2015
03.13

2015年3月13日 尿意

らかす日誌

いやあ、前回もタイトルをつけ忘れていたのですなあ。今日の日誌を書こうとして気がついた。
何しろ、日誌を更新するには、

1)まず前回の分を収容するページを立ち上げ、このフロントページのタイトル、原稿をカットしてそのページにペーストする。
2)リンクを張り直す(「前の日誌を読む」など)
3)日誌一覧に前回のページを登録する。リンクを張り直すのはいうまでもない。
4)前々回の日誌のリンクを張り直す(「次の日誌を読む」は、そのままだとフロントページにリンクがつながっている。これを前回のものに張り直す)。
5)このページの「最近のバックナンバー」の一番古いものを消し、前回の日誌を加える。リンクを張り直すのはもちろん。

とこれだけの作業を終えて、新しく本日の日誌を書き始めるのである。
まあ、このうちのどれかを忘れても仕方ないであろう、というのは弁解だとわきまえつつ、ここに書き記す。


今日は28日に1回の前橋日赤行きの日であった。自宅を出たのは午前8時半前。いつものように国道50号線を快走し、9時20分頃に前橋日赤で妻殿を降ろした。
降ろせば、収容するまで私は暇である。いつものようにけやきウォークを目指した。

異変を感じ始めたのはこの頃である。なんだか下っ腹が水っぽい。あからさまにいえば尿意を感じ始めた。

「まだたいしたことはないな。ふむ、だけど、けやきウォークが開くのは10時だったっけ?」

何事もなければ車を駐車場に入れ、その時間まで読書をする。今日もそのつもりであったのだが、駐車場でエンジンを止め、さて読書、と背もたれを倒して本を取り出すと……。
いかん、尿意が強くなってきた!

時計をみる。9時35分。あと25分である。

「それくらいの時間なら」

とページを繰って1、2行読み始めると

「いかんわ、これ。読書に集中できない!」

できなければどうするか。うん、場所を探すしかない。心安らかに読書できるようになるため、下っ腹にたまった水気を抜く場所を見つけるしかない。

「これだけ広い駐車場だ。どこかに屋外トイレはないか?」

車を降りて周りを見渡した。ない。

「ひょっとしたら、建物の向こう側の駐車場にはあるのでは?」

車に戻って移動した。反阿智側の駐車場で止める。降りて見回す。ない。

ああ、よかった。あの女の子は中で働く従業員だろう。いま通勤の途中だな。

「申し訳ありません。その、トイレを探しているんですけど、屋内にしかないですかねえ?」

「あ、はあ。そうですね。屋外にはなかったような気がします」

「そうですか。でも、まだ時間じゃないんで、中に入れてもらえないですよね」

「ええ、お客様は……。あ、そうだ。映画館の入り口になっているところはあいていると思いますよ。早くからやってる映画もあるはずだし」

「えっ、助かるなあ。それ、何処の入り口ですか?」

「はい、あちらの」

「ありがとう。おかげさまで助かりました」

また車を動かした。
おお、この入り口か。よし。なるほど、入れるわ。で、あれーっ、内側のドアが開かないじゃないの。これも、ない、かよ。トイレはこの内側にしかないんだよ。平日だから早朝から映画はやってないのか?

今日は久々の厄日なのかも知れない。一度は救われたと感謝したが、あと30歩ほどのところでガラスのドアに希望を閉ざされた。ではどうする?
尿意は強まるばかりである。かといって、この年齢になってショッピングモールの屋外駐車場で立ち小便をするわけにも行かぬ。

とりあえず、車に戻った。

「えーっと、確か便意を押さえるには肛門を閉めるんだったな。でも、尿意を押さえる方法ってあったかなあ?」

こうなると、人間のつまらなさを思い知らされる。あれだけ仕事をし、あんなに沢山の人に会い、夜を日に次いで読書をし、空き時間には数学に挑み、それだけでなく、オーディオにもギターにも並ならぬ熱意を注ぎ、毎日500人前後の方々に拙文を楽しんでいただきながら、でも、こうなると頭の中にはひとつしか思い浮かばないのである。

「トイレ、トイレ……」

時計をみる。あと17分。持つか? 持たなかったらどうする?

その時、ふと駐車場の外、道路の向こうに信用金庫の店舗が見えた。

「あそこならあるよなあ、トイレ。でも、金を借りたことも預けたこともない信金だ。突然行って、『トイレを貸して』って、何だか気が引けるなあ。そもそも、客用のトイレって、金融機関にはあったっけ? いや、客用のトイレはなくとも、従業員用のトイレはあるはずだ、うーん」

などと考える余裕がまだあったのは、そう、12、3秒だったか。私は車を飛び出した。

「御免なさい。突然で申し訳ないけど、トイレを貸していただけると助かるんですが……」

相手が女子従業員だったのに、赤面もせず、格好悪いと怖じ気づくこともなく、はきはきと己の欲求を伝えた私であった。

その3分後、車中で読書に勤しむ私の脳裏からは、ト・イ・レの3文字が綺麗さっぱり消え去っていたのはいうまでもない。


にしても、である。
同性愛者が結婚してどうするというのか?

結婚とは愛の証ではない。制度である。そして制度としての結婚の目的は1つしかない。生まれてくるはずの子の属性をはっきりさせることである。
間違いなくこの夫婦の子どももであることを前提に、両親は扶養義務を負う。親が亡くなった場合の相続も、親子関係があることを前提とする。
つまり、結婚という制度は愛し合う2人のためにあるのではなく、結婚から生じる様々なものごとの扱い方を簡単にして社会的混乱をなくすためにある。

絶対に子どもができるはずのない2人であれば、そのような枠に入る必要は毛頭ない。結婚などという、人を縛る制度が生まれる前の時代のように、自由に愛し、自由に別れればよろしい。

2人をつなぎ止めるのは社会的制度ではない。2人の愛だけ。
結婚などというルールで自分たちを縛るより、遥かに純粋な愛の形である。だって、愛といい、恋といい、これほど個人的なものはない。であれば、個人の思いだけに縋るしかない。誰が決めたか分からぬ世の中のルールなどという無粋なものにまみれ始めると、純粋さは急速に色あせていく。
と思うが、同性愛の方々はそうはお考えにならないのか?

同性婚条例を議会に提出した渋谷区の方々も、私のようにはお考えにならないらしい。
極めて不思議である。