2015
12.10

2015年12月10日 知性

らかす日誌

多分、同じ日に載ったのはたまたまであろう。今朝の朝日新聞に掲載された2本の記事を紹介したいと思う。

1本目は、3ページにあった「取材後記」と題された文章である。戦後70年という企画を取材した記者が書いたものだ。そのまま書き写す。

「ふだん、金融政策の取材を担当している。経済成長や所得増をめざすことは良いことだ。ただ、消費社会の現状を考えると、賃金が上がってもそれに見合って消費が増えるとは思えない。高成長は期待しづらい。それは『長期停滞論』が言われる先進国共通の課題でもある。35歳の私の人生は、戦後70年の後半にあたる。人生の大半が『失われた20年』と重なる同世代には、社会活動に力を入れる人も多い。今は成長が前提の『国のかたち』が崩れてゆく不安の時代だ。それでも、新たな豊かさを模索できる希望の時代と思いたい」

以上が全文である。
これ、お読みなって、どんな感想をお持ちになります?
私の感想は一言。

「知性の崩壊」

であった。この記者、いったい何を考えているんだろう? というか、何を考えているつもりになっているのだろう?

最初の一文は自己紹介である。まあ、この文章が必要かどうかはさておき、文章としての破綻はない。だが、これに続く2つ目の文章はあまりにも唐突ではないか? 単なる自己紹介の文章が、何故に、こんな独自の価値判断を示す文章に続くのか?

まあ、金融政策=景気浮揚対策、という、彼個人の暗黙の前提があるのだろう。だが、金融政策の主目的は、常に景気浮揚であるのではない。金融政策を担当する日本銀行(日銀)が長年モットーとしたのは、インフレの抑制である。景気が良くなろうが悪くなろうが、とにかく悪性インフレの発生だけは抑止する。私の知るかぎり、戦後の日銀はずっとそうだった。
それが方向を180度変え、インフレを目指す金融政策を採り始めたのは、今の黒田総裁になってからである。

1990年以降、日本経済は流動性の罠、と呼ばれる経済停滞に陥っている。その処方箋を示したのは米国の経済学者、ポール・クルーグマンで、これはなかなかの難病だから、国と中央銀行は目標インフレ率を儲け、あらゆる手段を動員してその目標に到達するインフレを目指さなければ、経済の停滞状況からは抜け出せないとの論を展開した。
だから、黒田日銀が目指しているのは、まだ景気浮揚とまではいえない。日本経済を緩やかなインフレ状態にすることである。そうなれば、恐らく景気は回復するであろう、ということだ。

ということを知れば、最初の文章から、突然2番目の文章に飛び移るのは、文章として無謀としか言いようがない。

しかも、である。景気が良くなることは無条件に良いことなのか?
そもそも、景気とはなんぞや? 日本経済が1%成長では景気が悪く、2%成長なら景気が良くなるのか? それとも、4%成長しなければ景気が良いとはいえないのか?
その、曰く言い難い景気が良くなれば多くの人が幸せなるのか? 懐にガッポリ金を貯め込むのは大企業だけで、その従業員も、中小企業も商店主も青息吐息が続くことはないのか?
景気が良くなった。だから派遣社員を沢山雇い入れた、で日本の雇用情勢は好転するのか?

たった2つの文章だけで、後から後から疑問がわき上がってくる。

しかもだ。次の文章をお読みいただきたい。

「ただ、消費社会の現状を考えると、賃金が上がってもそれに見合って消費が増えるとは思えない」

まあ、君。何を思うかは君の勝手だが、普通、所得が増えれば、これまで買えなかったものを

「やっと買えるようになった」

とにこやかになる人は増えるのではないか? そんな人が増えないと君はいうが、それはなぜなの?
百歩譲って、消費が増えないとしよう。だとすると、消費に回らなかった、増えた分の賃金は何処に行くの? ねえ、どう考えても行き先は2つしかないよな。貯蓄か、借金の返済か。どうして所得が増えた人の選択肢が、その2つしかないんだ?

そのあとの文章も、言ってみれば支離滅裂。突然、社会活動に走る同年代の動向(そもそも、社会活動って何なんだ? 君がサラリーマン記者をしているのも社会人としての活動=社会活動ではないのか?)が出てきたり、新たな豊かさを模索してみたり。

読者はこの短い文章から、いったい何を読み取ればいいのか。

あのね、福田直之君。公にする文章は、もう少し緻密に論理を組み上げないと読者に不親切だと思うけど、あなたはどう思ってるの?

とは、こんな粗雑な文章を「らかす日誌」と称して書き続ける私がいってははいけないことかも知れないけどね。


一方で、こんな雑な文章を堂々と紙面に掲載した今朝の朝日新聞が、他方では

「よくぞ書いた!」

と言いたくなるコラムを載せた。社説の下にある「ザ・コラム」である。筆者は、編集委員(きっと偉い人なんだろうなあ)の駒野剛氏。

これ、長いので引き写しはしない。興味がある方は自宅で今朝の朝日新聞を引っ張り出すか、図書館で2015年12月10日の朝日新聞朝刊を閲読するか、何らかの方法でアクセスしていただきたい。

原発問題を論じたコラムである。
福島原発の事故を教訓とし、あらゆる事故を想定して安全対策を練り直して訓練を重ねる東京電力柏崎原子力発電所のルポからコラムは始まる。それは事故が起きたことを前提にして、どうしたら福島の二の舞にならずに済むかを考え抜き、その結果を訓練を通じて従業員の身体に染み込ませようという取り組みだ。
それを紹介したあと、駒野氏は書く。

「地球温暖化を思えば、石炭、石油などCO2(二酸化炭素)排出源に過度に頼れない。次代の主役、再生可能エネルギーも発展途上だ。私は、当面20~30年程度の期間に限定して、原子力との『共生』を真正面から議論せざるを得ないと考える。
ただし、安全確保は共生の絶対条件だ。大地震への備えは当然だが、新潟県の泉田裕彦知事が求めている、福島の事故原因の総括や、責任者の処分も欠かせまい。
また武装勢力による攻撃のような事態でも、原発の安全を保たねばならない。10月29日、柏崎原発付近で新潟県警と陸上自衛隊が初めて、武装工作員に攻撃される可能性が高まったとの想定で共同訓練をした。
こうした最悪の事態をあえて想定し、態勢を作り上げることも共生の条件だ」

終わりから2行目に不適切な言葉の使用がある以外は、実に的を射た主張だと思う。
私は、昔から原発は嫌いである。加えて、怖い。福島で、その怖さは十分に思い知らされた。だが、今の日本の電力の供給と消費を考えるかぎり、これ以外に取りうる選択肢はないと、私も思う。
それがきちんとした判断力を備えた人間の判断ではないのか。

思い返せば、だ。福島原発事故のすぐあと、朝日新聞は、原発に対する姿勢を、それまでの

「Yes,but」(賛成だが、言っておかねばならないことがある)

から、

「No」(絶対にダメ)

に突然切り替えた。事故が起きてからじゃあ間に合わないだろう、とも思うが。それを書いたのは、当時の論説主幹(確かそうだった)の大軒という人物であった。その宣言文を読みながら

「どこかで誰かが書いた文章を寄せ集めただけで、自分で思考した痕跡が何処にも見あたらない駄文である」

と愕然とした。
世が原発の危険性に神経を尖らせているとき、その勢いに乗って大衆にすり寄るものでしかなかった。

その朝日新聞にも、こんなに健全な考え方が、健康な知性が生きている。
それがちょっぴり嬉しくなって紹介した。

あ、不適切な言葉の使用とは

「武装工作員に攻撃される可能性」

の部分である。
可能性とは英語にすればpossibility(英々辞書によれば、capability of being used or of producing good results)である。つまり、明るい未来を予見するときに使う言葉である。もともと、「可能」というのはそのような意味ではないか?
従って、この文章では「恐れ」あるいは「危険性」ないしはそれに類した言葉を使用しなければならない、と私は考える。

もっとも、NHKのアナウンサーも記者も、みんなバカの1つ覚えのように、あらゆるケースで「可能性」を使っているけどね。

今日は、朝日新聞の記事を材料に、知性について考えた。