09.20
2013年9月20日 項羽と劉邦
何故かいま、というより、きっちりとしたわけありで
「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著、新潮文庫)
にどっぷり浸っている。上中下3巻中、すでに2巻まで読み終えた。現在、劉邦さんは榮陽(けいよう)の陣を項羽に破られそうになり、影武者をたてて項羽軍の目を欺いて自らは密かに逃亡、関中にほうほうのていで逃げ込んだところである。
学問はなく、従って読み書きが不自由で、氏素性もはっきりしない、戦にはからっきし弱く、逃げてばかりいるのに、女に目がなく、機会がありさえすれば次々と美女たちを犯しまくる劉邦。なぜこんな奴が、秦帝国滅亡後の混乱の中から、唯一人として前漢を築くに至るのか。中国古代史の山場の一つが、そろそろ佳境に入る。
そうそう、私は何故この本を手にしたかが、今日のテーマであった。それは、
WOWOW
のせいである。
WOWOWが、「項羽と劉邦 King’s War」という連続ドラマの放映を始めたのは、今年の春からである。1回分41分。毎週土曜日の午前9時から、2話ずつ放映する。すでに40話まで進んだ。
私は歴史ドラマが好きである。ために、初回から録画を始めた。ところがこのドラマ、なんと全80話。ということは3280分、55時間近い長丁場である。ブルーレイにダビングはするのだが、しかし、これほどの長尺ものとなると、その都度見ておかねばいつ見る気が起きるか知れたものではない。
というわけで、出来るだけ見るようにしている。1、2週見ないと、追いつくのが大変だが、まあ、好きな世界だ。苦情は言えぬ。
ところが、これがドラマの限界なのだろうか。長くなればなるほど、だんだん私の頭の中で筋がこんがらがってきて、何がどうだったのかが判然としなくなってきた。その一因は私の頭のできの悪さだが、もう一因は、テレビドラマとしての省略の多さだ。見続けていると、
「何でそうなっちゃうの?」
というシーンにたびたびぶつかる。そのたびに、ただでさえ混乱している私の脳内が、しっちゃかめっちゃかになってしまう。
「これはいかん。一度、本で全体の流れを把握しておかねば」
となれば、司馬さんの出番である。
「うーん。司馬遼太郎の著作のほとんどは読んだはずだ。ということは、この本も既読で、横浜に戻って本棚を調べれば、どこかにあるのではないか?」
という疑惑にも囚われた。しかし、しばらくは横浜に行く予定はない。娘に
「という本がないかどうか、書棚を見てくれないか」
というのも気の毒だ。
と思い、Amazonに発注し、確か翌日届いた。先週末のことだった。
届いたとき読んでいたのは
「もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら」(架神恭介著、ちくま文庫)
であった。
この本によると、お釈迦さんというのは、ドラッグでもやったときのような脳内ドッカーン、という快感を味わったことがやみつきになり、
「でも、ドラッグは効き目がなくなったら快感も終わりだよね。この脳内ドッカーン快感が永続する方法はないのか?」
を追い求めた修行者だったらしい。
一方パンクロッカーとは、全く知能を使うことなく、常にアルコールを大量に胃袋に入れてラリパッパとなり、やたらめったらげろを吐き、無意味にベースギターを振りかざして他人に殴りかかるものらしい。
さて、こんな2人が対決したら何が起きるのか?
という説明は、かなり私の勝手な解釈も入っているため、そのまま信用しないように。
こうした極端な設定をしながら、仏教とは何かを出来るだけわかりやすく解説しようという意欲的な本である。
あ、そんな話じゃなかったな。
とにかく、このパンクロッカーを抱腹絶倒しながら読み終えた私は、直ちに「項羽と劉邦」に取りかかったのであった……。
いやあ、しかし、あれだね。かつての中国には、魅力的な男がわんさかといたのね。学問はなく、従って読み書きが不自由で、氏素性もはっきりしない、戦にはからっきし弱く、逃げてばかりいるのに、女に目がなく、機会がありさえすれば次々と美女たちを犯しまくる劉邦は、それでも実は体内に広大な真空を持ち、多くの傑物たちを惹きつける。
「俺がいなきゃ劉邦はだめになる」
と思わせる人徳がある人物であったとのことだ。
一方の項羽は、中国伝説の美女、虞姫を一途に思う男である。純情なのだ。それでいて、身の丈184cmの、当時としては巨大な男で、とにかく強かったらしい。身内の情に厚く、だが、敵の捕虜20万人を平気で生き埋めにして苦にしない怪物でもある。これも、男の魅力の一方を代表する存在だ。
そして、この2人を取り巻く傑物たち。
はーっ、同じ中国というのに、いまの中国にはその片鱗すら持ち合わせる人物が見あたらぬのはどうしたことか。それとも野に隠れ、まだ出番を待っている時期なのか。
さて、項羽に追われて関中に逃げ込んだ劉邦は、どのような闘いで、殺しても死なないような項羽に勝利を収め、漢帝国を築くに至るのか。先が楽しみである。
読みながら思った。
「この本、読んだ記憶がないぞ。司馬作品はほとんど読んだはずだったのになあ」
たまたま読み落としておいたのか。
実は読んだのだが、その記憶が一片たりとも残っていないのか。
前者なら、まあ、そうかと思う。
後者だったら……。
そんな歳になったのかと嘆くしかないのか?