2014
07.02

2014年7月2日 音源拡充

らかす日誌

「音楽を楽しみたいんやったら、わけのわからんアンプやスピーカーに金をつぎ込んだらあきまへん。そんな金あったら、レコード、CDをどんどん買いなはれ」

とは、故桝谷さんの教えであった。
もちろん、その前提として、クリスキットでオーディオシステムを組むことがあった。
クリスキットなら、マルチアンプシステムに仕上げても、せいぜい60万円も用意すれば出来上がる。そして、これ以上の再生音を出せるシステムは存在しない。

「だから、1台200万円もするアンプを眺めて、『これで再生したら天上の音が聞こえてくるのではないか』てな妄想を膨らませるんやのうて、差額の140万円をレコード、CDにつぎ込みなはれ。そっちゃの方が、遥かに音楽と仲良くなれまっせ」

だが、差額140万円は貯蓄に回してもいい時代が来るとは、さすがの故桝谷さんも見通せなかった。
そうなのである。CDよりさらにいい音が聞けるネットワークオーディオの時代。それは、いい音が聞けるというだけでなく、もうひとつの福音をもたらした。

CDなど買わなくていい。借りればいい。

ということに気がつき、TSUTAYAと契約したことはすでにお知らせした。そしていま、順調にCDが送り届けられている。
すでにリッピングを終えてflacファイルとして蓄積されたのは

Bruce Springsteenの「HUMAN TOUCH」「Born to Run 30th Anniversary Edition」

John Mayerの「Continuum」

Pink Floydの「ATOMIC HEART MOTHER」

頭脳警察の「無冠の帝王-結成40周年記念BOX」

次は何が届くか。

なにしろ、いまは無料お試し期間中。1ヶ月たてば毎月2000円弱を支払うことになるが、それでも毎月20枚から30枚は音源が増える。財布の中身を心配して

「これ、聴いてみたいけど、どうしようかなあ……」

と迷っていたCDも、もう迷わず

「借りちゃえ!」

我がオーディオライフは充実の一途である。

しかも、やることといえば、届いたら直ちにリッピングしし、送り返すだけ。リッピングなど10分もあればできちゃうから、楽なこと、この上ない。

まだCDで音楽を楽しんでいらっしゃる方々、この際、1日も早くネットワークオーディオに移行されることをお薦めする。少額の投資で音が遥かによくなり、その後の音源の拡充がゼロに近い負担感でできるのだから、躊躇する理由は皆無である、と私は思う。


TSUTAYAの困ったところは、送ってくるCDが1回に2枚という制限があることだ。

Slow and steady wins the game.(急がば回れ)

という。まあ、確かに、いつかは、手元に置きたい音源はすべてわが家のNASに蓄積されるのだろう。だが、どうせ貯まるのなら、1日でも速い方がいい、と急ぐのも人情である。

というわけで本日、桐生市の中央図書館に行ってきた。図書館はいまや本だけではなく、映像や音源も保管し、貸し出す。であれば、CDを借りられるだけ図書館から借りだしてリッピングし、図書館になかったものをTSUTAYAから借りればよろしい。その方が、遥かに手っ取り早く音源の拡充ができるはずである。

無残な結果に終わった。1枚も借りてこなかった。
まあ、公の図書館である。財政難にある桐生市の図書館に、CDのラインナップが充実しているはずはない。それは覚悟の上の図書館行きであった。
それでも、Billy Joelなど何枚かは、

「借りよう」

と思った。
ところが、である。現物を見てギョッとした。

傷だらけ

なのだ。
その傷も、半端ではない。縦に横に斜めに、そしてグニョグニョに、蜘蛛の巣のように傷が入っている。

「済みません。時々、再生できない部分もあるようで」

女性の係員が申し訳なさそうに言った。

ということは、このBilly Joelだけではないのか、傷は。
Dylan、Stones、何枚か引き出して見た。何枚見ても、Billy Joelに勝とも劣らぬ傷だらけの人生である。

「これ、つい落っことしてしまって、なんていう傷じゃないね。あえて傷をつけようと意図してこすったというか……。どうせ自分のものじゃないんだし、という気持ちがありありと見える」

係員にそういいながら、試みに、演歌のCDも引っ張り出してみた。こちらの方が傷は遥かに少ない。

「ということは、あれか。演歌の好きなお年寄りは割と丁寧に扱うのだが、ロックを聴く若い連中は聴き終えると放り投げたりするんだ」

できることなら、世の中には悪い人はいないと思いたい。図書館の蔵書や蔵CDはみんなの物だからと、自分のもの以上に丁寧に、慎重に取り扱う人で世の中はなり立っていると思いたい。そう思えた方が、世の中はずっと美しい。

が、この傷だらけのCDを見た以上、もう、そうは思えない。世の中とは、クズが集まったゴミためである、を基本としなければ、見間違ってしまう。

頭のおかしな人がアンネ・フランク関連の本をあちこちで破っちゃったのは、一過性の問題である。だが、頭がおかしいとは認定されていないクズどもが、市民みんなの物であるはずのCDを傷だらけにする。

公共図書館がCDやDVDを置かなくなる、置けなくなる日も近いのだろう。


ところで、集団的自衛権の問題。これ、どう考えたら良かろう?

無論、私だって戦争は嫌いだし、日本が戦争をしてはいけないと思う。日本は非戦の国でありたいと強く願うことにかけては人後に落ちないつもりである。
なのに、憲法解釈の変更で集団的自衛権を行使できるようにした安倍内閣に対するメディア、有識者と呼ばれる人々の 批判が、どうもストンと胸に落ちないのだ。

憲法9条は、

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

と定めている。
様々な解釈はあるが、まあ、スッと呼んで、日本は一切の戦争を放棄している、と読むのが素直である。

それはいいのだが、私がひっかかるのは、この条項を楯にしての安倍内閣批判である。憲法に書いてあることを金科玉条としていいのか。

いま、集団的自衛権が議論されるのにはいくつかの背景がある。

1つは北朝鮮、中国の脅威である。アジアのならず者国家であるこの2つの国が、日本に対して武力を行使することはないのかどうか。北朝鮮は、やって来たところでたいしたことはないと思うが、中国は広い。大きい。多い。それに、最近金持ちになった。だから強い。我々が図らずも持ってしまったドジョウ首相の失政で、中国は日本に対して拳を振り上げざるを得なくなった。その拳が振り下ろされることはないと言い切れるか。

ここからは「もし」という前提をつける。もし、中国が日本に対して戦闘行為を開始したら、日本はどうするのか?

もうひとつは、米国の衰えである。
第2次世界大戦終了後、米国は世界をソ連との間で2分してきた。ここではイデオロギーや政治信条は抜きで、単なる力のバランスとして書く。
そして先にソ連が崩壊し、米国は世界のスーパーパワーとなった。そのままだったら、いまのような問題は起こるまい。スーパーパワーの地位に就いた米国は、だが同時に、スーパーパワーを維持する力を失いつつあった。かつては、自分の力だけで世界を動かし、国際警察官の役割を果たしてきたのに、まず、金がなくなった。軍事行動を起こすににも、日本などからの資金援助を頼りにするようになった。次に、マンパワーにも不足し始めた。米国にも、

「うちの息子が、なんで他国のために戦場で死ななきゃならないのよ」

という声が増えた。
米国は、米国だけでスーパーパワーの地位を保つ力がなくなった。だから、

「国際秩序を保つため、応分の負担をせよ」

と他国に求め始めた。
かつては、日本からは牙の最後の1本まで抜いておかないと安心できない、と考えた米国だが、いまは、何で米国が一方的に日本の軍事力の肩代わりをしなければならないのか、と考える。俺たちは日本の傭兵か?
だから、まだ同等の負担をせよとはいわない。だが、

「応分の負担はしてもらわないと」

と日本に迫る。
自分の国を自力で守ろうとしない国を、どうして力が衰えてきた米国が守らねばならないのか、と。

この2つが背景である。

こうした背景の元で、憲法9条を振りかざして安倍内閣批判をする人々は、さて、「もし」中国が日本に対して軍事力を使い始めたら、日本はどうしたらいいと考えていらっしゃるのだろう?

やっぱり、米軍に対処してもらおうというのか。

「冗談じゃない」

と米国が拒否したら、日米安保条約違反だ、とまたしてもペンの力で批判するのか。ペンは、本当に剣より強いのか? 批判しても、日本が攻められている状態に変わりはない。

それとも、ガンディと同じく、非暴力、不服従主義を貫くのか? 攻め込まれれば、必ず強者に尻尾を振る卑しい連中が日本の中から出て来る。そいつらをどうするのか? そもそも、攻め込んだ国を、どうやって追い払うつもりか。国際世論が頼りになると信じているのか?

あるいは、ゲリラ戦を展開するか。
が、日本人は基本的に銃器を取り扱ったことがない。つまり、武器を手にしてゲリラになり得るのは、自衛隊員と警察官、それにヤクザ程度なのである。我々、普通の生活者は、ゲリラになろうと思ってもそのノウハウがない。

で、どうする?

戦争が嫌いな私は、安倍内閣を批判される方々にお願いしたい。
日本が軍事的に応分の負担をしなくても、日本の国土が戦場になることはない、ということを、私が納得できるようにご説明いただきたい。あなた方にその能力があれば、ではあるが。

平和は大事である。何としても戦争は避けねばならない。
だが、平和を守るのは、平和主義という理念ではない。偉そうなしかめ面をしてご託を並べる暇があったら、徹底的にリアリズムに徹せねばならぬ。

・米国の軍事力は。
・米国の世界戦略は。
・その中で、米国のアジア戦略は。
・中国の現状は。
・何故に中国は好戦的姿勢を取るのか、取らざるを得ないのか。
・中国の裸の力量は。
・ロシアの動きは。

もっともっとあるだろう。すべての要素をリアルに分析して、その中から日本が平和を守り続けることができる方策を探る。それが専門家の果たすべき責任である。

日本は戦後、運良く平和の中で生きてきた。だが、国際情勢がきな臭さを増すいま、平和は骨の髄に達するリアリズムなくしては守れない、と私は思う。

安倍内閣にそのリアリズムはあるか?
私は不安である。
だが、より多くの不安を、安倍内閣を批判する陣営に感じてしまう。私だけなのだろうか?

私は変か?