2010
01.26

2010年1月26日 6000万円

らかす日誌

昨日は、さすがに何もできなかった。
リンの死を看取って仕事に出かけたが、早めに帰宅した。遺体は、すでに引き取られていた。リンの亡骸が横たわっていたペットシートもすでに妻が処理していて、そこにはなにもなかった。
帰宅はした。が、何もすることがない。散歩に出かける気力もわかない。ギターにさわろうという気も起きない。

聞くと、私が殴ったわけでもないのに眼の周りが腫れ上がった妻は、朝から何も食べていないという。夕食を作る元気もなさそうだ。
たまたま、ある人と夕食の約束があった。

 「お前も一緒に来い」

半ば強制的に妻を連れ出し、迎えに来てくれたその人の車(20年ほど乗りこなしたベンツEクラス)でもんじゃ焼きを食べにいった。途中からその人の知り合いであるピアニストも加わり、音楽談義。妻も多少は気分が軽くなったようだった。

飲んでいるさなか、なんと次女の旦那から電話が来た。この男、瑛汰のパパである。

「お父さん、大変でしょう。木曜日休みなので、みんなで行きますよ」

「だって、1日だけの休みだったら日帰りになっちゃうじゃないか。いいよ、こちらは心配ない。いまだって飲み会やっているし」

 「いいです。日帰りでいいから行きます」

ふむ、そんなにへたっているように見えたかなあ。が、ありがたかった。飲み会は10時半頃まで続いた。

で、6000万円である。いくらベンツオーナーと行った店で高級なもんじゃ焼きを食べたからといって、4人で6000万円もかかるわけはない。現実の店は、すきま風が忍び込んでくる、これ以上ないほどの庶民的な店だったから、6万円だってかかるはずがない。第一、もんじゃ焼きがそれほど高額なら、月島を訪れる人は絶滅する。

6000万円は、昼間の話である。

1億3000万円もするオーディオを作って売ってる人がいるんですよ。イギリスの貴族が買って、パーティに室内オーケストラを呼べないときにその装置で音楽を再生してるっていうんです。一度聴かせてもらったんですが、元の音より遙かにいい音がする。安堂さんに是非聴いてもらいたいんです。行きましょう」

誘ってくれたのは金属加工会社の専務さん、より詳しくいえば、町工場の若大将である。先週木曜日、飲み会の席でのことだ。

「あのねえ、オーディオってのは、元の音を忠実に再生することが究極の理想で、元の音よりいい音が出るはずがありません。もし出たとしたら、それはオーディオではなくて楽器です。あるいは単なる思いこみに過ぎません」

とはいってみたものの、まあ、1億3000万円に興味がないわけではない。オーディオよりも現金の方が好みだが、まあ、そうもいっていられない。
関心を持ったのは私だけでなく、同席していた、これも中小企業の社長さんが行きたいという。その試聴日が昨日に決まったのは、金曜日のことだ。昨日になってリンが死んだからとお断りしては同行者に迷惑がかかる。
というわけで出かけた。

このオーディオ屋さん、本業はプレス屋さんなのだそうだ。プレス工場の2階がオーディオ部門で、そこに30畳ほどの視聴室があった。

部屋に入って驚いた。
入るとすぐに、スピーカーの背面である。部屋の横幅いっぱいに据え付けられている。視聴席にたどり着くには、そのスピーカーと壁の間のわずかな隙間をすり抜けねばならない。

正面に回って驚いた。スピーカーに向かって左側の壁は、立派な木製ラックでほぼ占領されている。アキュフェーズのプリアンプがあり、同じアキュフェーズのパワーアンプが1台、ラックスマンのパワーアンプが4台。それに高価そうなCDプレーヤーが2台。
さらに目をやると、見知らぬ形をしたアンプが10数台。これはこの会社の製品だそうだ。そのほかにも、眼にしたこともない装置がたくさんある。これだけでも数百万、ひょっとしたら1000万円以上かかっている。
プレス屋って、そんなに儲かるの?
試聴にはアキュフェーズ、ラックスマンを使った。

正面を見て驚いた。床に置かれたばかでかいスピーカーは低音部分で、ホーンシステムだ。そのほかにもやたらとホーンがあり、片チャンネルが5本のホーンで構成されている。5wayスピーカーシステムだ。

桝谷さんの教えでは、スピーカーの理想はフルレンジである。右左、それぞれ1このスピーカーで音を出す。それに不満を感じても、せいぜい2wayまで。それ以上音を分けると、いいことは1つもない。
なのに、5way?

「はい、オールホーンの5wayシステムです。自作のアンプで鳴らしてもいいのですが、このスピーカーシステムとはマッチングがいまいちで」

私の信奉する桝谷理論からは不可解な話である。アンプとは原音を増幅する電気回路にすぎない。スピーカーとのマッチング? それって、アンプにもスピーカーにも問題がある、ってことじゃない?

「今日聴いて頂くシステムは、6000万円です」

まあ、問題があってもなくても6000万円である。

同行した社長さんが、持参の鞄からCDを取り出した。MJQのピアニスト、ジョン・ルイスがバッハを演奏したものだ。好きで、いつも聴いているのだという。

システムの設計者がアンプに火を入れ、CDをプレーヤーに入れた。Playボタンを押す。音楽が流れ始めた。

「……」

この6000万円の音を何にたとえたら良かろう?
…………、風呂場で、私が弾くおもちゃのピアノか?

ひどい。アップライトピアノでも、ノーブランドの出所の怪しいピアノでも、こんなひどい音を出すはずがない。響きは悪いし、音色もガチャガチャ。3畳の畳敷きの部屋で、アップライトピアノを演奏している、といったら近いだろうか。ジョン・ルイスがそんな環境で演奏するはずはないし、レコード会社がそんな音をCDにして売り出すはずもない。
思わず、隣に座ったこの社長さんと、目と目を合わせた。

2曲目に進んだ。さすがにここまで来ると、設計者も異変に気がついたらしい。

「おかしいなあ。このCD、ピークが多いみたいだなあ」

つぶやきながらラックに向かい、

「うちにあるCDを聴いて頂きます」

パイプオルガンの音が部屋を満たした。大音量である。迫力がある。風圧が体まで届く。
でも、神聖な教会でこんなパイプオルガンを聴かされたら、悪魔の所行か、と身を固くしないか? 音が暴力的だ。心地よくない。
バイオリンソロが流れてきた。おいおい、バイオリンがこんな音で鳴ったら、バイオリニストはバイオリンを放り出しちゃうんじゃないか?
女性ボーカル。何だか、歌手の顔の前に、ベールが3枚ぐらいかかっているような声だな。それに、この歌手の口、横幅1.5mぐらいありはしないか? そうか、横幅1.5mの唇に口紅を塗ると6000万円もかかるのか。

スピーカーに向かって右側の壁にCDラックがあった。眺めて驚いた。
さだまさし、井上陽水、プリンセス・プリンセス、廉価版のクラシックシリーズ……。
おいおい、6000万円のオーディオ装置って、こんな音楽を聴くためのもの?!

一刻も早く部屋から逃げ出したかったが、三度CDが交換され、木遣り音頭と和太鼓が流れ出した。太鼓の音がスカッと抜けない。太鼓から出た音が太鼓にまとわりつき、次の音がスッと広がっているのを邪魔しているような、鼻づまりの不自然な音である。雨の中、屋根もないところで太鼓を敲いてる? こんな太鼓で興奮できるか?

という6000万円の音への評価をひと言も発せずにその場を離れた私は、かつてに比べれば大人になった。丁寧に謝辞を述べながら、この装置のビジネスを尋ねてみた。聴いて驚きすぎたからである。

「そろそろプレスをやめて、オーディオだけで食っていこうと思ってるんです。ヨーロッパでぼちぼち売れ始めましたので」

この装置を買った人に幸いあれ。この装置で生計を立てようという人に幸いあれ。

帰りの車で、あのCDを持参した社長さんがいった。

 「僕、このCDが大好きなんです。バッハをクラシック風に演奏したのと、ジャズにアレンジして演奏したのが交互に入っていて、楽しいんですよ。うちのオーディオ装置は安物ですけど、でも、うちで聴いた方が遙かに音はいいなあ」

聞きながら改めて思った。

この装置を買った人に幸いあれ。この装置で生計を立てようという人に幸いあれ。

自宅に戻って何もする気が起きなかったのは、ひょっとしたらリンの死だけが原因ではなかったのかもしれない。