2013
05.31

2013年5月31日 音楽の楽しみ

らかす日誌

よんどころない私用で、仕事を休んで東京まで行ってきた。といっても、

 「あの女に会いたくて矢も楯もたまらず……」

に、早朝から車に乗り込んで時速140kmで疾走させたわけではない。できることなら、そのような劇的な生き方をしてみたいと思うことにかけては人後に落ちないが、悔しいことに、そんな私を待っていてくれる人がいない。
ああ、このところ、人生が空しい……。

本日のよんどころない私用は、私ではなく、妻女殿がお持ちなのであった。よって私は、単なる運転手に過ぎぬ。いわれるまま、自宅から目的地までお送りし、用件がお済みになるのを待って、再び桐生までお連れする。

皇居前を走っていたとき、

「危ない!」

と叫ぶ妻女殿に、

うるさい!! 運転しているのは俺だ。黙って乗っておれ!!!」

と怒鳴ってしまったのは、専属運転手としてはいかがなものかと自省しないでもないが、ま、とっさに出た言葉である。人間性の発露として、認められて然るべきだ、との思いは、当然ある。

 

それは別として、車のハンドルを握る往復280kmの最中、私の頭の中では、ある音楽が途切れることなく流れ続けていた。

黄昏

押尾コータローのギター曲であり、いま私が、憑かれたように練習している曲である。NHKのEテレでやっていた

押尾コータローのギターを弾きまくロー!

の4回目で耳と目にし、

「音を、こんなに綺麗に並べることができるのか!」

と感嘆して早速楽譜を買い求めた。以来、練習に練習を重ね、上手く弾けるか、つなげて弾けるか、など、基本的なことをこの際無視すれば、7割程度は弾けるようになった。その「黄昏」が、常に頭の中で鳴り響くのだ。

と、ここまでお読みなって、鳴り響いているのは、押尾コータローが演奏する「黄昏」である、とほとんどの方が了解されたはずだ。
ところが、違うのである。私の頭の中で鳴り響くのは、私が演奏する「黄昏」なのである。鳴り響く「黄昏」を聞きながら、私は

「素晴らしい曲だ!」

とうっとりする。

不思議な話だが、私は押尾コータローの弾く「黄昏」は、数えるほどしか聞いたことがない。「弾きまくロー!」の該当部分の映像は3回しか見ていない。ずいぶん前に買ってあった彼のCD、「Starting Point」(「黄昏」が入っている)で再生したのは、私の記憶によると、2回に過ぎない。合わせて5回。

ある曲をギターで弾きこなすためには、その曲を数限りなく聴き、頭の中に焼き付けてからギターを持って音を出す、というのは、昨春まで通ったギター教室で教えられたことだ。私は、その原理原則を完全に破っているのである。
何故か。

聴くより、弾く方が遥かに楽しいからである。

実は、この結論に、自分でも驚いている。
音楽は数限りなく聴いてきた。聴いて楽しかったからである。John Lennonのリリシズムに酔いしれ、Paul McCartneyのベースラインに躍動し、Eric Claptonのギターに神を感じ、モーツアルトのピアノコンチェルトに限りない美を感じ……。
楽器を学んだことがない私が音楽を楽しむということは、そのようなことであると、ずっと思って生きてきた。ところが。

聴くより、弾く方が、音楽って、ずっと、遥かに、楽しいのだ。

私の弾く「黄昏」は、押尾コータローの弾く「黄昏」に比べれば、100分の1、1000分の1のできでしかない。音楽として聴く限りは、その通りである。だから、私は、自分で弾くより、押尾のCDをかけていた方が、遥かにいい音楽を耳にすることができる。
ところが、楽しさとなると全く別なのだ。楽しさで計量すると、押尾のCDを聴くより、自分で「黄昏」をつま弾く方が、1000倍も1万倍も楽しいのである!

ああ、だから、楽器ができ、歌が歌える才能に恵まれた連中は、他人の音楽を聴くより、自分の音楽を人に聞かせる方を選ぶのか。

なんだか、人生の深い深い哲理を見届けたような気がする。

だからといって、60の手習いで始めたギターで一世を風靡できるわけもない。だが、60の手習いも、人生の深い楽しみの入り口までは行けるのだ。ひょっとしたら、玄関ホールにまで入ることができるかも知れない。

音楽を楽しむ。人生を楽しむ。
あなたもギターを始めませんか?

まだ、

「俺が手取り足取り教えてやる」

という自信はありませんが。

あ、自信はなくても、見目麗しいアラサーの女性には

「教えてあげるよ」

といってしまう私であるかもしませんが……。