2013
02.02

2013年2月2日 体罰

らかす日誌

相も変わらぬ身辺雑記を書き連ねながら、でも、どうしても脳裏を去らないことがある。

あの大阪の高校生、自殺の原因は体罰を受けたことなのか? ホントにそれだけなのか?

以下の文章をお読みいただく前に、お断りしておくことがある。
私は、体罰は嫌いである。

私の高校時代であった。いつものように放課後、柔道の練習をしていた。すると、キャプテンが、

「みんな、部室に入れ!」

という。何事であろうか、と部室に入ると、突然キャプテンのビンタが飛んできた。

「お前ら、たるんどる! 何をタラタラ練習してるんだ。分かってるか? もっと気合いを入れんか!!」

ま、たるんでいたことは、ひょっとしたら事実であるかもしれない。気合いが入っていなかったことも認めていい。だけど、それって、殴られなければならないようなことか?

往復ビンタをもらいながら、私は釈然としなかった。何で俺、殴られなければならん?

キャプテンは3年生、当時の私は1年生であった。この年代の2年差は大きい。体のできが違う。刃向かったところで、力で圧倒されるのは目に見えている。刃向かうことで、キャプテンをさらに挑発してしまうかもしれない。ここは黙って殴られておくしかない。

と計算しながらも、釈然としないものは残ったままだった。

それから1年半ほどして、私がキャプテンになった。私は、一つの誓いを立てていた。

「後輩には絶対に手をあげない」

そして、確実に誓いを実行した。私は、一度も後輩を殴らなかった。

その私が、思う。

時と場合によっては、体罰は必要なのではないか? 自分の拳を痛めても殴ってやらなければ、本当に必要なことが伝わらないこともあるのではないか?

私は、柔道部の後輩は殴らなかった。しかし、私の3人の子供たちは叩いた。頭は避けた。長男は主にビンタをした。娘たちは、お尻をたたいた。
無論、言葉で教え諭すことができれば、それに越したことはない。しかし、言葉では伝わらないこともある。そういうとき、体罰は必要なのではないか。
体罰は一切まかり成らぬ、ということで、本当に教育ができるのか?
そもそも、自分の手で殴れば、相手も痛みを感じるが、こちらの手だって痛みを感じる。生半可な気持ちでは、人を殴ることなどできるはずがない。

 

そして、大阪である。
報道は、一貫してバスケットボール部顧問の体罰が自殺の原因であると断じ続けた。
顧問は、日常的に体罰を加えていた。女子も殴っていた。練習試合の最中にも殴っていた。
まるで、暴力を振るうことに快感を感じる異常人格者であるような報道である。

怖いのは、一度レッテルを貼り付けてしまうと、誰もそのレッテルを疑わなくなることだ。高校生の自殺=体罰の結果、は当然のこととして世の中に浸透し、お調子者の大阪市長は、高校の入試を取りやめてしまった。
それでいいのか?

そもそも高校生にもなって、殴られたぐらいで自殺するか?
しかもこれ、殴ったのはバスケとボール部の顧問である。殴られるのが死ぬほど嫌なら、ほかに選択肢はあったはずだ。
まず、部活をやめる。バスケットボール部員でなくなれば、殴られることもない。
あるいは、あまりに理不尽な暴力であったのなら、反撃してみてはどうか。死ぬとまで思い詰めた反撃なら、勝算は高校生の側にある。顧問は、死を賭けてまで殴ってはいないのである。殴っている高校生が目をむき、歯を剥き出して反撃してきたら、腰が引けるのは間違いない。
担任や校長に訴える手もある。その際は、暴力の奮い方が理不尽であることを説得しなければならない。
それが無理なら、親に相談することもできたはずだ。

自殺した高校生、体罰だけが原因であったのなら、そこから逃げる手段はいくらでもあったはずだ。

それなのに、彼は死を選んだ。
体罰だけが原因か?
私は釈然としない。度重なった体罰に、彼の自殺の原因のすべてを押しつけて疑おうともしないマスメディア、自称知識人、無責任なネットピープルに、世の流れに乗ればすべてが許されるという知的退廃を見る。

少なくとも、一人の高校生が自ら命を絶ったのである。もっと多面的に検証する努力を重ねてはどうか。

私の知る限り、唯一世の流れに逆らったのは、発売中の週刊文春だ。
それによると、自殺した高校生はそれほどバスケットボールが上手ではなかった。しかし、母親はかなりの教育ママで、バスケットボールで大学、それも早稲田大学に進学することを期待していた。すでに兄は、やはりスポーツ(バスケ、だったと思う)で早稲田(これも不確か)に進んでいる。

「あんたもお兄ちゃんを見習って」

という教育ママだったという。
ところが、期待されてもバスケでなかなか芽が出ない。それで彼は考えた。

「キャプテンになれば、推薦で有利に働くはずだ」

こうして彼はキャプテンに立候補する。
このバスケ部では、キャプテンは何人かにやらせてみて、いちばんチームをまとめる力がある子に任せる方式をとっていた。だから、同じ学年でキャプテン経験者が何人もいる。
しかし、キャプテンに立候補した子は、かつていなかった、と記事にある。チームをまとめるのはかなり大変なことで、加えて、チームのリーダーとして常に顧問と面と向かう。全員を指導するために、キャプテンが代表で体罰を受けることも多かった。
そんなものに、自分から手を挙げてなりたい子はいない。お前しかいないといわれて渋々引き受ける。

で、何が起きたのか。

 「お前、キャプテンになったって、早稲田への推薦枠なんて、もともと、うちの高校にはないんだよな」

顧問にそういわれたのだそうだ。
おっとっと。
バスケットボールの実力では早稲田に行けそうにない。だからキャプテンに立候補したのに、全く意味がないという。だけど、母親の期待は強い。いったいどうしたら……。

いや、この記事を読んだからといって、母親の過剰な期待が自殺を招いたと断言する気はない。この記事だって、自殺した彼を取り巻く状況の一部を写し取ったに過ぎないのである。

体罰はあった。大学進学を巡る問題もあった。よく探せば、ほかにも、彼が直面していた問題は様々にあるはずだ。その複合作用で、彼は命を絶とうと思ったのは間違いなく、彼の死を無駄にしないためには、彼を取り巻いていたすべての要因を、冷静に摘出して並べてみなければならない。

暴力はダメ!

という、あまりにも当たり前すぎる常識におんぶに抱っこして、すべての責任を体罰に押しつけてよしとするぼんくら頭しかいないのでは、彼の死が無駄になる。

発生した場所が悪かった。もう少しまともな首長がいる町だったら、自殺の原因を探る調査ももう少し深化したと思う。だが、すべてを前さばきで済ませて政治的に有利に立ち回ろうという魂胆ばかりが目に着く男がしゃしゃり出てきた現状では、それも望み薄だろう。
父親が、顧問を刑事告訴したという。捜査機関は自殺の原因を突き止めることができるか。それとも、世論に乗っかって、体罰にすべての責任を押しつけるのか。

ねえ君、こんなことなら、もっと強く生きてくれれば良かったのに。