2014
06.03

2014年6月3日 反省

らかす日誌

最近、私の実生活をそのまま映して、ネットワークオーディのの話が多かった。私の関心が専らそちらに向かい、仕事を含めて他のことはどうでもよくなっていた時期なのでやむを得ざることである。
ではあるものの、読者の中には、音楽にも、オーディオにも、ましてやネットワークにもほとんど関心がないと自覚される読者の方もいらっしゃるはずだ。その方々には、ひょっとしたら退屈な日誌が続いたかも知れぬ。
その方々には、この場を借りて謝罪する。

ごめん。

で、我が家のオーディオ環境はグッと改善し、今のところ、ほぼ満足する音質で音楽を楽しんでおる。
残る課題は3つ。

1)階層が深くなり、狙いのアルバムに行き着くまでに大変時間がかかる
2)反応が遅い=iPadを操作して実際に音楽演奏が始まるまでの時間が長い
3)どうしたわけか、NASが2つ見える

である。
幸いなことに、14日土曜日、かつて存在したデジタル・キャスト・インターナショナルというBSデジタル放送を利用したデータ放送局(痕跡は、NHKのデータ放送による天気予報やニュース配信ぐらいしか、実質的には残っておりませんが……)で一緒に仕事した仲間が遊びに来てくれる。当然、デジタルやネットワークに、

「こいつら、俺と同じ人間か!」

と思えるほどの知識を持つヤツもいる。彼に委ねて、問題を解決してもらうことにして、さて、本日は私の暮らしを外れたいと思う。


いつものように朝飯を食べながら日本白痴化協会(NIHON HAKUTCHIKA KYOHKAI)の朝のニュースを見ていたら、日野市の教員採用の話が報道された。何事ならんとテレビに目と耳を向けると(そうでないときは、飯を食いながら新聞を読み、テレビには耳だけを向けている)、摩訶不思議なことをいっていた。

これまでの採用試験の点数重視から、人物重視に切り替える

とのことである。
なるほど、世には成績はよろしいが、人間としてはくずという輩が沢山いる。成績も悪く、人間としてもくずという連中に比べれば、成績がいいだけでもましではないか、という見方もあろう。だが、実際に社会生活をしていると、実際に困るのは頭が悪い奴ではなく、人間としてくずなヤツである。頭が悪いだけなら、まあ、役にも立たないが害もない。が、人間としてのくずは、頭が良ければ良いほど害が大きくなる。困りものである。

だから、そんな輩を教壇に立たせてはいけない、というのは賛同を得やすい理屈である。かの日本白痴化協会の報道も、この改革を持ち上げるものであった。

困ったものである。日本白痴化協会は、日本国民を白痴化する前に、自分たちが白痴になってしまったのか?

さて、人物本位のセレクションとは、いかなるものか。
人物というのは実に困った存在で、数値化することができない。容貌一つとったって、私が10点満点をあげたくなる、震いつきたくなるほどのいい女に、隣の採点官は

「下品である」

と3点しかくれないかも知れない。では、10点を与えた私が間違っているのか? それとも3点にしか評価しない隣の男のが曇っているのか?
この論争には決着をつける術がない。容貌の採点基準など、世には存在しないからである。だから、1人の女性を見て、

「いい女だ」

と鼻の舌を伸ばすか、

「みそ汁で顔を洗って出直せ」

と切って捨てるかは、すべて採点官の主観に委ねるしかないのである。

人は見た目が9割、というが、容貌でもそのようなものだ。ましてや、人間性についての採点基準なんてあるはずがない。

真面目な青年だ —— くそまじめで面白くもないヤツだ

やさしさが溢れる青年である —— 優柔不断でどうしようもない

気配りがきちんとできる —— どうして人の顔色ばかり見るんだ?

実に教養豊かである —— 何で少しばかりの知識をひけらかすの!

人間性を判断するポイントは、もっともっとある。だが、そのポイントをすべて並べ立てたところで、いずれも採点官の主観に採点が委ねられてしまう。
主観で判断する以上、黒い烏を白と言いくるめることだってできる。つまり、採点官の主観に採否を任せてしまえば、どうしたって情実採用が横行してしまいかねない。
市長に、教育長に、あるいは市や教育委員会の幹部にお中元お歳暮を欠かさない卑劣漢が雁首を揃えて教壇に立つことになる恐れが十分にある。

大学入試も、教員採用も、ペーパーテストの点数を基準にするのは、そのような弊害を避ける知恵なのである。情実を避けようとすれば、ペーパーテストの点数ぐらいしか、客観的な判断基準がないのである。

大丈夫か、日野市?
大丈夫か、それを快挙だと報道する日本白痴化協会?

「それはおかしい。米国の大学は、一定以上の成績を残した学生から、あとは面接で入学者を選んでいるではないか。米国にできて、何故日本でできないはずはなかろう」

私は米国の大学事情に詳しくはないが、確かに入学者はそのように選抜されていると聞く。

では、日本との違いは何か?
入学者の選抜を任せられた先生方は、選んだ結果にも責任を持たされる、ということである。
例えば、私が今年の選抜官になったとしよう。私が選んで入学させた学生のその後の成長は、私の責任とされる。つまり、その学生が、期待通り成長すればいいが、そうでなかった場合、

「大道には人を見る目がない」

という評価が私につきまとうことになる。つまり、信用を失い、昇進の機会を失うということだ。
10人選んで、うち1人や2人がそうであっても、責任までは問われまい。しかし、10人中5人だったらどうか。あるいは、1人だけであっても、それがどうしようもない劣等生だったらどうなるか。

システムというのは、その一部分だけを真似ても絶対にうまくは動かない。システムを真似るのなら100%真似なければだめである。
加えていえば、100%、そっくりそのまま導入しても、国情を含めたバックグラウンドの違いがある。米国のシステムが日本で役に立つかどうかは、やってみなければ分からない。

つまり、自分たちのシステムは、自分たちで試行錯誤しながら作り上げるしかないというのが、世の真実なのだ。

大丈夫か、日野市?
大丈夫か、それを快挙だと報道する日本白痴化協会?


AKBが活動を再開したそうだ。
テレビのニュースで見ると、警備を強化してのコンサートとあり、会場には警察官まで動員されていた。不思議な気がした。

おいおい、そんなもの、税金を使ってまでやらなきゃいけないものか?

私が考えるに、今回の事件は起きるべくして起きた。

だって、AKBって、会って触れるアイドル、が売りなんでしょ(少し違うか?)? CDを沢山買ってポイントをためると、握手会に出る権利ができて、憧れのアイドルに握手してもらえる。会って、握手したくて、同じCDを30枚、50枚と買う馬鹿がいるとの報道もあった。恐らく、ポイントだけ抜き取られたCDはブックオフに売り払われたのだろう。

つまり、男のスケベ心、セックス本能にもつながる接触欲を刺激して、本来なら必要がないCDまで買わせてしまって儲けようというのが、AKB商法である。
こんな見え透いた商法に、まともなヤツが乗ると思うか?

日常生活では女の子に振り向いてももらえない連中が、もてあますモヤモヤに駆られてセッセセッセとどうでもいいCDを買い集め、ポイントが貯まると

「○○ちゃんと会える、握手できる」

と妄想を膨らませて会場に駆けつける。汗ばむ掌をズボンにこすりつけながら、自分の順番をひたすら待つ。

そりゃあ、大多数は犯罪者になるのが怖くて、内から沸き上がる妄想を押し殺すだろう。だが、中には我慢できなくなるヤツがいても、不思議ではない。
こうして、事件は起きた。

リスクを冒しても金を儲けるのがビジネスである、という一面はもちろんある。だが、そこでリスクの前面に立つのは、それで儲けるヤツではない。儲けの道具として使われ、踊って歌う女の子たちである。
これって、フェアか?

しかも、だ。
事件が起きたら、警察官まで動かして、自分たちのビジネスモデルを守ろうとしている。
ヤツらが利益を上げるために、どうして私が治めた税金が使われなくちゃいけないのだ?!

年端もいかぬ女の子たちを儲けの道具として使う大人たち。それを理解してかせずしてか、アイドルになりたいという闇雲な熱に浮かされて歌って踊る女の子たち。まあ、そこには暗黙の合意があると認めても良い。
だが、それならば、そのビジネスモデルは、自分たちの手で守るべきである。警察官に守られてはいけない。警察官なしではできないのなら、即刻やめるべきビジネスモデルである。

なんか、ずるがしこい大人の顔ばかり目について、後味の悪い事件であった。
ん、確かに、後味のいい事件、というのはないかもしれないが。

本日は、久しぶりの「社会派」であった。
では、また。