2011
03.21

2011年3月21日 のんびりと

らかす日誌

という気分にはほど遠いのだが、出来ることが何もない。今回の地震と津波、それに原子力発電所の事故である。自分の中を探索すると、無力感や焦り、心配、同情、恐怖など様々な感情が見て取れるのだが、かといって何も出来ない状況に変わりはない。

こんな時は、せめてのんびりすることを自分に強いるしかない。

我が家は県道から5mほど引っ込んだところに建っている。県道に出て左に200mほど行くとガソリンスタンドがある。ここ数日、地震の後途絶えていたガソリンの入荷が始まったらしく、毎朝、県道にはそのガソリンスタンドへ行こうという車が長蛇の列を作る。
その県道に出る路地に我が家の駐車場は面している。その路地には、県道に出ようという車が列を作る。おかげで、車を出そうにも出せない、という朝が続いている。

「まっ、仕方ないか。我が家を出られずに仕事が出来なかったとしても、死ぬことはない」

生命に危険があるのならいざ知らず、そうでない限りは、捨てられる物はすべて捨てる。これが、のんびり路線の基本である。

ガソリンが逼迫している。私は12、13日と横浜に戻ろうと思い、たまたま地震が起きた11日に満タンにしていた。だから、まだガソリン補給の必要はない。地震が起きて以降、あちこち走り回ったから、もう半分程度に減ってしまい、そろそろ給油の必要は感じ始めたが、まあ、並んで入れるほど焦る必要はなかろう。国内のガソリン生産能力は、いまでも需要を充分カバーしている。一時的な輸送の乱れで、末端まで届いていないだけである。遅くとも今週中には豊富に出回るはずだ。
のんびり派は、そう考える。

「だけど、見通しが狂ってもっと遅れたらどうする?」

なーに、車とはたかが下駄代わりなのだ。車がなくっても移動は出来る。歩けばいい。自転車もある。いざとなったらタクシーを呼べばいい。
先日タクシーに乗ったときに確認はしてあるのだ。

「おたくのタクシーの燃料は?」

プロパンです。

「プロパンのスタンド、閉じてる?」

 「いや、ガソリンと違って、いつでも満タンに出来ますよ」

のんびり派はきちんと裏付けを取って、のんびり派を貫く。

 

桐生が初めて夜間停電になった17日は、ギター教室の日であった。私のクラスが始まるののは午後6時。停電は6時20分からの予定であった。が、教室からは何もいってこない。車を乗り付けた。

「今日の教室は中止だよね」

えっ?

「だって、今日は停電するじゃない。非常用電源はある? ないでしょ? だったら、ギター教室なんか出来ないでしょ」

あーっ、まあ、そういえばそうですけど。

 「あのさ、貴方たちが経営してるんだから、こういう時は、貴方の方でいち早く決めて生徒に知らせなきゃならないんじゃないの?」

あーっ、分かりました。先生と相談して。

私に輪をかけたのんびり派である。いや、責任感のない人たちというべきか。

「いずれにしても、俺は来ないから、あとのことはまた知らせてね。来週からどうするか、とか」

ったく。私は金を払う生徒であるにもかかわらず、店舗を経営する責任にまで口を出してアドバイスしてしまう。究極のお節介ではある。

 

そしてその夜。
市内の有力者O氏に急遽借りた3個のLEDのランタンで明かりを採りながら夕食をとった。隣のみどり市では停電の時間帯が違うので、我が家が停電している時間帯も明かりがついているはずである。そこまで夕食を食べに行こうかと妻殿に提案したのだが、却下された結果である。
そういえばO氏には、

「大道ちゃんもいい友だちを持ったねえ」

恩を着せられたのだが、こんな時の恩ならいくらでも着てみせる。

というわけで、目を刺すようなきつい明かりを出すランタンで食卓を照らしながら、いつものようにヱビスビールを2本の晩酌は欠かさず、食事を終えた。それでも、まだ7時半である。ふむ、停電は10時までの予定である。どうする?

妻殿は、ランタンの明かりで後始末を終えると、早々と2階の自分の部屋に引き上げ、ベッドに入った。私は1階の居間に残った。残ったのはいいが、何もすることがない。テレビはつかない。ということは映画を見ることだって出来ない。音楽も聴けないし、だったら

「このランタン、明るいから本も読めるよ」

というO氏の言葉を頼りに読書に勤しもうかと思ったが、O氏の言葉は、時として大げさになることを確認しただけであった。この明かりでは、活字が大きくなった読売新聞でさえ読めない。

仕方なくラジオをつける。必要なのは災害情報である。特に、福島原発の現況を知りたい。NHKに合わせる。

が、何ともまどろっこしい。延々と避難所のルポを繰り返し、知りたい福島原発の状況は待っても待っても出てこない。

考えてみれば、時間軸に従わなければ情報に接することが出来ないラジオやテレビは、実に不便なメディアである。放送局が勝手にニュース度を判断した構成に従って情報が開示する。私の価値判断と放送局の価値判断が食い違っていれば、欲しい情報を手にするまで延々と待たされる。

活字メディアであれば、自分が欲しい情報から先に読むことが出来る。新聞ならページをざっとめくって見出しを見れば、どのような情報が収められているかが短時間で分かる、雑誌でも見出しを見て、読む記事を決めることが出来る。実に便利である。

活字メディアの泣き所は、時間だ。テレビやラジオなら実況中継という同時性を実現することが出来るが、新聞や雑誌では取材して執筆して編集して印刷して配送しなければ読者の元に届かない。

双方の泣き所を克服したはずのインターネットも、限界を露呈した。リアルタイムの情報が見あたらない。せいぜい、新聞記事が転がっている程度である。
それはそうだ。現場にいる人たちは自分を守るので精一杯である。事態の悪化を防ぐ作業に寝る間もないほどである。ネットに向けて情報を発信する時間なんてあるはずがない。
ネットで拾えるリアルタイム情報とは、現場に暇な人間がいなければ出てこないのだ。これほどの災害になると、情報はプロの報道機関に頼るしかない。
それに、電気が来ないのでは、ISDNでネットに接続している我が家では、接続自体が不可能だ。電話回線を使うiPhoneを、この非常時に使うのは気が引ける。

なるほど、メディアには一長一短があるものである。

暗闇は様々な思考を誘うものらしい。

 

しかしながら、知りたい情報が出てこない。のんびり派としてはあるまじきことかも知れないが、他局にチューニングしてみた。民放は地震も津波も原発の事故もどこ吹く風で、通常放送をやっている。いくらのんびり派を気取ろうと、こんな放送を聞くにはならない。

再び NHKに合わせた。まだ被災地ルポだ。
ふと思いついて教育放送に合わせた。こんな時は、固いコンテンツがいい、というのは私だけの感覚か?

何やら、受験講座のようなものをやっていた。

「はい、この分数の計算では、まず分母を同じ数に合わせる、そう、通分をします。これを通分すると、そう、分母は12になりますね。通分が終われば、あとは分子同士を足したり引いたりします。そうすると……」

ははあ、これは未知数を含んだ分数の計算か。中学生向けの放送かな?

「はい、今日の数llの授業はここまでです」

えっ、数llって高校2年生で勉強するんだよな。高校2年生で、分数式の計算を通分から説明しなきゃいけないのか? いまの若者の学力低下って、本当なのか?

次の授業が始まった。

「今日は、永井荷風の作品を、文芸評論家の○○◇◇さんに朗読していただき、お話をうかがいます」

一方に、地震と津波で大きな被害を受け避難所で命をつないでいる人たちがいる。原子力発電所の事故で自宅を離れざるを得なくなった人たちがいる。原発の暴走を本当に止めることが出来るのかどうか、固唾を飲んで情報を求める私のような人間がいる。
そんなときに教育放送では

「永井、荷風は、明治から、大正、昭和にかけて活躍した作家で……」

なるほど、世の中は多様である。

間もなく、明かりがついた。すぐにテレビをつけて普通の暮らしに戻った私であった。