2011
03.28

2011年3月28日 ささやか

らかす日誌

朝、車で家を出た。
表通りに出て、この間、いつも混み合って車が列をつくっていたガソリンスタンドにさしかかった。給油待ちの車が1台もいない。

「ん? 今日は営業してないのか」

そうではなかった。スタンドの中では、2、3台の車が給油している。半月ほど前までは当たり前の風景だったが、この間の狂騒を見た目には異様に写る。

次のガソリンスタンドでも、給油しているのは数台だ。そして次のスタンドも。何だか、世の中がすっかり様変わりした。

ひと仕事終えて、通いつけのスタンドに車を乗り付けた。私の車も、燃料系の針は半分を切っていた。ここでも、給油しているのは1台だけ。

 「今日から平常に戻ったみたいだね」

私の車に給してくれているお兄ちゃんに声をかけた。

 「はい、昨日がピークでした。今日も来るか、と思って待ち受けていたのですが、1台も並ばなくて」

拍子抜けしたような表情でお兄ちゃんが答えた。
どうやら、世の中、ガソリンに関する限り、桐生は平常に戻ったようである。

ガソリン不足が始まって、私はのんびり派を宣言した。自分だけ何とかなればいいという品のない方々と一線を画す。給油の列には並ばない。ガソリンがなくなったら、移動の足はタクシーとする。もちろん、それにかかった費用は会社に請求する。

とはいいながら、仕事でも足にしている車の燃料計の針がどんどん下がってくるのは、気分がよろしくない。先週木曜日、とうとう、残り4分の1となった。このガソリン不足、いつまで続くんだ?

念のために、行きつけのスタンドに行ってみた。すると、事務所に人影がある。ん? ガソリンが入荷したのか? それにしては、車が進入できないようにロープが張ってあるが……。

 「あのさ、いつになったらガソリンが入荷する? 見通しは立った?」

それが知りたくてここまで来たのである。人影を見た以上、聞かないわけにはいかない。

 「えーっと、お客様はハイオクでしたね」

そうだけど、ガソリン入荷の見通しと、私の車がハイオク仕様であることとの間に、何か関係があるのか?

余談だが、私の車も、元々はノーマル仕様なのである。問題は、欧州と日本で、ノーマルガソリンの規格が違うことだ。欧州のノーマルガソリンはオクタン価が95ある。ところが、日本のノーマルガソリンは90強。このため、私の車は日本のノーマルガソリンに適していないのである。日本のノーマルガソリンのオクタン価を欧州並みにせよ!

本題に戻る。

「ハイオクなら、ご都合できますので、裏に回ってくれますか?」

ガソリン入荷の見通しが分かればいいと思っていた私には、予想外の展開であった。

「あっ、それじゃあ入れてよ。40lぐらいはいると思うけど」

 「申し訳ありません。20lにさせてください」

こうして私の車は、ガス欠を免れて週を越したのである。
卑しくガソリンを追い求めたのではない。棚からぼた餅のようにガソリンが落ちてきたのである。ここだけは強調しておきたい。

そして今日、再びスタンドを訪れた機会に給油をした。33lほど入った。久しぶりの満タンである。

「これでしばらくはガソリンのことは考えなくてすむ」

ささやかな安心感である。ささやかな歓びである。だが、このゆとり感はなんだ?
人間の落ち着きとは、ささやかな満足感の積み上げにすぎないのか?
うーん、俺、人間が小さいのかなあ……。

 

それにしても、福島原発である。大気中の放射線量は減少傾向というが、原発そのものでは圧力容器が壊れたのではないかという疑いも出ている。核分裂の暴走を止めることができるのか。
現実に立ち返ると、ささやかなゆとりなど吹き飛んでしまう。

一刻も早く原発の暴走を押さえ込んで欲しい。祈るような思いでニュースにかぶりつく。だが、希望が生まれる情報も見通しも、そこにはない。

信仰心のかけらもない私でも、今できるのはただ祈ることだけらしい。

今朝からまた、腰が少し痛み始めた。医者が出した薬は飲み続けているのになあ……。

今朝、車のドアロックが壊れた。運転席のドアだけ、リモコンキーで操作できない。去年も同じ故障が起きた。ヒューズが切れていた。またヒューズ切れ? 明日、修理に行かなくっちゃ。

いずれも、原発事故に比べたらたいしたことはない。が、たいしたことがない問題の積み上げが日常生活だと思い知る日々である。