2009
04.03

2009年4月3日 ごめんなさい

らかす日誌

このところ、読者に対して恐縮の思いを抱き続けてきた。
なにしろ、更新ができないのである。すべて引っ越し前のごたごた、引っ越し中のごたごた、引っ越してからのごたごたのためなのだが、そういう事情を知ってか知らずか、読者の方々は遠慮会釈なくアクセスしてこられる。そして、恐らく

「何だ、変わってねー」

とすぐに去って行かれる。毎日増え続ける累積アクセス数を見るたびにそんな反応が見えるような気がし、

「書かなきゃ」

と思うのだが、時間、体力、精神的ゆとりがほぼゼロの状態が続いた。しきりに気にしながらも、

「できないものはできない」

開き直るしかなかった。事情をご賢察頂きたい。

というわけで、群馬県桐生市に引っ越してきて、今日で5日目である。まだ友はいない。行きつけの店もない。何もない中で、ひたすらに生きている。

振り返れば、3月27日夜まで送別会があり、28日はひたすら荷物を整理、29日は朝から引っ越しだった。荷物が片づいたのが午後4時近く。夜は長男が送別の宴を川崎の韓国料理屋で開いてくれた。30日は残った荷物をBMW320iツーリングに文字通り詰め込み、老妻と2人、午前9時に出発した。

11時20分過ぎに着くとすでに荷物は到着済みで、運送会社の人たちが手持ちぶさたに待っていた。早速荷物の搬入を開始。段ボール箱だけで90個近い引っ越し荷物の搬入はなかなか終わらず、ふと時計を見ると針は午後1時を大きく回っていた。昼食はまだである。

近くのコンビニに昼食を仕込みに行く。我々2人分と、運送会社の6人分である。運送会社に人たちは盛んに恐縮していたが、最後は空腹には勝てなかったらしく、

「ごちそうさまです」

350円のカレーライスをパクついていた。
荷物の搬入が終わったのが午後3時過ぎ。運送会社の人々は去った。我々はそれからも荷物の整理に追われた。

「おい、これから温泉に行くぞ」

妻に声をかけたのは午後5時過ぎだった。もともと妻は体が悪い。それがここ数日、引っ越しのために働きづめである。勘の鈍い私の目からも疲れ切っているように見えた。
さて、世の中のご夫婦とはどのような人間関係を保っておられるのであろうか? このようなとき、世の奥方たちは、どのような反応を返されるのであろうか? 我が家では、こんな反応が返ってきた。我々夫婦の人間関係を象徴する反応である。

「行かない。まだ仕事が残ってる」

アホか、お前は。仕事が残っているのは、いわれなくても分かっている。問題は、仕事が残っているかどうかではなく、残った仕事を遂行する能力が残っているかどうかなのだ。私の判断では、お前には残っていない。

「うるさい! 行くといったら行くんだ。仕事をやめろ!」

怒鳴りつけた。怒鳴りつけ、服従させる体制を作りながら桐生市役所に電話をした。

 「ということで、今日はどこかに泊まらなければ何ともならない状態難で、どこか温泉を紹介して頂けませんか? これから住民税も納めさせて頂きます。右も左も分からない状態なので、お願いします」

かくして5時半、我々は太田市の薮塚温泉にあるホテルふせじまに向かった。
車中で、妻が次女に電話をした。

「何か、お父さんが疲れちゃったみたいなのよ。急に温泉に行くって言い始めて。私はどうでもよかったんだけど、いま温泉に行く途中。うん、薮塚温泉っていうんだって。そうなのよ、あなた。どんな温泉か分からないけどね」

違うって。確かに俺も疲れてはいるが、温泉に行くのはそのためではないんだって。
ああ、古くなると、夫婦とはここまですれ違うものなのか?

31日は午前9時には住まいに戻り、ひたすら荷物を整理した。11時過ぎに次女の家族全員が手伝いに来てくれた。瑛汰は、初めてやってきたこの家ではしゃぎ回っていた。旦那も私を手伝ってくれた。
4時過ぎ、次女たちが去った。荷物は7割方片づいた。

1日から仕事。午後8時から前橋で会議。その後歓迎会。帰宅は午前1時半。
2日は朝から挨拶回り。今日も朝から挨拶回り。午後は事務所のプリンターの取り替え。夕方、再び仕事。

という日々である。桐生に居を移して5日目の今日、初めて日誌を更新する時間的、精神的、肉体的ゆとりができたのである。

そうそう、私はまだ、桐生の印象を書いていない。これはもう少し待って頂きたい。様子が掴め始めたら、少しずつ「私の桐生」が書けるはずである。