2017
07.21

グルメに行くばい! 第35回 :番外編1 香港(2004年4月23日)

グルメらかす

香港での仕事が何とか終わった。次の目的地はロンドンである。午後9時発のブリティッシュ・エアウェイズで飛ぶ。
荷造りは済んだ。航空券とパスポートの確認もし、ともに、胸の内ポケットに収まっている。
出発は5時間後。3日前、生まれて初めて香港の地に足をおろしたことが、もはや夢のように思えてくる。

3日前。
空港に到着し、とりあえずタクシーを拾ってホテルに向かった。Excelsior Hotelである。

“Excelsior Hotel, please”

普通なら、これで済む。あとは、初めて目にする香港の風景を車窓から眺めて異国情緒に浸っていれば、ホテルに着く。
はずである。

ふと、窓外に目をやる。ん? 先ほどと同じ風景である。どうしたんだ?
私が乗ったタクシーは動いていなかった。4つのタイヤが地中に根をおろしてしまったがごとく、断固として慣性の法則に従い、同一地点にとどまり続けていた。仕方なく、前を向く。運転手の怪訝そうな目線があった。

“Pardon?”

何? 分からないって?
おかしいなあ。「E」はちゃんと「い」と「え」の中間の音を出したし、「l」は、立派に上顎に舌の先をくっつけて発音したではないか。こいつ、耳が悪いのか?
いやいや、ひょっとしたらイントネーションが間違っていたのかなぁ。英語というものは、個々の母音や子音の音より、全体の流れ、特にアクセントがある場所で聞くものだというもんなあ。
これは失礼した。私のミスであったかも知れない。

 “Excelsior”

 “Pardon?”

 “Excelsior”

 “Pardon?”

 “Excelsior”

 “Pardon?”

 “Excelsior”

 “Pardon?”

匙を投げた。ポケットから、旅行会社が用意してくれたホテルの案内パンフレットを取り出し、運転手に渡した。

「Oh, えくせるしあ!

「sior」は「しあ」であった。中間母音も、下を上顎につける作業もいらなかった。

前途多難である。
初めての海外出張で、これ以上膨らみようがないほど膨らんでいた私の意気込みが、穴のあいた風船のように急速にしぼんだ。そればかりか、いいようのない不安に襲われた。
なにしろ、ベッドの上を除けば、言葉はほとんど唯一のコミュニケーションツールである。日本国内では立派に役に立った私のツールが、この地では錆びたナイフほどの能力もない。とすれば、私は群衆の中で孤立し、やがては飢え、路傍に倒れ込んで骸をさらすことになるのではないか。

「俺って、香港で生きていけるのか? 香港で飯を食えるのか?」

あれから4日。
飯は食えた。行きたいところに行けた。通訳の手助けを受けたとはいえ、仕事も片が付いた。
両替したばかりの現地通貨を、50ドルばかり盗まれた。買ったばかりの革のアタッシュケース、Made in West Germanyを縁石にぶつけ、皮の一部がめくれてべそをかいた。現地の人と、英語と漢字で会話をした(「中欧編 VII : 国立オペラハウス」を参照してください)。
実り豊かな、3泊4日の香港だった。

ロンドンへの旅立ちまで、あと4時間半。

時計を見ると、午後4時半を少し回っている。まだ時間はある。ビジネスクラスのシートに体をゆったりと預けて次の仕事に必要な書類に目を通す前に、腹ごしらえをしておかなければならない。
今日の夕食は、香港で最後の食事である。となると、香港に敬意を表する意味からも、やっぱり中華料理しかない。誰に相談する必要もない。私が独断で決める。気楽な1人旅なのである。

ホテルに荷物を預け、街に出た。フロントドアを出て右に曲がる。ビクトリアパークを眺めながらしばらく歩くと、飲食店街だ。隣り合った2つの筋の両側に、びっしりと飲食店が張り付いている。

「さて、どの店にしようか」

といっても、店を選ぶ手がかりになる情報の持ち合わせはなかった。夕食に中華料理を食べるということは、たまたま時間が余ったがゆえの思いつきに過ぎないのである。

こうした場合の解決策は、1つしかない。勘を頼るのである。

(余談) 
試験で、選択肢から正解を選ぶ問題が出た。どうしても答えが分からない。こんな危機に直面したら、鉛筆を転がすのが我々世代の常識であった。あれは、鉛筆が6角形の断面図を持っていたが故にできた裏技であった。裏技が使えたが故に、勘に頼る必要はなかった。 
そういえば、最近の子供は鉛筆を使わないそうだ。幼いころからシャープペンシルを筆箱に入れる。 
おい、おい、シャープペンシルでは転がせないぞ! 
鉛筆という有効なツールを捨てて、君たちは何をもって試験と戦っているのか? 
勘だけを頼りにするのは危ういぜ!

 1つ目の筋に入った。両側の店のウインドウを眺めながら、どの店にするか、何を食べるかを考える。
勘を働かせるにしても、材料は多い方がいい。ここは、とりあえずすべての店のウインドウを覗き込むにこしたことはない。

1つの目の筋を端まで歩いた。そこで左に曲がり、2つ目の筋を反対側から歩く。

ふーっ、店ってたくさんあるものだ。この中から1つに絞るのは、なかなかコトだぞ。
それにしても、日本人とおぼしき連中がけっこう歩いているものだなあ。あの2人連れの女の子も日本人、こっちのカップルも日本人。前を歩くおばさんのグループも、どう見ても日本人だ。
中国人、韓国人とどうやって見分けるかって?
黄金の国ジパングの住人は、持ち物が違う、服が違う、靴が違う、化粧が違う。第一、日本語でしゃべってる。

あれ、もうこの筋も終わりか。しかし、困ったなあ、勘が働かない。どの店に入ればいいんだ?

いや、ちょっと待て!
俺が食いたいのは中華料理ではないか。中華料理とは、基本的に大皿料理だ。1人で中華料理店に入っても、注文できるのは一品だけ、どんなにがんばっても2品が限度だろう。悔しいけれど、一度にお腹に入る量には上限がある。
1人で多種類の料理を食べるには……、ふむ、中華定食ってあったっけ?
よし、もう一回りしてみよう。

おや、あそこでウインドウを覗き込んでる女の子の2人連れ、さっき会ったなあ。大学生かなあ、それともOL ? 2人ともとびきりの美人じゃないが、まあ、10人並か。
そうか、彼女たちも、何を食べるか物色中なのか。俺と一緒、と。

おっと、そんなことに気を取られている暇はありませんよ。なにしろ、9時には機中の人なんだから。今日も香港泊まりなら、ま、あの2人のうちの1人と……、って考えようもあるけどね。
中華定食、中華定食、と。

あれっ、店を全部見たけど、中華定食ってのはありませんよ。皆無ですよ。中華料理の本場なのに、なんで中華定食がないのよ! ちょっと不親切じゃあござんせんか、と。

とはいえ、困りましたね。1人旅じゃあ、中華料理は食べるなってことなのかね。でもなあ、好きこのんで1人旅をしている訳じゃあないし、1人旅をすることに私は責任はないんだよね、と。私だって、許されるなら、美人秘書を連れて旅をしたいんざんすよ、と。

♪1人旅、1人旅、ホントは避けたい1人旅、と。

ん!
ひらめいたのである。
根本的な解決策を思いついたのである。
必要となれば、瞬時にして根本的な解決策を思いつく。時折、自分のこの異能ぶりが恐ろしくなる。
が、この際、怖がってばかり入られない。怖がる前に、目先の問題を解決しなければならい。

解決策――
ナンパ、である。
ナンパ、をすりゃあ、一緒に飯を食うのは常識である。
ここ、香港で、香港の飲食店街で、故国においても実行したことがない路上ナンパに挑むのである。
ターゲット?
日本語が話せない方々は避けるに限る。第一、誘い方が分からない。
おばさん集団は問題外である。
カップルを誘って何が楽しかろう。
となると、あの女性2人連れしかない。
彼女たちと中華の食卓を囲む。日本語で会話が弾む。楽しくないはずがない。

(余談) 
ここ香港で中華料理をご馳走するのは撒き餌である。私も、彼女たちも、いずれは日本に帰る。帰れば連絡を取って……、 
などということは全く考えなかった。 
と断言する私の立場は、読み継いでいただいている読者諸氏には、十分ご理解いただけると信じている。

 思い立ったが吉日、とか。解決策が見つかった以上、あとは実行あるのみである。

2人はいま、この筋にはいない。とすれば隣の筋にいるに違いない。声を掛ける前にどこかの店に入られたら、ことは面倒になる。第一、発見できないに違いない。頼む、まだ店を決めないでいてくれ!

自然に、歩くスピードが上がる。ほとんど小走りである。角を曲がって、隣の筋に入る。いるかな……。

いた、いた。よかった! 2人に駆け寄った。

 「あのー、すみません」

店のウインドウを覗き込む2人に、後ろから声を掛けた。なぜか分からないが、喉がからからである。まるで3日間、1滴の水も飲んでいないような喉のヒリつきだ。声が、喉の出口に引っかかる。決して走ったせいばかりではない。
汗が出る。流れ落ちる。ハンカチを取り出してふく。決して、香港の気候のせいばかりではない。

「はい?」

それでも、2人は振り向いてくれた。下から、怪訝そうな目で私を見つめる。思わず、吸い込まれてしまいそうな目の光だ。
いかん、いかん。ここで吸い込まれてしまったら、元の木阿弥になりかねない。
気をしっかり持てよ、大道!

「ちょっと、お願いがあるのですが……」

 「はあ……?」

 「私と一緒に夕食を食べていただけませんでしょうか?」

 「…………」

いかん。何かまずいことをいったか?
2人の目が点になっている。
腰が引けている。
じりじりと後ろに下がり始めちゃったじゃないか!

フォローだよ、フォロー。フォローするんだよ!
でないと、せっかくの獲物を逃がしてしまうぞ!

「いや、あの、びっくりするのは分かるけど、あの、僕は、決して怪しいものではなくて、ですね……」

(評価) 
客観的に見れば、十分怪しい。怪しすぎる。

 「あ、あの、いま名詞をお渡ししますので……、あ、いけねぇ! 名刺入れはホテルに置いてきたバッグの中だ!

(評価) 
ますます怪しさが募る。

 「い、いえ、あの、その、決しておかしなことをしようというのではなくて、ですね、その、ちょっとご説明をさせていただきたいのですけれども……」

(評価) 
自ら、おかしなことをしようとしていることの告白とも受け取れる。

 「……、何でしょう?」

よかった! 口をきいてもらえた!
根性を入れろよ、大道! この路上ナンパを成功させないと、本日の夕食は思うに任せないのだぞ!

(評価) 
それにしても……。お前、これまで何年生きてきた? こんな口説き方しかできないのかよ! むだな人生を送ってきたものだな、まったく。

 どんな評価をされたとしても、ここは誠心誠意でいくしかない。それしかできない不器用な男なのである。

「はい、実はですね、わたし、今晩の9時の便でロンドンに発つんです。で、香港最後の食事は中華にしたいと思ってここに来たんですけど、ほら、中華って、大皿料理だから、1人だとたくさんの種類を食べられないじゃないですか。それでですね、よろしかったら私と食事をしていただきたいと思ってお誘いした次第なんです。いえ、もちろん、私が、私の事情でお誘いしているのですから、ごちそうします。はい、ごちそうさせていただきます。好きなものを、食べたいだけ注文していただいて、全くかまいません。お金が足りなくなったら、腕時計をはずして、服を脱いで、とにかく何としてでも支払いは済ませます。ご迷惑は絶対にかけませんから、そのー、私と食事をしていただくわけにはいかないでしょうか? お願いします」

故国を遠く離れた香港で、飲食店街の路上で、バタバタと駆け寄ってきた見ず知らずの男に声を掛けられ、食事に誘われる。
驚かないわけがない。うさんくさいと思わないわけがない。警戒しないわけがない。できれば、今すぐに逃げ出したいと思うに違いない。君子危うきに近寄らず、なのである。
なのに、私には、きわめて秀逸なる外見と、誠心誠意しか武器はない。
通用するか?

「なんだって。ねえ、どうする?」

おーっ、相談を始めてくれたよ。脈がありそうではないか。

「えーっ、だってーぇ。突然いわれたってー」

いかん。ここで逃がしてはいかん。

「お願いします。はい、私の連絡先は、私の名刺は、ホテルに戻ったら差し上げます。けっしてご迷惑はかけませんから」

ここは、ひたすらお願いするしかない。
考えてみれば、身銭を切ってご馳走しようという方が、ひたすら、ご馳走をさせていただきたいと頼み込む。不思議な図柄だが、この際、そんなことにかまっているゆとりはない。

「でもさあ、この人も困ってるみたいだから、ご馳走になっちゃおうか」

おっ、いいぞ、いいぞ! きみはすばらしい人だ! その調子で行こうではありませんか!

「うーん、ミカがそういうんなら、私はいいけど……」

 「そうですか、食事に付き合っていただけますか。よかった。ホントによかった。ありがとうございます」

かくして私は、香港最後の夜に、中華料理と、10人並の同伴者2人を楽しんだ。
店は2人に選んでもらった。私の山勘に頼らなくて済んだのは幸いだった。

(注) 
2人が、かつて試験の途中で転がした「鉛筆」の役を果たしてくれたとはいわない。 

 ついでに。

「楽しんだ」のは会話のみである。変な想像はしないように。

聞くと、2人は私と同じ「えくせるしあ Hotel」に宿泊している観光客であった。7時半からは夜の香港探訪ツアーに参加するのだという。

「じゃあ、食事が終わったら一緒にホテルに戻って、そこで名刺をお渡しします」

 「はーい、ありがとうございます」

 「ここで会ったのも何かの縁ですね。私も、来月の末までには日本に帰りますので、是非連絡を下さい。連絡先は、あとで差し上げる名刺に書いてありますので。香港の同窓会でもやりましょう。ご馳走しますよ」

 「えーっ、嬉しい! 東京で、何をご馳走になろうかなぁ」

料理のせいなのか、酒の助けなのか、はたまた、円形テーブルを囲んで時を過ごすうちに私の賞賛すべき話術と人格に触れて、当初受けた「うさんくささ」「危うさ」が雲散霧消したのか、食事は和気藹々と進んだ。

やがて食事を終え、3人で店を出て「えくせるしあ Hotel」まで歩いた。

「ツアーに出かける前に、ちょっとだけ待っててね。すぐに名刺を取ってくるから」

 「はーい」

ホテルのロビーに入った。突然、香港のホテルのロビーに、日本語が響き渡った。

「あーあ、あなたたち、どこに行ってたんですか?! 集合時間を過ぎてるでしょ! みんなに待ってもらって探してたんですよ、困るな、ホントに!」

 「えーっ、食事してたんですーぅ。ごめんなさーい」

 「じゃあ、これで全員揃ったから、すぐに出発しますよ!」

ツアーコンダクターだった。
えっ、ちょっと待てよ、まだ名刺渡してないぞ……。

「あの、名刺を……」

 「ごめんなさーい。時間がないんですぅ。ごちそうさまでした」

2人はそそくさとフロントドアを出て、待っていたマイクロバスに乗り込んだ。

「名刺を、まだ……」

私には、それ以外のせりふの持ち合わせがなかった。
なにしろ、これまでの会話は、すべてホテルで名刺を渡すことを前提に進んでいた。
私は彼女たちに、私の姓は告げた。名前は告げていなかった。連絡先、電話番号を告げるはずがなかった。
私は、彼女たちの姓は聞いた。名前は聞かなかった。連絡先? もちろん聞いていない。

ふとした縁で知り合った見知らぬ同士が、一瞬にして見知らぬ同士に戻った

私は、ナンパに成功したのだろうか?

もやもやした思いにとりつかれたまま、あれからずいぶんたつ。あのとき抱いた疑問への答えは、まだない。