2011
01.13

2011年1月13日 浜の真砂

らかす日誌

浜の真砂は尽きるとも 世に心配の種は尽きまじ

家族を持つとはそういうことである。なのに、何故皆、家族を持ちたがるのだろう?
一人でいれば、自分のことだけ考えていればすむ。家族がいるから、思わぬところから、思ってもみなかった心配事が飛び出す。

瑛汰が肝臓をいためたらしい。
夕方、次女からの電話を妻女が取った。数日前から瑛汰に発疹ができ、次女が近くの皮膚科に連れて行った。原因不明。念のために、済生会横浜市東部病院に連れて行った。原因不明。
昨夜、高熱を発した。今日は以前かかっていた小児科を訪れた。そこで、念のために血液検査をする。
その病院から

「肝臓の数値が悪化している」

と電話があったのが今日の夕方らしい。
紹介状を書いてもらい、明日、済生会横浜市東部病院に行く。

妻女の話によると、瑛汰はむくみが出ているという。肝臓の働きが弱っているのであろう。
いったい何故? と考えてはみるが、分かるはずもない。心配しながら、明日の結果を待つだけである。場合によっては、入院するかも知れないともいう。済生会横浜市東部病院は、幼児でも入院患者に付き添いは認めないそうだ。瑛汰、そんなところに入院できるのか?

とにかく、明日を待つしかない。

 

その瑛汰から、夕刻、電話があった。肝臓の病変が分かる前である。

「あのさー、ボス」

 「ん、何だ?」

 「瑛汰がお引っ越しするときさ、1階にある本を全部持っていっていい?」

1階にある本とは、私の蔵書である。さて、何千冊あるか。

「本? 瑛汰、本を持っていってどうするんだ?」

 「あのさー、瑛汰、お勉強したいの。だから、1階の本、全部持っていきたいの」

後に詰まらぬ本と判断したものを除き、私は学生時代から読んできた本をすべて保管している。再読することもあろう、と考えただけではない。私が買い求め、熟読し、保管してきた本である。いずれはできるであろう、と若いときに考え、そしてその通りにできてしまった家族が、読むであろうと考えたからだ。良書に接するのは人生の楽しみの1つであるはずだ。
書棚とは、

「ほら、俺、こんなに沢山本を持ってるんだ」

と他人に自慢するためのものではない。

が、私の期待は裏切られ続けた。妻女は全く関心を示さない。場所をとって仕方がないから本を整理しろ、と何度迫られたことか。
子どもたちもほとんど関心を示さなかった。3人いる子どもたちの誰一人として、我が家にどのような本があるかを調べた形跡はない。

私の蔵書が欲しい。そういったのは、瑛汰が初めてである。瑛汰、偉い! その向学心は立派である。

そんな、あんな本、持って行けるわけないじゃない。傍らで、妻女がつぶやいている。ああ、うちの子どもたちはこうやって育てられたが故に、私の蔵書に関心を示さなかったのか?

「よし、瑛汰、偉いぞ。あのね、瑛汰が読める本は全部持っていっていいぞ」

 「ホント?」

 「ああ、持っていっていい。ボスが約束する」

瑛汰が読める本は全部持っていっていいんだって、ママ。

電話の向こうで、瑛汰が次女に話しかけている。

「瑛汰、お熱は下がったのか?」

呼びかけてみた。

「うん、下がったよ」

確かに、声は元気だ。

「ご飯はいっぱい食べたか?」

 「うーん、いっぱいじゃないけど食べた」

 「そうか、いっぱい食べた方がいいと思うよ」

 「あのね、いっぱい食べるとまたお熱が出るかも知れないから」

 「ン? そうか? いっぱい食べないとお熱が出ると思うよ、ボスは」

 「瑛汰はね、いっぱい食べるとお熱が出るって思うの」

それからしばらくして、肝臓の話が飛び込んだ。だから、あまり食欲がなかったのか。

妻女は、看病に行くそうだ。何があってもすぐに出られるようにと、今日中に荷造りするそうだ。
ひょっとしたら、また一人暮らしが始まるかも知れない。