呂がある。子どもを連れて早速出かけた。3人揃っていたと思うが、ひょっとしたら3年生になっていた長女だけは妻と行動を共にしたかも知れない。
幼児に不埒な欲情を抱く変態性欲者は目立たぬ時代だったから、長女が私と行動を共にしても何の問題もなかったと思うが、長女は小学校3年生で早くも色気づいていたか?

子どもは浴場中を走り回って遊んだ。元気なものである。黄色いゴルフの中でチェッカーズに元気の素をもらっていたのに違いない。子供用の元気の素は、大人には疲れの素として作用するらしく、私は湯船に浸かりっ放しであった……。

翌日、無事札幌に帰り着いた。5日間の走行距離は、確か1500km。1日300kmの強行軍であった。我が黄色いゴルフは、立派に我が家の足としての役割を果たした。快適な旅だった。

「来年は道北に行こうか」

 「いいね、行きたい」

その夜、札幌の住居で、我が家族はそんな会話を交わした。みんな乗り気だった。
が、翌年の夏、黄色いゴルフが大いに働く幕はなかった。道北には行かなかったのである。確か、資金不足が原因だった。ま、我が家の暮らしは資金不足とは切っても切れない縁があるのである。

惜しいことをしたなあ。いまになってそう思う。どうせ身に付かない金なら、借金してでも道北まで足を伸ばしても良かったのではないか? 日本の最北端に立ち、利尻島、礼文島に渡って海の幸に舌鼓を打っておいた方がよかったのではないか?

悔やんでみてももう遅いが……。

 

やがて10月になり、北海道の早い冬が迫った。黄色いゴルフは相変わらず快調だった。