2016
04.27

2016年3月27日 5+α

らかす日誌

五体不満足の乙武洋匡君、なかなかやるものである。
あの不自由な身体にもかかわらず、みじんも暗さを感じさせずに努力してきた。やがてマスコミの寵児になり、東京都の教育委員にも抜擢され、さらには政治への道を進もうとする直前のスキャンダルである。

「何? あの乙武が不倫? だってあいつ、大学時代から支えてくれた糟糠のかあちゃんがいるんだろ? ちょっと名前が売れたからって、それはないんじゃないの?」

というあたりが世の受け止め方だろう。

だが、である。家庭の暮らしの実像は、他人には分からないものである。わからないから、わからないところは想像力で補うしかない。言い換えれば、何を想像しようと、想像する人間の自由奔放に任されてしまうため、醸し出されたストーリーは、想像する人の人間性をくっきり映し出す。

と考えてくると、不倫=けしからん(でも、うらやましい)、という常識論に乗っ取って、知名度が高い彼へのやっかみという薬味もふりかけ、さらなる高みに登ろうとしている乙武君をたたいて悦に入っている、というのが週刊誌メディア、それに共感する読者の現実ではないのか。

どっちみち、乙武君、そして乙武君の家庭の内情は、我々にはわからないのである。であれば、次のようなストーリーだって描ける。

確かに、いまの奥さんは糟糠の妻である。学生時代、乙武君に深く同情し、同情がいつか愛に変わった。

「この人を支えていけるのは私しかいない!」

と思い込めるのも若さの特権ではある。

だが、人間は必ず変わる。結婚して普通の暮らしをしていても変わる。相手の、それまでは見えなかった一面に直面することで変わる。いや、自分の方だって、交際中は隠していたところも、一緒にいるのが日常になってしまえば、いずれは表に出る。出ることで2人の関係は変わる。すると、自分も変わってしまう。

加えて、かつては社会的弱者の代表だったから深く同情し、愛するようになった乙武君が、あれよあれよという間に社会的強者になってしまった。心からの愛の原点になっていた同情心が必要なくなった。

「だったら、普通に付き合えばいいんだわ」

いや、普通で済めば問題はなかった。社会的強者には世の視線が集まり、やがて金と名誉を生む打ち出の小槌になる。

「何だぁ、だったら旦那を使って金儲けしなきゃ。みんなから尊敬されるセレブにならなきゃ」

支えるはずだったのに、利用し始める。180度の変身である。妻が変身すれば、夫も変身せざるを得ない。自分を利用して己の野望を実現しようとする女と同居するのが苦痛になる。いや、自分を利用しようとするのは妻だけではない。顔をあわせる全員が、自分を利用しようとしているのではないか、との疑いから一刻も逃れられなくなる。地獄だろう。

「俺の人生って、何だ?」

人知れず苦悩する乙武君の前に、天使が現れた。自分を金のなる木としか見ない奴らと違って、彼女は男として私を見てくれる。

「僕の人生を意味あるものにしてくれるのは彼女しかいない」

学生時代の妻が、姿形を変えて再び現れてくれた。という次第で、2人は恋に陥った……。

てなストーリーだって、どうせ知らないのだから描けるはずである。

いや、私は乙武君の奥さんを知らない。見たことも会ったこともない。名前だって、この原稿を書くためにネットで検索しているうちに「仁美」だと知った、程度である。だから好きでも嫌いでもないし、意図的に貶める動機はない。ただ、彼女がネット上で、乙武君と並んで「謝罪文」を公開したことがどこかにひっかかるのである。

何であんたが謝る? 謝罪する前に怒り狂うのが普通ではないか? それなのに、この淡々とした謝罪文。それって、選挙目前だから、じゃないのか? 旦那を国会議員にするには、理解ある妻を演じて夫のダメージを少しでも回復しなければ、という計算ずくの行為ではないか?

と思ってしまったことが、こんな荒唐無稽(かどうかは知らないが)な原稿を書いた理由の1つである。
あ、五体は不満足でも、5+αのαは達者なんだな、と感じ入ったこともあるが。


と書きながら、真実は週刊誌報道と、私がここに書いたことの中間のどこかにあるんだろうな、と考えている私である。

新聞や週刊誌が書いたから真実なのではない。テレビが映し出したから本当のことではない。当事者のコメントが本音ではない。いずれも、多かれ少なかれ、計算したかしないかの違いはあれ、歪みを持つ。その歪みを通して本当らしいことにたどり着くことをメディアリテラシー、という。

現代は情報が溢れかえりすぎている。ために、ひとりひとりがメディアリテラシーを身につけねば、歪められた事実の上に自分の世界観を築いてしまう。間違った世界観は差別や偏見、無知の温床となる。


野球賭博問題も乙武君の問題も、まずは

「それがどうした?」

と受け流す懐の深さを持ちたい。そうやって一度受け入れて、自分でゆっくりと噛み砕いてしてみる。そうすれば、メディアが声高に叫んでいるシンプルな味とはひと味もふた味も違った、複雑な味が口の中に広がるのではないか?

私はそう思って世の中を眺めている。