2010
05.04

2010年5月4日 復帰

らかす日誌

それにしても、鳩山さんは善人であると思う。

彼は野党時代、自民党のやり方が納得できなかった。日米の軍事同盟に付随する負担を沖縄県だけに押しつける自民党のやり方が許せなかった。

 「酷(ひど)い。あまりにも酷い。1億3000万人の日本人が、100万沖縄県民の犠牲の上に安穏としている現状は許せない。負担はない方がいい。あったとしても、国民全体が等しく負担すべきではないか。私たちが政権を取ったら、沖縄の人々の負担を遙かに軽くする。それは、政治に携わるものの責任である」

そう考えた鳩山さんの善意は信じたい。火星人というニックネームを奉られる鳩山さんの容貌は確かに不思議さをたたえているが、この人、根っからの善人である。あの歳で、ママにおんぶに抱っこされるのを衆目にさらして恥じるところがない、というのも善人の証である。

その鳩山さんが、沖縄の、そして基地機能の一部移転先として想定した徳之島の総スカンを食っている。鳩山さんは本意ではなかろう。これほど私が真剣に考えて、少なくとも自民党案より遙かにいい案を示しているのに、どうして賛同してくれない?
切歯扼腕しているのではないか。

鳩山さん、善意はいいのだが、権力の取り扱い方に齟齬があった。
そりゃあ、自民党は長年与党の立場にあって、好き勝手のし放題、いい加減な政策を数を頼んで押し通してきた面もある。だが、彼らだって政治家だった。沖縄県民だけが犠牲を払うのがベストであると思っていたはずはない。だから、基地機能の一部を過キャンプシュワブ沖へ移す案で調整しようとしていた。まあ、この案がベストだと考えたのではないだろう。だが、少なくとも、現状よりはいいだろうと考えていたのは疑いない。米国、日本、沖縄のかみ合わない主張の中で、多少の前進といえるのではないか、というところだ。

問題によっては、政治の歩みは、カタツムリのように遅々とするものである。自民党案が現状で最善のものであったかどうかを判断する能力は私にはない。自民党案は砂利や建設に絡む利権がつきまとい、自民党政治そのものである、との指摘も目にする。
それでも、目下の混乱を見ると、民主党案よりましだったのではないか、と思えてくるのである。

鳩山さん、現実の政治は書生論ではやれないのです。あまたの利権、思惑、願い、悲鳴、打算、それらが重層的に積み重なった上に、ある決断があるのです。そして、それぞれの人に、守るべき正義があるのです。
それを、書生論の正義で統べようとしてもうまくいかないのです。あなたに必要なのは、高々と正義の旗を掲げる政治家から、熟成した政治家に成長することです。
あなたが高々と掲げた正義の旗は敗北のシンボルになりそうです。いい機会です。政治家としての熟成をとことんお考えになってみてはいかがでしょうか?

 

さて、長らくのご無沙汰だった。
世はゴールデンウイーク。みんな行楽に出かけて、こつこつ日誌を書き続けても、きっと読んでくれる人なんかいないさ。ここは、さぼりを決め込まなくちゃ、と考えたわけではない。それなりに事情があった。

29日、四日市から長女と啓樹がやってきた。
そりゃあ、日誌を更新するより、啓樹と遊ぶ方が優先する。高崎まで2人を迎えに行き、自宅に着くやいなや、啓樹と2人で太田のトイザらスへ。LEGOと7mも水が飛ぶ大型水鉄砲を買って自宅へ。もちろん、直ちにLEGOの製作が始まり、風呂で水鉄砲で遊び、夕食をすませて啓樹と添い寝。日誌を書く間なんてない。

30日は朝から仕事があった。

「啓樹、ボスと仕事に行くか?」

まあ、ゴールデンウイークである。おまけに、こちとら、定年を過ぎても働いている律儀者である。しかも、この1年の働きを自己検証すると、私より遙かに多くの給与を受けているはずの若い者を実績でしのいでいる。まあ、これくらいの公私混同は許されてもよかろう。

午後は、太田市のぐんまこどもの国に啓樹と行く予定であった。ここにあるボブスレーは、啓樹だけでなく、瑛汰のお気に入りでもある。
ところが、午後からはボブスレーの営業はしていないという。急遽予定を切り替え、みどり市東町の富宏美術館へ。いや、絵を見に行ったのではない。美術館の敷地の一角で営業している地元物産の店に、黒川ハムを買い求めに行ったのである。長女と啓樹が富宏美術館に入ったのは、ついでに過ぎない。
自宅に戻り、啓樹と入浴、7m水鉄砲で遊び、夕食、LEGO、絵本を読んで就寝。

途中、横浜の次女から連絡あり。骨盤付近が痛く、産科で

「骨盤が開き、胎児が降りかけている」

といわれたという。出産予定は6月。まだベビーちゃんが出てきていい時期ではない。とりあえずコルセットで骨盤を締め、今以上開くのを止めたというが、問題は痛みで、私が漏れ聞いたところではほとんど立ち仕事ができない。
瑛汰が、心細そうな声で

「ママはね、寝てるの」

と電話で語ったという。

「だったら、明日(1日)、横浜に行くか?」

妻と長女に下問した。子供のために行動する。それも親の務めである。務めた見返りが返ってくるかどうかは別だが。

それがなくても2日には横浜に行く予定だった。啓樹が

「瑛汰と遊びたい。瑛汰と2回寝たい」

といったためである。長女たちは4日には四日市に引き上げる予定で、2日に横浜に行かなければ啓樹のリクエストにこたえられない。2回が3回になったら、啓樹も瑛汰も喜ぶに違いない。

だが、下問への明瞭な返答はなかった。

「あいつら、娘、妹が困っているのにどうするつもりなのか?」

いぶかりながら啓樹と夢の世界に入った。

1日。

「午後、横浜に行く」

朝から厳かに言い渡された。私の提案が採用されたらしい。出発が午後になったのは、私と啓樹がぐんまこどもの国で遊ぶためである。桐生に遊びに来たら、ボブスレーは欠かせない定番なのだ。

8時半に家を出て、啓樹とぐんまこどもの国に向かった。

「啓樹、ボブスレー、何回乗る?」

 「啓樹、10回乗る!」

えーっと、ボブスレー乗り場までのケーブルカーが2人で300円、ボブスレーが2人で500円。ということは1回800円で、10回乗ると8000円!

「啓樹、10回も乗るの?」

 「啓樹、10回乗る!」

5歳児に私の財布の容量を説明するのは無駄である。啓樹は、瑛汰もだが、ボスの財布からは無限のお金がわき出してくると信じて疑わない。

着いた。乗った。操縦桿をすべて啓樹に任せ、3回乗って聞いた。

「もっと乗る?」

 「もういい。啓樹、遊具で遊ぶ」

説明なしでボスの財布に適合した決断をする。啓樹は非常にいい子である。

1時頃自宅に戻り、昼食は近くですませてそのまま横浜に出発。5時前に到着した。

啓樹と瑛汰、2人が遊ぶのを監視する。2人を公園に連れ出す。2人に紙芝居を読んでやる。2人を横浜のトイザらスに連れて行く。2人をトレッサ横浜に連れ出す。2人を風呂に入れ、2人を布団に入れて絵本を読み聞かせる。
何しろ、横浜の自宅には病んだ妊婦がいるのだ。台風の目の2人を病んだ妊婦から引き離すのは、私と、次女の旦那の仕事なのだ。私は、保育園、幼稚園の保父さん役を真面目にこなした。

「ボスを撃て!」

水鉄砲を抱えた瑛汰が叫ぶ。

 「ボスをやっつけろ!」 

スポンジの刀を構えた啓樹が瑛汰を誘う。

なのに夜になると、

「啓樹、ママと寝たい」

 「瑛汰、パパと寝る。ボスはいやだ!」

俺、横浜で何してたんだろう?

 

次女の弱り方はかなりのものであった。歩行が不自由で、座っているのも辛いらしい。

「お前、残れ」

妻にいった。2日のことである。

「明日(3日)か、明後日、俺は1人で桐生に戻る。娘の体調がよくなったら、週末に迎えに来る」

娘の体調が第一だ。我々世代は、次に来る世代のために命をすり減らすしかない。

「朝晩は、コンビニとスーパーの弁当でしのぐか」

ひとり暮らしがしばらく続くのであれば、食事作りはシステム化する。そのあたりの私の能力は、名古屋でのひとり暮らしで証明済みである。
が、数日のひとり暮らしでは、システムを再構築するのは面倒だ。市販品に頼るに越したことはない。

ところが、私の提案は結果的に拒否される。
次女は、できるだけ親に頼りたくないと思ったのであろう。頼らねばならぬ時には頼るしかない、と私は考えるのであるが、次女は誰に似たのか、頑固である。一度そう思うと、てこでも動かなくなる。

というわけで、困ったことにならねばよいが、と心配しながら、本日午前、長女と啓樹を新横浜まで送り、次女一家と昼食をすませて午後、妻と桐生に戻った。

それでよかったのかどうか。
元気なベビーちゃんが無事に顔を出すことを祈るばかりである。