2016
10.07

2016年10月7日 鼻風邪

らかす日誌

昨日朝、とある人を訪ねた。いや、主題は「鼻風邪」であるので、誰を訪ねたかは問題ではない。問題はそこで起きたことである。

尋ねた人の工場兼事務所で雑談を始めた。私が人を訪ねる目的の多くは雑談である。雑談といっても、個人事業主になったからといって、一日中金目の話をするわけではない。というか、まだ一度も金目の話をしたことがない。従って、我が個人事業の収支は、支出のみがあって、まだ収入はない。
俺、大丈夫なのか? というのも、本日の話題ではない。

雑談を始めたら、何だか鼻の穴がムズムズし始めた。おかしいな、花粉の季節でもないのだが、と鼻に手をやるとヌルリとする。
えっ、俺、鼻水を垂れてる!

思い起こせば、小学生の頃は鼻水とは切っても切れない縁があった。冬場になれば鼻水がよく出る。出ると、おおむねはすすり込む。口の中で塩味がする。すすり込んでも間に合わなくなると、服の袖でぬぐう。右利きの私は、このような場合も右手を使う。遊び疲れて家路につく。ふと見ると、我が服の右袖がてかてか光っている。

「そうか、鼻水には乾燥すると光沢を発する成分が含まれているのか」

その成分が何かを突き止めようという姿勢を持っていたら、私は今ごろ科学者になり、ひょっとしたらノーベル賞を受けていた。
光沢の成分を分離し、商品にできないか、と考えていれば、今ごろは巨大事業を操る名経営者になっていたかも知れない。
が、その時の私は

「いかん、またおふくろにどやされる。何とか隠す方法はないか」

と右往左往するばかりであった。よってノーベル賞受賞者にも名経営者にもなることはなく、いまだに収入が1円もない個人事業主に納まり、朝から鼻水を垂れている。
人生とはそのようなものである。

いや、横道にそれた。軌道修正をする。
大の大人が、鼻水を垂れる。鼻の穴を出て上唇近くまで流れた鼻水は、決して美しい図ではない。気がついてすぐにタオルを取り出してぬぐったが、覆水盆に返らず。この日の雑談の相手には、我が醜き鼻水の図をバッチリ見られた。私の声望は一段、二段下がったに違いない。
こんなことで大丈夫か、俺の事業?

が、まあ、たかが鼻風邪である。それほど慌てることもあるまいと放っておいた。一晩寝れば落ち着くさ。

一晩寝た今朝。

「くっそー。鼻の穴がヒリヒリしてきたぜ」

ここまで来ればやむなし。薬局に走り、風邪薬を買い求めた。

「どうしました?」

「こんな季節に、昨日から鼻風邪でね」

「このところ、急に夏になったり秋になったり、天候が不順ですからねえ」

「いや、やっぱり抵抗力が年齢並みに落ちてきたんだと思うよ」

「どうしたんですか。最近、何だか後ろ向きの発言が増えてません?」

「……」

行きつけの薬局の店主に一本取られた私であった。


それにしても、である。朝日新聞って、どうしてこんな投書が好きなんだ?
今朝の「声」の欄に、

「原発事故賠償の有限責任に反対」

という投書が掲載された。投書の主は神奈川県の72歳の無職男性とある。酸いも甘いもかみ分けてもよろしい年頃の方である。

この方の主張は次のようなものである。
原発事故の賠償制度責任範囲を限定するかどうかの審議を、内閣府原子力専門委員会の専門部会が始めた。私は、原発事業者の賠償責任に限度を設けることには反対だ。原発で利益を得てきた事業者が保険をかけて事故に備えるのが当たり前ではないか。有限責任になったら、足りない分は税金で負担することになる。それは許せない。

そうかあ?

問題は2つに分けて考える必要がある。
まず、エネルギー源として原発は必要なのか、不要なのか。私は原発は怖いし、好きでもない。だが、原発は必要だと考える。
福島原発の事故のあと、当然ながら世論は反原発に大きく傾いた。あの悲惨さを見れば、世論の動きは当然のことだと思う。

だが、だったら我々は原発なしでやっていけるのか。
電気とは大変に使いやすいエネルギーで、だから工場や事務所だけでなく、店舗にも家庭にも、つまり現代生活の隅々にまで入り込んで、なくてはならないものになっている。それどころか、新しいビルは高層化が進み、事故を防ぐため窓は開閉できない。真夏でも外の風は入らないからビル内の空調はなくてはならず、電気がなくなればビルのほとんどは建て替えが必要になる。建て替えられたあとは窓を開閉してもいい低層ビルばかりになるはずだ。ビルが不足して賃貸料は高騰する。
いや、我が家だって、冷蔵庫に洗濯機、炊飯器からテレビ、オーディオ、そうそう各部屋の照明、それにエアコンと、電気がなければ動かないものが溢れかえっている。電動丸鋸、電動ドライバーがなければ、本棚だって作れない。
どう考えても、電気なしの暮らしは成り立たない。

では、いまの技術水準で原発に代わるエネルギー源はあるか。
太陽光も地熱も風力も、残念ながら原発に代わるエネルギー源になる能力はない。原発なら1KWhあたり10数円で発電できるのに、太陽光でできた電力の買い取り価格はその4倍近い。それに、太陽光も風力も地熱も、需要に見合う電力を創り出せない。
では、石油、天然ガスといった化石燃料を使い続けるのか。地球温暖化問題は横に置くとしても、化石燃料はいつかはなくなる。いまは使えても、いずれは供給が先細りになり、一方で価格は急騰する。2度に渡った石油危機は忘れようにも忘れられない。 
だからこれまで、原子力のエ次のネルギー源が様々に取り沙汰されてきた。当面、燃料電池、あるいは水素がが最も有望だと思うが、まだ水素の安定供給体制が整っていない。それに、価格もこなれていない。最も期待されるのは核融合だが、これはいつになれば技術が確立するのか、見通しすら立っていない。 
 
とすれば、好き、嫌いにかかわらず、当面は原子力のお世話になるしか、我々の選択肢はない、と私は考える。 

ここで初めて、では原発が事故を起こした時の賠償をどうするかの課題が登場する。この投書の主は、そもそも原発に反対されているようにも受け取れるが、それは置く。この方は、原発が動いていることを前提に、事故に伴う賠償は 

「電力会社がすべて引き受けなければおかしい」 

と主張される。 
電力会社が如何に大会社だとはいえ、単独で支払えるほど賠償金は少額ではないだろう。だから、保険をかけろ、と主張されるのである。

だが、だ。いったん事故が起きれば賠償額は天井知らずになる。そのような保険を引き受ける保険会社が果たしてあるのか?
万が一あったとして、では電力会社が支払わなければならない保険金額はいくらになるのか。保険会社だって会社である。利益を出して存続し、原発の事故が起きたら賠償金を払わねばならないのだから、それに見合うだけの保険金を課すことになる。だから、保険金も天井知らずの金額なるはずである。 
よろしい。引き受ける保険会社があって、電力会社は毎月保険金を払い込むとしよう。では、その保険金はどこから出るのか? 企業や各家庭が支払う電力料金にしか出所はない。ということは、電力料金も天井知らずに跳ね上がるはずである。 

さて、跳ね上がった電力料金がどの程度になるかは分からないが、いまの2倍、3倍に跳ね上がった電気料金を、この投書の主は、 

「こうでなくてはならない」 

と喜んで支払われるのだろうか? 

詰まるところ、このような「最後の金」は企業と国民が負担せざるを得ないのだ。そして企業が負担するといっても、もとはといえば我々から吸い上げた利益である。ということは、ずっと経路を辿れば、我々国民が負担するのだ。 
電気料金の形をとるのか、税金として吸い取られるのか。そんな、取られる形だけのことにこだわる意味があるか?

企業を無闇に悪者に仕立て上げても、得るものは少ない。どうあがいてみても、私たちは企業と個人が混在し、それぞれがそれぞれの役割を果たしながら織りなしている仕組みの中にいる。己の都合だけで生きていける企業も個人もいない。単独でできること、仲間が必要なこと、全体で解決しなければならないこと。様々な課題に面と向かいながら、できるだけ間違わない選択をするように努力するしかない。その際、思い込みは間違った選択に我々を導く恐れがある。それを避けたいと思う。

つまり、この投書の主が主張されていることが、私には理解できないのであった。朝日新聞の方はちゃんと理解して掲載されたのかな?