2011
11.05

2011年11月5日 久しく

らかす日誌

日誌を更新しなかった。
いや、別に病に冒されていたわけではない。暇がなかったわけでもない。
ま、単純に表現すれば、ネタ不足である。昨日と今日にそれほどの違いはなく、胸をときめかせることもなければ、世界を呪って落ち込むこともない。日々これ好日、毎日が日曜日、の暮らしが続けば、日誌に書くこともそれほど出てこない。

新聞、テレビでニュースを見ても、国会でドジョウ首相は、官僚の書いた作文を棒読みするだけだし、棒読みしすぎて、質問されていないことにまで答弁したりして、

 「ドジョウはやっぱりドジョウか。駒形どぜう、伊せ喜なんて、ドジョウ料理を売り物にする店はあるが、ドジョウって毎日食べたくなるものではないよな。やっぱ、ドジョウはドジョウ。ウナギにはなれないし、ましてや、鯛やヒラメには絶対になれなんだ」

という、世間の常識を再確認させてくれたりする。
おまけに、日本でいちばん頭のいい人たちの集団であるといわれる財務省官僚にすっかり洗脳されて、消費税増税を国際公約したりする。あれっ、民主党って、増税には距離を置いていたんじゃない? と思ったりするが、ま、その程度の人だとあきらめざるを得ない。
日本、どうなるんだろうね?

 

今日は、久しぶりに佐野のアウトレットまで車を走らせた。私のズボンを買うのが目的である。

「足りないの。どっかで2本ぐらい買ってきて」

我が妻女にご下命を受けたのは、もう3週間ほど前のことである。

「去年だってズボンをはかずに仕事に出かけたことはない。つまり、数は足りていた。あれからたった1年、どうして新しいのを買わなきゃいけないんだ?」

まあ、私とて、美しくありたくないわけではない。だけど、どんなに着飾ったって、30代に戻れるわけではなく、独身生活を謳歌できるわけでもない。おまけに、可愛い姉ちゃんを振り返らせる手立てにだってなりはしない。であれば、衣服とは、他人に

 「おい、あいつ素っ裸だぜ。可愛そうに。狂っちゃったんだねえ」

といわれないために身につけ、日ごとに深まりゆく秋に伴う気温低下で風邪をひかないためにまとっていればいい。私はそう思う。
どんな格好をしていようと、3900円のズボンをはいていようと、

 「大道さんが身につけてるものだから、きっと高価なものに違いない」

と周りは勝手に思い込んでくれる。
私にとって、衣服とはその程度のものである。気になるとすれば、せいぜい、色のコーディネイトぐらいだ。

が、妻女殿はそう思わないらしい。

「何いってんの。古くなって、もう仕事には使えないズボンがあるのよ。数が足りないんだから」

そう責められ続けた。
思い立って昨日、

「ズボンがいるなら、明日、アウトレット、行ってみるか?」

と提案したら、乗ってきた。それで、車を走らせたのである。

予定通り、ブルックスでズボンを2本買った。今回は3900円のものはなく、その2倍ぐらいの値札がついていた。ああ、もったいない
妻女殿は、ズボンだけでなく、シャツも2枚お買い上げになった。休日用のシャツが払底しているのだそうである。私は物持ちになった。

そんなお買い物にお付き合いするうちに、私にも購買意欲が芽生えた。

「おれ、ちょっとGパン買ってくるわ」

Gパン。考えてみれば、もう10年以上持ったことがない。歳をとると、何よりも快適さを求めるようになる。下半身を締め付けるGパンよりも、ルーズなチノパンのほうがありがたくなる。

「そんな怠惰な精神でどうする!」

と考えたわけではない。Gパン? 1本ぐらい持っていた方がいいんじゃない? ふと、そう思った、という程度の話だ。

リーバイスのショップに入り、体に合わせた。3本はいてみて、ウエスト35、股下34の503を買った。ウエスト35とは、㎝に直すと86である。

「えっ、ウエスト86㎝が俺に入る?」

感動した。だから、買った。

自宅に戻り、早速履き替えた。10数年ぶりの Gパンだ。下半身をピッタリ締め付ける感触は、決して快適ではない。

「だけど、ファッションは我慢だ。快適さは二の次なのである」

とはき続けた。
夕刻、入浴のためシャツを脱いだ。下半身は Gパン姿、上半身は裸である。

「えーっ、大道さん、ワイルド! 私、もうダメ。想像しただけで体が溶けちゃう。ねえ、何とかして!」

と叫びたくなった、そこの可愛いお嬢さん。
ありがとう。
だけどね、お腹の肉が、 Gパンからオーバーフローしていた。
それでも、何とかして欲しい?

 

手こずり続けた Eric Claptonの名曲、Old Loveにめどが立った。絶対に不可能、と思っていた早退きパートが、3、4回に1回は弾けるようになった。ほかにも1、2カ所、なかなか上手く弾けないところがあるが、これは練習で何とかなる。
めどが立ったEric Claptonの曲はこれで4曲目。ギター教室に通い出して2年で4曲。順調なのか、劣等生なのか?

めどが立ったところで、新しい曲に挑み始めた。 The Beatles、というか、John Lennonの名曲といった方がいいか、Norwegian Wood(ノルウェーの森。村上春樹の小説ではない。あれは、単なるソフトポルノにすぎない、と、ノーベル文学賞を受賞するかも知れない作家の作品を、私は勝手に評価している)である。

Dのコードを押さえながら、人差し指と薬指でメロディーラインを作る。繰り返し出てくるわずか2小節の短いフレーズが曲の印象を決める。あとは単純なコーである。このフレーズさえ弾けるようになれば、自在に歌えるようになる。
恐らく、一般的にいえばそれほど難しいフレーズではない。なにしろ、あの John Lennonがこなせたのである。なのに、指がなかなか自在に動いてくれない。薬指を弦から離さなければならないところで、何故か人差し指が離れてしまう。
自分のものなのに、自在に動かない。まあ、人生のようなものか。

楽しんで練習を重ねている。おかげで、指が痛い。
明日も、恐らく、朝からギターを抱くのであろう。
とはいえ、いまのところ、ギターを抱いた渡り鳥になる予定はないのであるが。