2013
10.10

2013年10月10日 ノーベル文学賞

らかす日誌

我らが、っていっても、私は別にファンでも何でもなく、とりあえず同じ日本人だからそういうのだが、村上春樹さんが、今回もノーベル文学賞受賞を逃したらしい。

てなことは、本来どうでもいいことであるはずである。
まさか春樹さん、そんな賞が欲しくて小説を書いているわけでもあるまい。名誉が欲しくて小説を書いている輩を、我々は文学者とは認めない。いや、そんな俗物は世界中が認めない。
人に認められたいという欲求とも無縁のはずである。認められたいがために書く文章には、意識しようがしまいが、読者への媚びが忍び込む。私は、私の思いを書き綴る。それを認めるか認めないかは読者の自由である。その程度の矜持がなければ、文学など出来るはずがない。
それに、あれだけベストセラーを出し続けていれば、暮らしに困ることもなかろう。従って、賞金も不要のはずである。
つまり、村上春樹さんが文学者だとすれば、また受賞を逃したことは、蚊に刺された程度のことに過ぎないはずである。

しかし、世にはお節介な人々が沢山いる。ノーベル文学賞の発表を前にした今夜、東京のどこかの飲み屋に、自称春樹ストどもが集まったらしい。パソコンで、発表まであと○○分××秒を表示し、集まった全員でカウントダウンする。
そこに、世界中のメディアがテレビカメラを持ち込み、その一瞬を待ち受ける。我らのNHKもそのメディアの一つであった。午後7時のNHKニュースの一コマである。

村上さんの小説の何処がお好きですか?

アホ面をさらした春樹ストの1人が答えた。

「どれを読んでも、私のことが書いてあるんですよね」

いや、村上春樹はあんたのことなど知らんだろう。あんたをモデルにしなければならない事情もないはずだ。
それに、私は村上作品の熱心な読者ではないが、「ノルウェーの森」を読み、読んだという人に話を聞いた限り、村上作品の登場人物はどこか心を病んだ人々である。
「ノルウェーの森」を読んだ私は、

人間を描くのに、どうして精神を病んだ人が中心人物として登場せねばならないのか?
人は多かれ少なかれ、精神を病まねば生きてはいけないものだというメッセージなのか?
まあ、実社会にも、心を病んでいる人はいる。だけど、相手がどんな美女であれ、そんな相手からは、出来るだけ相手を刺激しないように離れていくのが生きる知恵ではないのか? 現に、私はそうしたし。まあ、相手がそれほどの美女ではなかったこともあるかも知れないが。
村上春樹氏の鋭い知性が現代の病理をえぐっている、という理解も不可能ではない。しかし、普通の人々には感じ取れない人間の心の病をかぎ取れるということは、かぎ取る本人の心も病んでいるからではないのか? という指摘は余り目にしない。

と困惑した記憶がある。以来、読んでもしょうがないな、と手を触れない。
そんな小説群に

「私のことが書いてある」

ってか?
あんたも精神を病んでるの?


明日の新聞でも、やっぱり

「村上氏、受賞逃す」

なんて見出しが躍るんだろうな。
でもさ、ノーベル文学賞を受賞した小説って、みんなどれだけ読んでるのかね? 私は余り読んだ記憶はない。日本人で受賞した川端康成、大江健三郎という大家の作品には多少目を通した記憶があるが、面白いと思ったこともないし、魂を揺すぶられたこともないし、読み返したいという作品もない。
夏目漱石の方が遥かに私に食い込んできたし、野坂昭如の「火垂るの墓」の方が遥かに涙腺を緩ませてくれた。芥川龍之介の知性の鋭さは、他に類例を見ない。塩野七生は歴史を現代に甦らせてくれるし、佐藤賢一の中世史だって興味をそそって止まない。
そんな作家たちは、ノーベル賞とは無縁である。
私の感性、読解力が劣っているのか?

今年はカナダの女性作家が受賞したそうだ。彼女の著作、読んだことがない。そもそも、日本語に翻訳されているのか?
まあ、ノーベル文学賞なんてその程度のもの、と思っておけば間違いないのではないか。


明日、瑛汰と璃子が両親に連れられて来る。到着は夜遅くらしい。夏休みに来なかったから、その埋め合わせだろう。
昨夕、電話をした。

「瑛汰、来たら何したい?」

「うん、ブルーレイを見まくって……」

「おい、そんなもの、ボスのうちに来なくても出来るだろう」

「あ、そうか。だったら、どっか行こ!」


「璃子、ボスのところに来て何か欲しいものあるか?」

「あのねえ、璃子たんねえ、4歳の誕生日に欲しいものがあるの」

璃子の誕生日は6月。そう、終わったばかりである。なにの、もう来年の誕生日プレゼントを思い描く女って……。

「で、璃子は何を食べたい?」

「璃子たんねえ、肉!」

璃子は肉食系女子である。

まずは、伊勢崎の華蔵寺公園に連れて行く予定である。