2015
04.07

2015年4月7日 読書

らかす日誌

現代中国の父 鄧小平」(エズラ・ヴォーゲル著、日本経済新聞出版社)

をほぼ読み終えた。なかなか読み応えのある本である。

文化大革命で一時は失脚しながら、復権すると一途に中国の改革開放を推し進め、世界第2位の経済大国になる礎を築いた政治家の生き様は、凄まじいの一言だ。
自らの地位の安定を模索して右往左往する中国共産党幹部連のなかで、鄧小平は揺るがない。権力闘争を繰り返しながら、ある時は一歩一歩、機を見れば脱兎のごとく走って築き上げた政治家としての実績は圧倒的だ。なるほど、国を作るとはこのようなことか、と思い知る。

中国革命の英雄、毛沢東に評価されながら、ある時は切り捨てられ、それでも這い上がる。何だか、織田信長に表面上はヘイコラしながら、ついには天下を取る徳川家康に似ていないこともない。
ま、だけど家康が天下を取ったのは、人口がせいぜい3000万人の国。鄧小平は10億人の人口を率いた。しかも、遥かに先に進んでしまった西側先進国のただなかに誕生した共産国家を率いたのである。並大抵の政治家ではない。

著者は、その鄧小平にピッタリと寄り添う。
1989年、数十万の学生、市民が天安門広場を埋め尽くした。当時、中国の学生は大きな不満を抱えていた。刻苦勉励、苦しい勉強を積み重ねて難しい大学に入ったのに、自由に仕事を選ぶことはできず、卒業後の仕事は共産党の担当官に割り振られていた。

「学歴もない無教養な小役人に、どうして俺の一生が決められなければならない?」

中には、その小役人にごまをすっていい就職口を得ようとした学生もいたというが、多くの学生が不満を持つのは当たり前である。
加えて、高級幹部の子弟は、コネでいい仕事につき、贅沢な暮らしをしていた。
その学生たちを庇護してきた胡耀邦を鄧小平は切り捨てた。学生の動きを押さえ込めなかったという理由である。胡耀邦は失意の中、間もなく死ぬ。その死を悼むため、全国から学生が北京に集まった。その数数十万人に登った。
天安門事件はこうして始まった。

共産党の支配に楯突くことは許さない。鄧小平とはそのような指導者であった。当初、武装を解いた軍隊で学生たちを排除しようとしたが、学生に加え、折からの超インフレに生活を脅かされていた市民も加わった抵抗が、軍隊を排除してしまう。
これに危機を感じた鄧小平が、武装した軍隊を天安門広場に投入して鎮圧を図ったのが、天安門事件である。

これを、著者はこう書く。

「デモ参加者たちは、鄧の下で推進されてきた改革開放と、そうした経済発展を下支えしてきた政治的安定の恩恵を受けながら、今まさにその政治的安定をぶち壊そうとそていたのである」

そうか? と私は思う。鄧小平は自らが支配する体制を守りたかっただけなのではないか?

ま、その評価は色々あろう。
ギョッとしたのは、天安門事件が鎮圧された後の話だ。
事件を通じて、鄧小平を含めた中国の指導者たちは、学生、インテリに加え、市民たちの共産党一党独裁体制に対する不満が、ひょっとしたら抑えきれなくなるほど膨らんでいることを知った。一時は軍事力で押さえ込めるかも知れない。しかし、そんなことを続けていたら、国づくりなどできない。

そこで登場したのが、ナショナリズムの喚起だったという。中でも、反日宣伝工作が最も効果的だった。1991年11月、宣伝部は「文化遺産を十分に活用して愛国主義と革命的伝統についての教育を実施すること」という文書を発行。続いて「全国の初等・中等学校における愛国主義教育の実施に関する通知」を出した。

やっぱり、なのだ。中国の反日思想は、中国共産党が共産党の国家を維持するために作り出したものなのだ。
無論、当時はソ連を始め、東欧諸国が雪崩を打って崩壊した時期だ。中国共産党が尋常ならぬ危機感を抱くのも理解できる。だが、体制崩壊を食い止める方策として反日気運を盛り上げる、ってありか?
政治とは、そのようなものなのか?

もっとも、だ。上から押しつけられた思想は、必ず上滑りする。中国国民だって、上がいう日本と、自分が観光旅行で訪れた日本の「差」は、感じ取っているはずだ。そのような時代である。
中国産の食品は危険で食べられない。日本の食品は、高いが美味しくて安全だ。美味しいご飯は日本の電気炊飯器で炊くものだ。そんな中国人が増えているという。

中国政府が力で国民に押しつける日本のイメージが、中国国民が自分で感じ取った日本に置き換わる日が必ず来るはずである。
私はそう願う。


明日は図書館に行って、羽仁五郎の「都市の論理」を探してみようと思っている。
羽仁五郎は、桐生市の出身。私の学生時代に絶賛された思想家だ。「都市の論理」で学生運動に走った学生も多かった。ところが、今は思い出す人もいないらしく、「都市の論理」の新刊は手に入らない。amazonで古本を買おうかとも思ったが、出身地の図書館なら置いてるだろう、と思い直した。

数十年ぶりにページをめくって、桐生を考えてみようと思っている。