2012
05.13

2012年5月13日 復活

らかす日誌

といえるかどうか不確かであるが、とにかく「復活」した。ギターである。

注射のあと、肩は8割方回復した。まだ、コキッ、コキッとひっかかるところがあり、時として痛みを伴うが、一時からすれば軽い。

ではあるが、念のため、ギターを持つのは週明けにしようと心に決めていた。何事も無理は避ける。還暦を過ぎたいい年のオッサンは、そう心に決めていたのである。

が、いけない。痛みがあらかた去ると、やっぱりギターが気になる。
気をそらそうと、昨日は朝から車を洗った。ドロドロに汚れていたのを綺麗にし、ついでに車内に掃除機をかけた。連休中、瑛汰、璃子を伴って雨上がりのイチゴ園でイチゴ狩りをした後遺症で、あちこちに泥がこびりついていたのである。

2時間ほどかけて、間もなく丸6年になる我が愛車は、新車同様のピッカピカにになった。それはいいのだが、それからがいけない。
土曜日である。車を洗い終わると、何もすることがない。どうする?

昼食を済ませても、やることがないことに変わりはない。どうする?
己に課した禁を己で破り、こわごわギターを取り出した。それほど、私の音楽への愛は深いのである。というか、どう考えても、ほかにすることを思いつかない。時間が余って仕方がない。

久々に弾くギター(宴会を除く)は痛かった。弦を押さえる左の指が悲鳴をあげそうになる。

そういえば、毎日ギターをひいいていたころはザラザラだった左手の指先が、何だか綺麗になっている。体の修復機能の見事さだが、ために、左手の指先が痛む。痛し痒し、だ。

あわせて、私は右肩を気にしなければならない。なにしろ、右肩が痛むのでギターから離れたのだ。注射を打って、痛みが引いて、再びギターを持ったら肩が痛み始めたのでは、なんで注射まで打ったのかが分からなくなる。

肩に違和感を感じたら休む。そんなことを繰り返しながら2時間ほどギターを弾いた。

 

今日も3時間ほどギターと向かい合った。肩は、今のところ大丈夫だ。ま、肩を痛めた原因と見られる Old Loveは、賢明にも避けているので、そういうものかなとも思うが。
せっかく、8割方は演奏できるようになったOld Loveの練習を再開できるのは、さて、いつのことか?

 

昨夜は映画を見た。「男たちの大和/ YAMATO」。
一言で言えば、紋切り型の映画である。生きなければいけなかったのに、死を選ばなければいけなかった若者たちの群像劇で、一つ一つを取り上げれば、監督以下制作陣のイマジネーション欠乏症が透けて見える。いかにも、のオンパレードなのだ。

若者たちをここまで追い込んでしまった政治の体たらくも描かれない。ということは、なぜこの若者たちがこのような状況の追い込まれたのか、その責任者は誰なのか、原因は何なのか、は見事にパスされる。社会性、政治性は全くない映画である。

なのに、いつの間にか涙がにじみ出してくる。おいおい、嗚咽を漏らしているのは俺か?!

まっとうに時代と添い寝をした若者たちの姿がまぶしかった。そう、あの時代に生きていたら、本来臆病者の私も、彼らのように思い定めて大和に乗り込んだかも知れない。
人間とは時代精神を乗り越えて生きることはできない。どれほど超然と生きようとしても、どこかには時代がまとわりつく。そもそも、時代に超然とするということは、究極の無責任かも知れない。

獄中で非転向を貫き、戦後英雄となって娑婆に出た共産党のお偉方に、軍国少年であった吉本隆明さんが違和感を持ち、やがて猛然と牙をむいて批判し尽くした思いが、何となく共有できた気がした。それが嗚咽の原因だったかも知れない。

そういえば、吉本さんの「転向論」、また買ったよな。そろそろページを開いてみるか。

 

あ、お知らせが遅くなったが、頭脳警察のリーダー、 PANTAのアコースティック・コンサート@桐生は、売り切れた。私が17枚売り、店に14枚の予約が入った。ひょっとしたらこの先、

「何としても聴きたい!」

という御仁が現れないとも限らないが。
補助席の心配をしなければならなくなった。嬉しい限りである。