2014
01.15

2014年1月15日 警告

らかす日誌

私は本が大好きである。身のまわりには、これから読む本が、いつも40~50冊ある。これをなめるように読み続け、でも本屋に行くとまた欲しくなる本が出て来る。新聞の書評欄を見ると、

「これは読まなきゃ」

という本が現れる。だから、読んでも読んでも、いつも私のそばには40~50冊の、

「これから読む本」

がある。

そして私は、ケチ、である。
せっかく買った本なのだ。最初のページから最後のページまで、読み通さずにはおくものか、と思いながら本を読む。読んだあと、それが記憶に止まるかどうかは別問題である。

そこをいくと、我が妻女殿は実に贅沢である。
まあ、余り本はお読みにならないが、映画なら沢山ご覧になる。それはいいのだが、

「見る映画がなくなっちゃった」

と、私の顔を見るとおっしゃる。
見る映画がなくなった? だって我が家には、4000本を超そうという映画のストックがあるのだぞ。それなのに、見る映画がない?

「だって、つまらない映画が多くて。つまらない映画は、最初の10分見せられただけで見たくなくなるのよね」

あのね、映画、映画とおっしゃるが、それをハイビジョンで保存するには、1本あたり80円~100円のコストがかかっているのであるぞ!
加えていえば、映画を1本撮るには、数千万円から数億、時には数十億、数百億円の金がかかっているのだぞ。それを、最初の10分だけで、

「これ、つまんない!」

って放り出す。それって、もったいなくないか?

我が妻女殿は、世に「もったいない」という美しい言葉が存在するのをご存じない。

そこに行くと、もったいないの権化である私は、本は必ず最後まで読み通すが如く、見始めた映画は必ず最後まで見る。つまらないなと思う映画も、

「いやいや、もう少し先に行けば、きっと素晴らしい展開を見せるはずだ」

と信じて見通す。
裏切られることも多いのだが。


本にも、映画にも、私は「もったいない」精神の権化として立ち向かう。

なのに、この本だけは、とうとう途中で放り出した。

ブリティッシュ・ロック 思想・魂・哲学」(林浩平著、講談社選書メチエ)

この本、つまらないを通り越して、愚人の戯言(ざれごと)としか思えない。

ま、タイトルは魅力的だ。音楽が、ロックが好きで、しかも

「俺は知識人でなければならない」

と思い込んでいる私のような人間は、ついつい書店の棚から取り出して支払いカウンターに運んでしまう。現に、運んでしまったから我が蔵書となったものである。

この本を、昨日から読み始めた。
冒頭の文章に、思わず笑ってしまった。

ロックは、ジャズとかフォークとかヒップホップといった、単なるポピュラー音楽のなかのジャンルの呼び名に留まらない、比類もなく大きな力を持つものである。それは、たとえばマルクス主義思想が大勢の革命児を生み、彼らの人生を決定的に方向付けた、ということと同じ意味で、ロックの力はひとつの「思想」、ひとつの「イデオロギー」に匹敵するとも言える。いわば「ロック的な生きかた」というものがあるのだ。

おお、どうですか、この力こぶの入れよう。
こんなこといっちゃったら、ジャズに人生をかけた人、フォークソングで人生が変わっちゃった人、ヒップホップで踊り狂っている人たちに怒られちゃうよな、と私なんぞは心配するのだが、著者はためらわない。
マルクス主義思想と並べてみたって、今のところマルクス主義で幸せになったのは、毛沢東と金日成、それにスターリン程度しかいないのではないかと心配してしまうが、一度振り上げた拳はおろせないものらしい。
ま、それほどロックがお好きなら、それはそれでいい、とはいえる。

だが、己が振り上げた拳について、何故振り上げたかの説明が著者は極めて不得手である。

だから、ここでやめておけば良かったのだ、と今は思う。
第二章には

「ロックという哲学思想」

のタイトルがつく。そして、多分、己の仮説を証明しようと試みているのだろう。最初に、ニーチェが登場する。その「悲劇の誕生」から一文を引用したあと、著者は述べる。

こうした表現で述べられたディオニソス的陶酔とはどのようなものか、よく吟味しよう。ニーチェの時代、最先端の音楽とはワーグナーであったのは間違いない。しかし、現代において、最も端的に右に述べられたようなディオニソス的陶酔をもたらすものは何か。それは、ロックの経験に他なるまい。

いや、あんたがロックに心酔しているのは理解できる。しかし、そもそもニーチェのいうディオニソス的陶酔とは何か、の分析もなく、当時の最先端音楽がワーグナーであったことの証明もなく、唐突に、現代におけるディオニソス的陶酔がロック経験だと断定される。

これ、並の頭でついて行ける推論ですか?
私なんぞ、目を白黒させてしまったのですが。

だが、このあたりはまだかわゆい、ということを、読み進んで知った。

読み進むと、まあ、出て来る、出て来る、哲学者が。
ショーペンハウアーは言うに及ばず、ロラン・バルト、メルロ=ポンティ、ジュリア・クリステヴァ、ハイデッガー、ジョルジョ・アガンベン……。私が知る、知らないにお構いなしに、次々に、(多分)高名な哲学者の一節が引かれる。

ま、それもよい。

困るのは、それぞれの引用が自説を支える材料らしく引用されるのだが、著者にその確信がなさそうなことなのだ。自信がないと、文章の末尾で逃げを打つことになる。

例えば、ニーチェの文章に続くところで

ひとつの芸術的衝動としての「意思」、それこそが「物それ自体」として現前する、それがロックなのではないだろうか

他にもある。

そう考えるなら、「ロックを経験する」とは、まさしくハイデッガーの唱える「開かれ」、つまり自己開示性そのものを生きることではないだろうか

ここは、2重に逃げている。

そう考えるならば、内なる言葉を用いて語ること、すなわち詩作という行為と、ロックを受容する経験とが重なる、とも言えるかも知れない

逃げが3重になる。そして、まだまだある。

90ページには

それも納得がいくのではないだろうか。

吉本隆明の「言語にとって美とは何か」を引いたあとの91ページには

ロックを語ることは、語るものにとってまさに一種の「自己表出」なのかもしれない。

このあたりまで読んで、ほとほとイヤになった。
この著者、考えに考え抜いたことを文章にしているのではない。ロック好きそれはいい。だが、己の知性、いや知識を誇りたいがために、その気分を学術的に表現しようと挑んではみた。ところが、自力ではその論理を構築できない。となれば、学者のお手の物とも言える、権威ある様々な哲学者の言葉の影に隠れ、己の気分があたかも哲学的であるかの如く飾り立てる。でも、突き詰めると、引いてきた文章が、さて己の気分を証明するものなのかどうか確信が持てなくなり、文章で逃げをうつ。

読む必要のない本

私はそのように断罪して、100ページで読むのをやめた。こんな本、時間の無駄である。

私がよく読むスパイもの、法廷ミステリー、刑事物、いずれも見方によっては時間の無駄であろう。しかし、それらの著者は、読者の視線を惹きつけ続けることに頭を絞っている。良質なエンターテインメントを提供しようと努力している。
あやふやな己を、数ある哲学者の文章で飾り立てようなどとは毛頭思っていない。その程度の矜持と、読者に向けた思いは、ものを書く以上持って欲しいと思う。

皆様、この本を書店で見かけても、決して手にとってはなりません。
本日の、私からの警告であります。