2017
05.17

2017年5月17日 調査

らかす日誌

このところ、桐生の祇園祭のことを調べている。
といっても、祭りが私の趣味であるのではない。最近趣味にしたということもない。祭りがあっても

「やってるな。でも、人混みはいやだな」

と自宅にこもっているか別のところに出かける天の邪鬼な私であることに変わりはない。

では、桐生の地方史に関心を持ったのか。
歴史は好きな方である。かつては日本史、世界史の本を読みあさり、ついには「岩波講座 世界歴史」などという、全30巻の分厚い本を買い集めたこともある。あれは確か、まだ横浜の自宅にあるはずだが、箱から出せば新品同様のはずだ。いつかは取り組もうと思い続けたまま、現実にはページをめくった記憶がないのだから……。
まあ、その程度の歴史愛好家である私が、地方史、中でも祭りの歴史なんぞに、個人的に関心を持つはずがない。桐生を語るにしても、常識的な知識さえあればこと足れりとするのが私の方式である。

では何故?
とある方に頼まれたのだ。これから桐生祇園祭を盛り上げたい。祭りを盛り上げて町内の志気を高めたい。いま手をつけなければ衰亡の恐れがある……。

300年ほどの歴史を持つ桐生祇園祭は、町に経済力がなくなるに連れて勢いが衰え、昭和39年(1964年)、ほかの祭りと統合されて桐生八木節まつりの一部になってしまった。まあ、地方都市の衰退は全国的な現象だから、それもやむを得ない時代の移り変わりかも知れない。だが、よそ者の私から見ても、歴史のある祇園祭がポッと出の八木節の陰に隠れるのは、いかにももったいない
というわけで、私にお手伝いが出来るのならとお引き受けした。

それでは、頼まれごとをどうさばくか。

「町の人は自分の町の歴史に誇りをもつべきです。この町の祇園祭の歴史をパンフレットにしましょう。それを読んで町の誇りを大きく育てましょう。祭りに集まる人々に配ってこの町をアピールしましょう」

こうして、私の桐生祇園祭調査が始まったのである。

最初は気楽に考えていた。どこの町に行っても郷土史家がいる。遺跡を調べ、古文書をあさり、町の歴史を発掘して詳述することに喜びと誇りをもつ人々である。変わり者、と見なされることも多いが、地方の豊かな歴史と文化を守り、後世に伝えようというありがたい人々である。中には、ほかの人の成果の上前をはねて文化人面をしている人々もいるようだが、そのような賤しい連中は私の友ではない。

「まあ、桐生にも郷土史家はいる。その人たちの書いたものをいくつか読んで、あとはサラサラっと書いちゃえばいいさ」

その程度の気楽さであった。そして、そのご町内から記録文書をお借りした。

ところが、なのだ。読んでも読んでも、一向に祭りの全体像が見えてこない。地元の方々にお話を伺っても細部は闇の中だ。

いつ始まったのか? 不明。
祇園祭はもともと京都・八坂神社の祭りである。それが何故桐生でも始まったのか? 不明。
桐生には2台の鉾がある。本朝四丁目の鉾はスサノヲノミコトの人形を飾ったものだ。これは八坂神社の主神がスサノヲノミコトであることから素直に理解できる。
だが、隣の3丁目は翁鉾と呼ばれ、翁の面をかぶった人形が鉾の上に立つ。面ををぶっているのは源頼朝である。ん? 頼朝? 何故桐生で頼朝? その意味は? 不明。

というわけで、私は図書館に走った。図書館なら史料があるだろうと踏んでのことであった。
数は多くないが、桐生祇園祭について書き残してくれた先人はいたようである。そこで、これはと思う史料はコピーして自宅に持ち帰った。コピー代1枚10円。かれこれ1500円ほども使っただろうか。そんなわけで、私の机の周りに、うずたかくはないが史料の小山が出来た。

それで疑問が解けたか。解けない。知りたいことが書いてあるものが見あたらないのである。

そうそう、図書館で見つけた資料に「祇園祭と山車・屋台調査報告書」というのがあった。まとめたのは群馬県教育委員会である。この中に「屋台・山車調査表」というページがあり、桐生については本町1丁目から6丁目までが保有する屋台の一覧があった。

「本町1丁目町会 昭和13年7月 彫刻頭領・高松伍助」

といった具合である。本町1丁目の山車・屋台は昭和13年7月に作られ、彫刻をしたのは高松伍助であった、ということだろう。
だが、書いてあるのはそれだけだ。

「これが調査報告書? 県教委が税金を使って調べたのがたったこれだけであるはずはない。綿密な調査をしたはずで、私が目にしているのは膨大な報告書の目次であるのに違いない。大枚の税金がつぎ込まれたはずである。そいつにあたれば疑問の大半は解消するのではないか?」

私はそう判断した。図書館に

「この本体を見たいんだけど」

と頼んだ。ところがないという。いや、桐生市の図書館なんだから、せめて調査報告書の桐生分だけでも置いているのが当然ではないか、と考えるのだが、やっぱり、ない、という返事しか戻ってこない。

それでは、と今日、県教委に電話をした。

「桐生の図書館で見たんです。でも、どうやら目次部分だけしか置いてなくて。見たいのは桐生の祇園祭について調べた本体の方なんです。何処に行けば見ることが出来ますか?」

電話に出たお兄ちゃんは親切だった。

「はい、分かりました。調べて折り返しますので、電話番号を教えていただけますか?」

5分ほどして電話が来た。

「あのー、実に申し訳ないのですが、実はあれが調査報告書のすべてでして、おっしゃっている『本体』というのは存在しないんです」

……。
桐生祇園祭について調べた結果が、

「本町1丁目町会 昭和13年7月 彫刻頭領・高松伍助」

だけ? こんなもん、調査っていう? 前橋から電話で

「あなたの町の山車・屋台の製造年月と彫刻師を教えて下さい」

ってやれば集まる程度のデータが

調査報告

なのか?
その程度のやっつけ仕事をわざわざ製本し、各地の図書館に置くか? あんたなあ、これ、税金をいくらかけたの? まったく実用性がない報告書を作ることに何の意味があるの? それって税金の無駄遣いだとは思わないか?
冗談もほどほどにしておいた方が良くないか?

と毒づいてやろうかと思った。が。だ。電話をくれたのは、多分若い兄ちゃんで、役人にしてはそこそこ親切である。

「本当に申し訳ありません」

と何度も謝ってくれる。それに、これが税金の無駄遣いだとしても、無駄遣いしたのは電話の兄ちゃんではない。ずっと昔、私がつい昨年まで働いていた会社に入った頃の役人である。そんな連中のアホさ加減の責任をこの兄ちゃんが取らねばならないいわれはない。
と考え直し、盛り上がる怒りを飲み込んだ。

「あ、そうなの。存在しなかったら見るわけにはいかないよねえ。ほかに、桐生の祇園祭を調べた資料ってありませんかね」

彼によると、県下の祇園祭を調べた報告書(と呼ぶべきかどうかには異論があるが)はこれが唯一であるとのことで、諦めざるを得なかった。

にしても、だ。群馬県って、自分たちの伝統文化を大切にしないんだねえ。魅力度があと一歩で最下位に落ちるところに留まり続けているのは、その辺にも原因があるんじゃない?

というわけで、いま私の仕事は暗礁に乗り上げている。ねえ、調査報告書の「本体」が前橋に保管されていれば、わざわざ見に行こうとまで考えていたのに。

さて、どうする?

たかが仕事、されど仕事。こんな時は美味い肴で —— 昨日鰹の刺身を買ってきたもんね —— 美味い酒を飲んで —— 季節はすでにビール。我が家の定番はヱビスビール —— 、映画を見て寝るに限る。そのうちいい知恵も浮かぶんじゃないかい?
浮かんでくれよな!


何度も書いたが、このところ日誌執筆の間隔が大きい。何度も書いたが、反省している。
現在、ホームページを改良してWordPressベースで作る作業に着手している。といっても、私にはWordPressについての知識がほとんどないため、知りあいに頼んでいるという方が正確だ。出来上がれば、まずは新しい方で執筆し、このページとリンクをはる。徐々にこれまで書いた原稿を新しい方に移し、すべて移し終えたら、このページは、「らかす」が移転したことのお知らせページとし、数ヶ月後に閉鎖する予定である。
そうなれば古い、壊れかけたiMacを立ち上がる必要がなくなり、いまより更新頻度が上がるはずである。

皆様、それまでは私のサボり癖を大目に見ていただき、新生「らかす」をお待ちいただくことを伏して御願い申し上げます。