09.30
2013年9月30日 空也
昨日から始めたコピー作業、順調に進んで……、
と書きたいところだが、そうは問屋が卸さない。
コピーの受け側であるブルーレイレコーダー、パナソニックDMR-BW800をいじっていて、便利な機能に気がついた。確か
ピッタシ録画(ピッタリ、か?)
といったと思う。録画を始める前に、あらかじめ録画時間をセットできる。つまり、この機能を使えば、録画している間張り付かなくて済む。これからコピーしたいソフトの収録時間が分かれば、セットを終えてボタンを押せば、後は自動的にコピーしてくれるし、終われば録画を終了してくれる。使わない手はない。
決断は早いほうである。早速使い始めた。Eric Claptonのコンサートのコピーが5枚まで進んで、不思議なことに気がついた。
DMR-BW800のハードディスクの残り容量が余り減らないのだ。
「おかしい。2時間の録画で、最高画質なら残り録画時間は2時間減るはずだ。でも、これ、20分ぐらいしか減ってないぞ。どうしてだ?」
唯一考え得るのは、ハイビジョン画質ではコピーされていないことである。この減り方はDVD画質の減り方である。
「ということか?」
コピーし終えたコンテンツを、試しにDVDに移してみた。なんと、入っちゃうではないか!
「あ、これ、DVD画質だ!」
あわてて取説を見た。確かに、ピッタシ録画では、4.7ギガのDVDにピッタリ収容できる画質に自動調整するとある。そんな。なんでハイビジョンをDVDにしちゃうわけ?
コピーが終わった5本のソフトを消去し、改めてハイビジョン画質で録画を始めた。それが今朝のことである。
しかし、だ。この操作では、コピー中は機器の前を離れられない。コピーするソフトが終了しても、レコーダーは相変わらず録画を続けるからである。放っておけば、延々と真っ黒な画面を録画し続ける。
「で困ってるんだけど、ハイビジョンでコピーするときに、事前に録画時間をセットする方法はないわけ?」
パナソニックの問い合わせ窓口に電話をかけた。
「はい、ありません」
すげなく告げられた。ああ、ないの。だとすると、寝しなにセットして、朝起きて編集するなんて離れ業は使えないよなあ。さて、どうしたものか。
「申し訳ありません。そのような仕様になっております」
ま、仕方ないか。あまり大声では言えない作業をしていることもあるし……。ふむ、時間で電源を落とすタイマーでも買ってくるか?
「捨ててこそ 空也」(梓澤要著、新潮社)
を読んだ。
文芸評論家の縄田一男氏が日本経済新聞夕刊で
「本年度のベスト作品の1つであることはほぼ間違いあるまい」
と高く評価しているのを読み、Amazonの中古で買った。
で、読み終えてどうか。
「縄田のオッサン、耄碌したんとちゃうか?!」
である。
空也さんは、醍醐天皇のお子さんである、との見方に小説は立つ。ウィキペディアで見るかぎり、定説とまではいえないらしいが、まあ、小説の設定は自由である。そこはよしとしよう。
小説中の空也さんは、正妻の子でないこともあって父である天皇には余り好まれず、まだ10歳を少し出たばかりのころから鬱屈した日々を送る。天皇の寵愛を失った母は、その恨み辛みも手伝って、五宮(いつのみや、と読む。日本語は難しい)を何とか次の天皇にしたいのだが、現天皇は鼻も引っかけない。
ま、この想定もよしとしよう。
で、いくつもの出来事にぶつかって、わずか10数歳にして乳母の娘と乳繰りあい、太陽が黄色く見える日々を過ごした後、五宮さんは人々のために生きようと決意する。何故かそれが仏の道で、
「あらゆるものごとに常なるものはないこと、苦しみの大半はそのことに気がつかぬがゆえに自分自身を傷つけているのだと、いまは少し分かります」
と五宮は語り、すべてに常はないこと、つまりすべては空であることを自分の基軸にするため、名を空也と改める。空なり、の空也である。
ま、良くできた物語なのだが、だが著者は、途中でとんでもない論理的迷宮に迷い込むのである。
すべては空、それに気がつかぬのが苦しみの元、と見抜いたはずの空也さん、何故か晩年になると、いたく執着されるのだ。
空也が一念発起してつくらせる十一面観音像は、なぜか黄金色である。金箔を貼ったのであろう。金はいまでも高価である。ほとんど世捨て人同様に生きたという空也は、何故、仏像に金箔を貼るのか? それって、空の精神と反しないか? まあ、金は最も化学反応を起こしにくい金属だから、常なるものを求めたのかも知れないが、だったら空って……。
そして大般若経600巻の書写にはさらにこだわる。紙は紺紙。紫紺で染めた紫紙と並ぶ最高級の紙なのだそうだ。そして、膠の液に金粉を混ぜた金泥で字を書く。これは、乾いた後で磨くと膠が落ち、金色の文字になるのだそうだ。これに必要な金は12キロ、紙は2万枚。
おいおい、何処まで金を使う気だ?
しかも、である。表紙は雲母刷紙、紙を巻き付ける軸木は紫檀。その軸先には水晶がはめ込まれる。しかも、この水晶、一点の曇りもない水晶でないと、空也さんは納得しない。
通常、このような志向を
贅を凝らす
という。すべてのものにとんでもない金をかける。その精神の何処が「空」なんだ?
捨ててこそ? あんた、ちっとも捨てずにかき集めてるじゃないか、人様以上に。
仏のため? お釈迦さんって、そんな低俗な人だったの?
それで「空也」だと? はっきり言って名前負け!
とは縄田氏は突っ込まなかったらしい。
それに、だ。登場人物にちっとも血が通っていない。右代表が、鬱屈した五宮に太陽が黄色く見えるまでやられまくる乳母の娘は一言も文句を言わず、出奔した五宮に知らせもせずに子供を生み、たちまち死ぬ。
普通だったっら、恨み言の一つもいって死ぬだろう。残された親は、五宮を殺したいと思うに違いない。
こんな都合のいい女が、その頃はいたのかね? 皇族だと、そんな女が後から後から群がってくるのかね? 親は、天皇家の権威にへいこらして文句の一つもいわないのかね?
どの登場人物も、
「ああ、そりゃあそうだよな」
と共感できるでもなく、
「いわれりゃそうだよな」
と納得できるでもなく、ただただ空也の周りにいてあれこれするだけなのだ。
そのくせ、著者は
人とは?
生きるとは?
仏の道とは?
を厳かに語る。
だけどねえ、読者がちっとも共感を覚えないところに、人も生きるも仏の道もないんじゃないかい?
と書いてしまう私は、やっぱり畜生道に落ちるしかない人間なのだろうか?
ま、落ちたっていいけどね。
背後のテレビからは、
Eric Clapton & Stevw Winwood Live at Madison Square Garden 2008
が流れている。あ、いまVooDoo Chileが始まった。本日の日誌はこのあたりで収束することにする。