2013
05.26

2013年5月26日 山登り

らかす日誌

が好きな爺さんがメディアの寵児になった。その名を三浦雄一郎という。
これまでも、なんやかやとメディアに取り上げられてきたが、今回は80歳にして世界の最高峰・エベレストに登ったのだそうだ。

世界最高齢でのエベレスト登頂。個人的にはおめでとうといいたい気がないわけではない。が、メディアがこれだけ騒ぐと、いつもの天の邪鬼が目を覚ます。

エベレストに登ったの。ふーん。で?

現代の登山は、昔の登山に比べれば大名旅行だ、とはよく聞く話だ。
かつての登山家は、何の助けも借りずに山頂を目指した。しかし、現代の登山家は、まず酸素マスクの助けを借りる。高山では酸素濃度が低くなり、運動能力を激しく奪うからである。
シェルパの助けは昔もあったかもしれない。が、気象観測の精度が上がり、それを高地まで伝える通信技術が発達し、かつてのように天候が崩れないことを神に祈りながら山頂を目指す必要もなくなった。

「今日の午後3時から11時間程度は、山の天候は穏やかです」

などという予報情報を受け取りながら、

「だったら行くか」

と腰を上げれば済む。

酸素マスクをつけて呼吸には問題がない。酸素不足で手足が自由に動かなくなることを恐れることもない。麓から伝えられる気象情報で、途中で嵐に見舞われる危険もほとんどなくなった。
現代のエベレスト登山とは、怒られることを承知の上で表現すれば、ちょいとハードなトレッキングに過ぎない。

それをやったからって、どうして英雄として讃えられねばならないのか。

「いやあ、励まされますね」

 「あの歳で、ねえ。あやかりたいわ」

 「元気をもらいました」

街頭録音で拾われた街の声もろくなものではない。ねえ、マイクを突きつけられたら、もう少しまともなことを話そうとは思わないか?

どっかのジジイが、少しばかり高い山に、いろいろな助けを借りながら上ったことに励まされる人とは、いったいどのような日常生活を送っているのか。それほど救いのない日々なのか?
よその爺さん、ばあさんがどれだけ元気でも、あやかって自分も元気になることは、物理的に不可能である。食って寝るだけのく暮らしをのうのうと送っている人々は、その歳になればその年並み、あるいはそれ以下の体力しか持てない。
元気はやりとりするものではない。人にあげようと思っても無理である。ましてや、もらうことなど永遠に不可能である。よく使われる

「勇気をもらいました」

 「みんなに勇気をあげたい」

も同じように、言葉として意味をなさない。臆病者は何があっても臆病だし、向こう見ずは何があっても向こう見ずだ。他人の尻馬に乗ってはしゃぎ回るのはお調子者だけである。持って生まれた性格は、山登りのジジイの姿を見ても変わるはずがない。

このような、どうでもいい話をご大層に大々的に取り上げるメディアって、いったい何を考えているのか? いや、そもそも考えるという習慣を持つ人間がメディアの中に存在するのか?

繰り返す。
三浦雄一郎がエベレスト登頂に成功しても、世の中には何の変化もない。それで暮らし向きがよくなる人もいなければ、悪くなる人もいない。戦争がなくなるわけでも、事故を起こさぬ車が産まれるわけでも、ただみたいなエネルギー源が手に入るわけでもない。
要は、三浦雄一郎という爺さんが、もう一度エベレストに登りたいと思い、トレーニングを重ねて体力を維持し、ヒイヒイいいながら登り切ったという、極めて個人的な話なのだ。

ご本人、ご家族が満足され、喜ばれるのは当然である。
私だって、三浦雄一郎の親族であったり、友人であったりしたら、歓び、誇っただろう。
だが、第三者には何の意味もないことだ。

それを、なぜメディアが大々的に取り上げるのか。

じっちゃんのエベレスト登頂成功のニュースを、感心したような顔で見ていた妻女殿に、私は告げた。

「これは、社会的には何の意味もないことである。どうしてみんなで大騒ぎしなければならないのか。桐生にも、世界で唯一の技術を持つ中小零細企業がいくつもある。偉人とは、巷に埋もれている人がほとんどだ。でも、そこに光を当てようとするメディアはほとんどない。これって、おかしくないか? メディアが取り上げる偉人というのはろくでもないヤツであることが多いのだ」

妻女殿はキョトンとした顔をしていらっしゃった。
私の思いが伝わったのかどうか。
ま、妻女殿とのコミュニケーションには、余り期待を持てなくなった私ではあるが。