2008
12.22

2008年12月22日 私と暮らした車たち・その21 ベンツC200の3

らかす日誌

中古でもベンツなのに、いま、我が家が購入を検討しているのは新車のベンツである。憧れはしたが、持てるなどとは一度も考えたことがない車である。Cクラスが「子ベンツ」の蔑称を奉られていることも知っている。それでも、ベンツなのである。クラウンに「子クラウン」はない。スカイラインに「子スカイライン」はない。ベンツだから「子ベンツ」があるのだ。何しろベンツなのである。
検討は慎重に進めた。

値引きして350万円という価格。まあ、これは国産でもやや上のクラスを買おうとすれば支払う事になる額である。なるほど、ベンツもすっかり身近になったものだ。
だが、一般的に身近になったことと、我が家の近くまで来たこととは別の話である。車はせいぜい250万円まで、できれば100万円台で買いたい、というのが、私が理解する我が家の財政状況であった。
だから、私は大蔵大臣に問いただした。

「おい、本当に払えるのか? 俺の小遣いを減らすなんて困るぞ」

だが、大蔵大臣は、何故かはいま持って不明だが、あくまで太っ腹であった。

「何とかできるわよ」

だが、問題は、毎月の支払いだけではない。

「だけど、頭金100万円なんて、我が家のどこを捜してもないだろう?」

そうなのだ。その程度の貯蓄もなしに運営されていたのが我が家の実情であった。知人に、

「とにかく、うちには貯蓄がなくてさ」

と嘆くと、

「大丈夫だよ。奥さんがきっとへそくってるって」

と皆が受け流した。

「うちの女房に限って、絶対にへそくりなんかしてないって」

と反論しても、

「旦那をだましてお金を貯めるのがへそくりなんだから、あんたが知るわけないだろう」

と本気にしない。私が、妻の貯蓄性向の低さを嘆いていることなど、誰も理解してくれないのである。
みんな、お金をコツコツ貯めるいい奥さんを持ってるのね?

いずれにしても、我が家に100万円の蓄えなんてあるはずがない。私は自信を持って頭金100万円の話を持ち出した。

「また会社から借りたら?」

と大蔵大臣は気楽にいった。私の会社には信用組合がある。ここに行けば、その時点での退職金の半額まではすぐに貸してくれる。もちろん、退職金が担保である。
だから、行けば100万円は貸してくれるであろう。だが、利便性は時として人の敵になる。利便性の恩恵を受け続けたために、信用組合にはまだ返してない借金がたくさんあるのだ。毎月数万円、ボーナスでガバッと返済しているが、いつになったら終わるのやら、と嘆きたくなるほど残高は多い。

「毎月の返済額は同じにして、返済期間を伸ばせばいいんだから」

話がここまで来て、私にもやっと決心ができた。よし、ベンツを買おう! 何しろベンツである。丈夫で長持ちするというベンツである。15年乗り続ければいいではないか。そうすれば、350万円し払っても、充分元が取れる。

「えーっ、ベンツを買うの?!」

私の決心を夕食の場で披露すると、長女が大きな声を出した。

「私、だからね」

おかしな事を言う。世界最高級の評価を独り占めするベンツを、高級国産車並みの価格で手にし、15年乗り続けようという、練り上げられた長期計画のどこが嫌なのか?

「私だって運転するんだよ。私がベンツの運転をする乗って恥ずかしいジャン!」

彼女がいったのは、「子ベンツ」に乗るのが恥ずかしい、という意味ではない。普通のサラリーマン家庭の、まだ20歳にもならない小娘がベンツのハンドルを持つミスマッチを表現しているのである。彼女にとってベンツとは、自分みたいな人間がハンドルを持つことを許される車ではない。もっと、地位も金もある人が乗る車なのだ。

驕り高ぶる人は醜い。人は己の分際をわきまえてはじめて美しくなる。自分はベンツに乗れる分際ではないという感性は真っ当である。
その割に、ヴィトンのバッグが欲しいとわめいて、アルバイトまでして買ったのも長女である。彼女にとっては、ベンツはヴィトン以上のブランドらしい。

ひょっとしたら、と私は考えた。しばらく前の「恥ずかしい思い」が彼女に甦ったのかも知れない。
少し長くなるが、昔話にお付き合い頂きたい。

私が、いまはなき城南電気の宮路年雄社長と親しかったことは、「音らかす とことん合理主義 – 桝谷英哉さんと私 第10回 :安いのを買え!」でほんの少し触れた。その宮路さんとの体験である。

宮路さんの愛車はロールスロイスだった。それも、防弾仕様の特別車である。本人の話によると、価格は6500万円。いつも多額の現金を持ち運ぶので、このような車が必要だ、とのことだった。
そのロールスロイスの後部座席に、私は何度も乗った。2人で食事に行くのである。宮路さんのお気に入りは、赤坂にあるフグ料理店、「大友」であった。

「大道さん、このカーテン、いくらしたか分かりまっか?」

ロールスロイスのリヤウインドウと後部座席の左右にある窓に、白いレースのカーテンが掛かっている。

「これ、リモコンで開けたり締めたりできますんや。いくらやと思います?」

「へー、リモコンで動くカーテンね。10万円か、20万円ぐらいしますか?」

いくらリモコンで動くとはいっても、カーテンはカーテンである。何の変哲もないレースのカーテンにたいした価格がつくはずはない。頭の中では3万円、と思ったが、何しろお金持ちの宮路さんがわざわざ私に答えさせるのである。7万円、あるいは17万円はおべっかであった。

「何言うてまんねん。これ、250万円したんでっせ!」

 「…………」

これが、このカーテンが250万円! このカーテンだけで、俺の車(当時はアコード)を買って釣りが来る……。
このオヤジの金銭感覚は、どこか破れてる。ま、金銭感覚が敗れている連中がそこそこいないと、ロールスロイスなんて車は世の中に存在できないのだろうが。それにしても……。

 「そんなにするんですか。じゃあ、申し訳ないけど、カーテン締めてくれます? どうも、俺みたいなのがロールスロイスの後部座席に座っていると、なんか恥ずかしくて、誰にも見られたくないんだけど」

「あかん」

 「お願いします。締めてくださいよ」

 「あかん、いうたらあかんのや。壊れとるから閉まらんのや」

……、250万円のカーテンが壊れている……。

「それより大道さん、そろそろ車を買い換える時期なんや。それでディーラーを呼んで下取り価格を出させたんやけど、1000万円以上には取れんというんや。何でよ、防弾仕様だから買った時は6500万円もしたんやで、せめて3000万円で取れよ、というたんやけど絶対に取れない、いうんや。何でよ、いうて聞いたら、『宮路さん、これ、防弾仕様だから高く取れないんです』いうんやな。それ、おかしい。防弾仕様やから買う時には高い金を払った。なにの、どうして下取りの時には安くなるのよ、いうて聞いたら『防弾仕様のロールスロイスが必要な人はアラブの王様か、アメリカのマフィアのボスしかいません。でもあの連中は中古のロールスは買いません。だから、防弾仕様のロールスロイスは転売先がなく、高く取れないのです」やて。そんなものかいな?」

そんな話を我が家で披露した。3人の子どもたちが声を上げた。

「ロールスに乗ってみたい!」

あれまあ、なんと悪趣味な子供を持ったことよ、と思ったが口にはできない。逆らうこともできない。総スカンを食ったら、我が家から私の居場所がなくなる!
しかたなく宮路さんに頼み、ロールスロイスに乗せてもらうことにした。

その日、子ども3人をアコードに乗せ、渋谷の城南電気に向かった。宮路さんは上機嫌で、

「いまから店舗周りをするんやけど、あんたの子どもさんを乗せていくわ」

と運転手付きのロールスロイスに乗り込んだ。私の3人の子どもたちも後部座席に乗り込んだ」

「じゃあ、私は私の車で後ろからついていくから」

こうして、わが子たちのロールスロイス試乗が始まった。

30~40分も走っただろうか。宮路社長の目的地に着いた。ロールスロイスのドアが開き、子どもたちが降りてきた。

「宮路さん、どうもありがとうございました。我々はここで引き上げますわ。ほら、お前たちもお礼を言って」

 「そうかい、ここから帰るのかい。あんたたちもまた遊びに来てよ」

宮路さんは我が子どもたちにまで声を掛けてくれた。こうして我々は家路についた。

「おい、ロールスロイスの乗り心地はどうだった?」

帰りの車の中での第一声は、当然この質問になる。

「恥ずかしかった!」

不思議な感想である。乗りたかった車に乗って恥ずかしかったとは。私は追加質問をした。

「どうして?」

 「だってさ、信号で車が止まると、歩いている人たちが覗き込むんだよ。こんな車に乗ってるのはどんなヤツだって思ってんだろうね、きっと。時々目があったりしてさ。覗かれるのが恥ずかしくて恥ずかしくて、途中で降りたくなった」

ふむ、子どもたちはなかなかいい体験をしたようである。分を知る、分をわきまえるという言葉を100回ノートに書かせるより、はるかにいい教育であった。

長い昔話は以上である。
この時の体験が、長女に分を知ることを教えたのではなかったか?
ゴルフまでは、自分で運転しても恥ずかしくないらしい。とすると、娘にとってベンツは格が違うのである。例え「子ベンツ」であれ、ベンツのハンドルを持つのは、ロールスロイスの後部座席座るのと同じ恥ずかしいことなのだ。
真っ当な感性である。

だが、我が家の勢いはその程度の真っ当な感性では止まらなかった。世帯主はすでに、世界最高級の車を15年乗り続けて元を取ろうと思い定めていた。

翌週、再びシュテルン横浜東の客になった私は、ベンツC200の購入を申し込んだ。60回の分割払いの書類にも署名、捺印した。色は紺、赤、グレーの在庫から選ぶようにいわれた。紺にした。ベンツの赤は美しくない。グレーは走っている台数が多すぎる。オプションは一切付けなかった。いわば、スッピンのベンツC200である。
私には、これで充分だった。
私には、これが上限だった。

こうして、ベンツが我が家にやってきた。