2009
02.04

2009年2月4日 私と暮らした車たち・その28 BMW318iツーリングの5

らかす日誌

私を虜にしたBMW318iツーリングは快調に走り続けた。

愛犬「リン」を乗せて、犬が泊まれるホテルに行ったのもBMW318iツーリングだった。妻のたっての願いだった。犬を乗せるための装備に大枚はたいた車が来た。使わずにおくものか! そんな決意が読み取れた。

1泊目は清里の近くのホテルだった。2泊目は河口湖畔のホテルである。計画はすべて妻が立てた。私は、単なる専属運転手であり、犬の飼育係である。目的地まで間違いなく乗客を運ぶ。それが運転手の役回りだ。そして、朝夕の犬の散歩をこなす。私は忠実な使用人の役を期待されている。

初めて旅行に出る「リン」は、明らかに興奮気味だった。そう見えた。車が動き始めると直ちに後部座席にすっくと立った。そして、力の限りに吠え始めたのである。

「そうか、そうか。この旅行の主催者も興奮してるようだが、お前も興奮しているのか。初めての長旅だもんな」

汐入で首都高に乗った。「リン」は相変わらず吠え続けた。興奮状態が持続しているらしい。新宿を経て中央高速に乗り継ぐ。車内の犬の吠え声はやまない。すでに1時間以上吠えている。おいおい、声帯は大丈夫か?

女とは、と一般論にしてしまっては多くの女性に失礼だろう。だから厳密に書く。女の1人であるこの旅行の主催者の堪忍袋は、あまり丈夫には作られていない。コストをケチって安い生地で袋を作ったためかも知れない。止むことなく続く吠え続ける「リン」に、彼女の堪忍袋がとうとう音をたてて破れてしまったのである。

「いつまで吠えてんのよ。うるさいわね、うるさい!」

助手席で怒鳴り始めた。

ワンワンワンワン!

うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!

いまやうるさくないのは、黙々とハンドルを握り続ける私だけと成り果てた。

かつて妻には、犬の世界を教えてやったことがある。犬が吠える時、そばにいて大声で叱ってはならない。日本語を習得していない犬は、う・る・さ・いという音の連なりが何を意味するかを理解することができない。さらに悪いことに、そばにいる人間の叫び声は、自分の吠える声に唱和するもう一つの吠え声にすぎない。仲間を得た犬は、いっそう声を張り上げて吠えるのである、と。
その知識は彼女の記憶装置の網の目から滑り落ちて消えてしまっている。

と収まりかえっているゆとりが私から失われ始めた。犬と妻の2重唱を聞かされるのはたまったものではない。何とかせねば、私の神経だって参ってしまう。

危機に面して最も重要なのは落ち着きである。パニックに陥ってしまっては、普段でもあまり働かない頭がさらに働かなくなる。落ち着く。落ち着いて直面している危機の本質を冷静に考える。
この犬、何で吠えてるんだ?

「リン」は極めて臆病な犬である。そのためテリトリー意識が強く、見知らぬ人間によるテリトリー侵犯に激しく反応する。部屋犬である「リン」のテリトリーは我が家全体で、インタホンが鳴れば吠え、誰かが2階の茶の間に上がってくれば吠え、上がってきた誰かが居座れば吠える。
頼むから、私のテリトリーに入ってこないでよ!
「リン」の吠え声は、懇願なのだ。彼女にとってこの世は敵に充ち満ちている。

だけど、いま車内にいるのは、「リン」を除けば私と妻だけである。この2人に限っては、「リン」の敵であるはずがない。1人は毎朝夕の散歩のお供であり、いま1人は毎回食事を出してくれる調理人なのである。

では、何故吠える?
考えられる要因は2つしかない。振動臭いである。

走行中の車の振動を長く受け続けるのは「リン」にとって初体験である。人間だって、揺れるはずがないと思い込んででいる大地が揺れれば焦る。犬は人間より感覚が鋭いというから、車のわずかな振動を関東大震災並みの揺れと感じているのではないか?

車の中の臭いは独特である。これも「リン」があまり体験したことがないものだ。犬の嗅覚は人間の1億倍ともいうから、我々が

「新車の臭い!」

と喜んでいる臭いも、「リン」にとっては警戒すべき強い異臭なのかも知れない。

ここまで解き明かせばあとは簡単である。できることをやってみるのだ。走行中の車から振動を消すことはできない。だが、臭いは何とかなる。

「おい、『リン』をリードにつなげ」

専属運転手が、使用主である主催者に命令形で語りかけるのは不敬の誹りを受けることは充分わきまえている。だが、緊急事態なのだ。言葉の問題にこだわる時ではない。

「リン」がリードにつながれたのを確認すると、私は車の速度を落とし、後部座席の窓を開けた。自然の風が車内に吹き込む。風は自然の臭いを車の中に運んでくれる。「リン」の鼻のためである。
どうや、これならいつもの臭いと変わりないやろ!

「リン」は吠えるのをやめた。策が功を奏した。やったー! 風が車内に吹き込む。ゴーゴーと音がした。だが、相対的に表現すれば。車内に静寂が戻った。

ワン! ワンワンワンワン!

再び「リン」吠え始めるまでにどれぐらいの時間があっただろう。それから「リン」は、目的地に着くまで吠え続けた。いや、それまでに比べれば、窓から吹き込む風に気をとられてか、休憩時間が増えたように気はしたが。
浅知恵の効果はこの程度のものらしい。

「もういや! 犬は絶対に連れて行かない!」

と我が妻は宣うた。それほど神経に障ったらしい。

「絶対に連れて行かないからね!」

であれば、それを貫けばいいのに、と私は思う。だが……、

「犬を連れて那須に行くからね」

翌年の夏だった。また、突然に妻が言い出した。聞くと、家族全員集合なのだという。長男、長女とその旦那とその長男である啓樹、次女とその婚約者、それに愛犬「リン」のご一行である。
えっ、そんなにたくさんで旅行をして、お金はどうするの?

「あなたの永年勤続で会社から旅行券が出たでしょう。あれを使うの」

かくして私は、BMW318iツーリングのハンドルを握り、那須のペット同宿可のホテルに向かった。道中、「リン」が吠え続けていたのは書くまでもない。そして、妻が「リン」に唱和し続けたことも。

という具合に、我が家に来たBMW318iツーリングは働き続けた。なにしろ、ハンドルを持つのが楽しくてしょうがないのだから、専属運転手として喜色満面で運転席に乗り込む。走行距離が伸びるのは当然であった。

どれほどよくできていても、所詮は機械である。いくつかの不具合も体験した。

近くに買い物に行った帰り、突然エンジンの回転が落ちた。アクセルを踏んでも回転が上がらない。見る見る速度が落ちる。やむなく、路側に車を寄せて止めた。いったい何が起きたんだ?
シフトレバーをニュートラルに入れてアクセルを踏む。それでもエンジンの回転は上がらない。どこかがおかしい。
やむなくエンジンを止めた。だが、エンジンを止めたままでは家に帰り着かない。ものは試しとイグニッションをひねってエンジンを再始動する。アクセルを踏む、あれっ、今度はちゃんとエンジン回転が上がるじゃん!
その場から、ディーラーの武田さんに電話を入れた。一度見させてくれという。こちらだって見て欲しい。
武田さんが我が家に車を取りに来て数日後、電話が来た。

「見たんだけど、分かんないわ。コンピューターにも記録が残っていないし」

最近の車はコンピューターを積み、そこに自己診断システムが搭載されている。不具合が起きると、そこに不具合の記録が残る。そのはずだが、何も残っていないという。

 「分かりました。でも、大丈夫なんだろうね。まあ、とりあえず今のままで乗るけど、この不具合は記録しておいてね。エンジンかミッションか分からないけど、保証期間が過ぎても、この不具合については責任をとってよ」

とりあえずの一件落着である。幸いなことに、その後同じ不具合は出なかった。

次は漏水事件である。
夫婦で四日市の長女宅を訪ねた帰りだった。真夏だからエアコンはかけっぱなしである。車は東名高速の秦野中井インターに近づいていた。時速は120km前後である。

「あれっ!」

なんだか、左足の下の方が冷たい。左手を伸ばして、冷たい部分を触ってみた。高齢になると、突然足の下の方が冷えるのか?
指先に湿り気があった。その部分のズボンが濡れている。おかしい、私には尿失禁をした記憶はない。何でこんなところが濡れている?
渋滞で速度が落ちたのを利用して、濡れているズボンの上の方のダッシュボードの下を探ってみた。やっぱりそうだ。車も濡れている。ということは、水が漏れているということである。

「武田さん、雨も降っていないのに運転席に水が漏れてるよ。左足が濡れちゃったんだけど」

渋滞を利用して武田さんに電話を入れた。私から水の漏れ方を事情聴取していた武田さんはいった。

「大道さん、ちょうどそのありにエアコンのパイプが通ってるんだわ。今日は特別暑いから、冷えたパイプの表面に結露ができて、それが落ちてきたんだよ」

「ああそう。じゃあ、大丈夫なのね。でも、運転者の足の上に、結露するかも知れないパイプを通すって設計ミスじゃない?」

この時の会話はそれで終わった。その後同じ症状は出ない。あれは、地球温暖化の過程で起きた偶発事象だったのか?

「あれっ!」

いつも同じ表現を使って恐縮だが、その時そう思ってしまったのだから仕方がない。その時とは、「リン」の散歩から戻ったある朝のことを指す。その時とは、前夜の雨が嘘のように晴れ上がった朝、「リン」の散歩から戻った時のことを指す。惚れ惚れする美しいデザインのBMW318iツーリングに目をやった瞬間のことである。
いつもパッチリ見開いているBMW318iツーリングの目玉が、白内障にかかったかのように白濁していたのだ。

「えっ!」

これも似たような表現だが、ご寛恕を願う。そんなこととは関係なく、私はBMW318iツーリングに歩み寄り、白内障のようになったヘッドランプをしげしげと見た。
ヘッドランプにはプラスチック製のカバーレンズがついている。そのカバーレンズの内側に水滴がついていた。それが、我が愛するBMW318iツーリングの2つの目玉を白内障にしていた。

「武田さん、という訳なんだけど」

武田さんは言を左右にした。水滴は自然に消えるから気にすることはない、といった。時々あることだともいった。
私は言った。

「でも、ここに湿気が入ると、電気系統に不具合が出るかも知れないし、何とかしてよ」

かくして、我がBMW318iツーリングはドック入りとなり、数日して戻ってきた、。その後同じ症状は出ない。

私が乗っていた間の不具合はこの程度である。ベンツと違って、不具合はすべてディーラーによって適切に対処された。
繰り返す。車とは所詮機械である。壊れない機械はない。ディーラーが適切に不具合の処理をしてくれればそれでいいのである。
満足していた。満足は少なくとも10年は続くはずだった。

 

「お父さん、○○がさあ」

妻が突然しゃべり出した。何の脈絡もない話を突然始めるのは、妻の得意技である。○○とは、長女の名前だ。

「○○がいってたのよ。啓樹がしゃべれるようになったら、うちの車の前で、『これ、啓樹の車』って言わせるんだって」

突然の、衝撃のレポートだった。
まあ、確かに、次女の旦那が乗っている車は古くて小さい。中古で買ったプジョー306である。エンジンは快調に回っているが、四日市から我が家に来るのに荷物が積みきれず、助手席まで荷物置き場になっている。間もなく10年目を迎える古豪である。長女夫婦が買い換えを考えても不思議ではない。
買い換えのターゲットが、我が家のBMW318iツーリング……。
しかし、いいところにボールを投げてくるなあ。啓樹にそう言われたら、私が NO といえなくなることを知り抜いた上で投げてきた玉だ。しかも、私に直接いうのは避け、妻を介して我が耳に送り届ける。
見事な作戦というしかない。

「お父さん、どうする?」

と妻が問う。どうするもこうするもない。私には抵抗手段がない。
啓樹はまだ、

「これ、啓樹の車」

と発音できるだけの言語能力を備えていなかった。だが、間もなく、間違いなく、そう言う。そして、私の目を見る。どうして抵抗できる?

長女に聞くと、

「車買い代えなくっちゃと思って100万円ぐらい用意してあるんだ」

といった。私は、

「じゃあ、100万円でいいから、この車を持って行け」

といった。2006年はじめのことだった。
3月に家族で遊びに来た時、車を取り替えた。BMW318iツーリングが長女一家の車になり、プジョー306が我が家の車になった。フランス車の既成概念にとらわれない自由な発想に唸った「2006年3月29日 プジョー306」はその時の物語である。

BMW318iツーリング購入から3年。私はこの車を愛した。それが突然去った。
恋人に去られた私は、再び次の相手を捜し始めた。