2011
03.12

2011年3月12日 地震

らかす日誌

揺れた。長く、強く揺れた。桐生の震度は6弱だったとか。強烈だった。

発生時、私は自宅の事務所にいた。「いた」と書いて、「仕事をしていた」と書かないのは、より正確を期す私の正直さの表れである。

「揺れるな」

パソコンの画面を見ながら思った。すぐに収まる収まるだろう。何しろ、私が聞いたところによると、桐生は固い岩盤の上に乗っかっている。そのため、歴史的に見ても、地震被害はほとんどない。

ところが、揺れが止まぬ。止まぬどころか、徐々に強くなる。家全体がギシギシと軋み音を出しながら揺れ、棚から物が落ち始めた。

「これはひどいな」

居間に出てみた。昨年買ったばかりの50インチのテレビが揺れている。倒壊防止のベルトで固定しているから倒れることはなかろうが、念のために手で押さえる。テレビを押さえていると、サイドボードの上に置いた、啓樹、瑛汰、璃子、嵩悟の写真を入れた額が倒れ始めた。本棚の上のだるまが落ちた。
でも、どこで揺れてるんだ?

「とうとう関東大震災が起きたのか?」

横浜には瑛汰たち次女一家が住む。長男夫婦は川崎に住み、職場は東京だ。それだけでなく、四日市の長女一家がディズニーランドに遊びに行っている。家族だけではない。東京には大事な知り合いがいる。

「テレビをつけろ!」

己の身分を顧みず妻殿に命令し、NHKにチャンネルを合わせた。東北地方の沖合が震源地で津波の危険があるといっている。しばらくテレビに見入った。

家族、知人に連絡を取らねば。ところが、電話が繋がらない。災害直後はそのようなものらしい。
まあ、横浜の我が家は重量鉄骨造りである。これしきの地震で倒壊することはあるまい。長男夫婦も、耐震基準を満たした都心のビルで働いているはずだ。と考えると、最も危険な場所にいるのは啓樹たち、長女一家である。ディズニーランドは東京湾に面している。揺れはともかく、津波に襲われかねない。
が、連絡がつかない。ショートメールを送っても返信がない。安否を確認するすべはない。

であれば、仕事だ。非常時に付き合いのあるところに顔を出すのは仕事のイロハである。

自宅に戻ったのは午後9時頃だった。テレビを見ながら、家族への電話を何度も試みた。携帯は全くつながらない。固定電話から携帯に電話をかけ続けた。
最初に電話が通じたのは次女だ。次いで、長男とも繋がった。

最後まで繋がらなかった長女とは、午後10時を過ぎて電話が繋がった。ホテルのロビーに避難し、炊き出しを受けているという。啓樹も嵩悟も旦那も無事。安堵した。
道路状況が分からないので、ホテルのロビーで一夜を過ごし、夜が明けるのを待って横浜に向かうという。まあ、無事が確認できればそれでよい。
啓樹には貴重な体験になっただろう、とは、無事が確認できたからいえることである。

今日は、横浜に行く予定であったことは、3月8日の日誌で書いた。が、この事態を受けて横浜行きを中止した。道路状況がつかめなかったからである。東北道は通行止め。逆回りをして関越道からなら行けそうだったが、混み具合、関越道を降りたあとの環八の状況が分からない。渋滞に巻き込まれるのはまっぴらである。

というわけで、瑛汰の本棚作りは繰り延べとなった。電話で話した瑛汰は不満そうだったが、まあ、瑛汰、仕方がないのだよ。来週末は3連休だから、その時にでも作るか?

地震、津波で被災された方々には申し訳ないが、目下の最大の焦点は死者・不明者、被災者の数でも倒壊家屋の数でもない。福島原発である。
緊急時に炉心を冷やす水を送り込む装置が動かない。炉心の温度が上がって、一部では炉心溶融(メルトダウン)も起きているそうだ。チャイナ・シンドロームにまで至ることはないと願いたい。

このようなとき、もっと求められるのは、正確な情報を、バイアスをかけずに伝えることだ。
なのに、メディアは騒ぎが大好きだ。情報の断片を示しながら

「危ない! 危ない!」

と煽る。治にいて乱を求める人びとの集団である。

その中で、私が目にした限りでは、テレビ東京の冷静な報道が目に着いた。読売新聞も、測定された放射線量が通常時の1000倍と報じながら、

「そこに1時間いた場合の線量は、胃のレントゲン検診の約4分の1」

冷静に報じた。うん、だったらたいした事態ではないではないか、と思える指摘である。1000倍と書くだけでは、不安を煽ってしまう。
ねえ、1000倍! と煽り立てた朝日新聞は読売を学んで欲しい。毎日新聞の夕刊は、原発にはほとんど紙面を割いていなかった。どっかおかしくない?
そういえば、天下のNHKも、被災地の状況を伝えるのに熱心すぎて、原発にはあまり関心を向けない。センス悪くないか?

昨日から「らかす」へのアクセスが急減している。
ま、それもそうだろう。こんな災害が起きているときに、こんな脱力するような文章を読みたくなるはずがない。
世の中、健全である。