2017
08.08

#14 : おばあちゃんの家 - クソガキの変身(2004年12月3日)

シネマらかす

小さな男の子が、縫い針の穴に糸を通す。通した糸を適度な長さに切り、丁寧に針山に刺す。次の針を取り上げ、糸を通し、切り、針山に刺す。5本も6本も、ありったけの縫い針に糸を通し、針山に刺す。すべての針に糸を通し終えると、通した糸が絡み合わないよう、糸を1本1本伸ばして、最後に針山をそっとおばあちゃんの前に押す。
山奥の、いまにも壊れそうなあばら屋の、一間限りの部屋での、ある夜のことである。
たったこれだけのシーンが、なぜか鋭く胸を刺す。どうして人間って、こんなにも愛おしいものなのだろう。温かい涙が湧き出してくる。

「おばあちゃんの家」は、どうしても見たいと思って録画した映画ではなかった。妻が、

「録っておいて」

といったので、ハイビジョンで録画したにすぎない。なーに、見てつまらなければ消せばいいのだ。
録画して1ヶ月ほどたって、夕食をとりながら妻と2人で見た。最後まで、一瞬たりとも画面から目が離せなかった。その時から、できるだけ多くの人に見てもらいたい映画になった。
ちっちゃな男の子が、自分で扱いかねるほどの胸一杯の愛別離の悲しみに戸惑いながら、縫い針に糸を通すシーンを、是非味わっていただきたいのである。

が、このシーンに行き着き、堪能するためには、少々回り道をしていただく必要がある。しばらくお付き合い願いたい。

子供とは、傍若無人な生き物である。
子供とは、自分さえよければ、他人なんかどうでもいい生き物である。
子供とは、世界も宇宙も自分を中心に回っていると信じている生き物である。

と思う。私はそのような子供であったし、あなたもそのような子供であったはずだ。
やがて、叱られる。教えられる。学ぶ。この世には自分以外の人間もいて、それぞれに利害得失があり、感情があり、思いがあり、愛があることを、やっと知る。自分を抑えなければならない時があることを知って、人間になる。

成長とはそのようなものである。だから、子供が傍若無人で、自分中心であることに、何の不思議もない。

だが、なのだ。いまどき、都会で見かける子供って、相当変じゃないかい?
傍若無人も、自分中心も、行きすぎて、ねじ曲がってないかい?

週末の夕方、愛犬「リン」を連れて散歩に出る。が、屋外で遊んでいる子供の姿をほとんど見ない。いても、大人の指導者の下で野球やサッカーの練習に打ち込む子供、公園で親の監視付きで遊ぶ子供、がほとんどである。
俺たちの時は、子供は子供だけで走り回っていたよなあ。子供だけの世界で、秩序もルールも作っていたよなあ。

- みんな、大人に飼い慣らされたペットになりたがってるのかね?

 電車やバスで、混んでいるのに堂々と座席を占拠する。年配者が前に立とうとどこ吹く風だ。足腰が弱り始めたおじいちゃん、おばあちゃんに気がついているのかいないのか、漫画に見入る。ゲームに熱中する。携帯電話でメールを読み書きする。狸寝入りを決め込む。
挙げ句は、優先席に座るアホまでいる。育ち盛り。元気が体からあふれ出てくる時期なのに、体が弱った人や妊婦のために設けられた席に座って、恥じらいすら感じないらしい。

- 思いやり、長幼の序、敬老精神、恥の文化、礼節。死語になりつつある言葉の何と多いことよ!

 ブランドもので身を固める。

- ガキは、すぐに成長する。小さくなって入らなくなったブランドものはどうするんだ? 壮大な無駄である。
金にあかして飾り立てたガキは、着せ替え人形にしか見えない。

 すべての価値の尺度が、金銭である。高価なものはいいものであり、高価なものを買い与えることができる親がいい親であり、服が破れたら買い換えればよく、手作りのものなど、ダサくて価値がない。

- 継ぎのあたった服を着た子供を見かけない。手作りの凧を揚げている子を見かけない。

 だから、私はいまどきの都会のガキが大嫌いである。

おばあちゃんの家」の主人公、サンウは、私の嫌いなガキの典型だ。箸にも棒にもかからない、都会のいやなガキである。

そのサンウが、突然、山奥のあばら屋に住むおばあちゃんに預けられることになった。都会(たぶんソウル)で店を持っていた母親が、その店をだまし取られ、生活のめどが立つまで子供を預けに来たのだ。
勝手な女である。17歳の時にこの家を飛び出し、都会に行った。それからは家に戻らず、都会で男を作り、子供をもうけ、男と別れた。1人でサンウを育てている。たくましいともいえる。いい加減ともいえる。困れば、頼ることができるのは、かつて捨てたはずの母親しかいない可哀想な女でもある。

こうして、初対面のおばあちゃんとサンウの生活が始まる。
おばちゃんは独りで住んでいる。腰が曲がり、口がきけない。字も書けない。頭もかなり惚けている。

サンウは、どこから見ても、都会のいやなガキである。

・おばあちゃんの家に向かうバスの中で、ずっと携帯ゲームに興じる。
- 社会性の欠如
・おばあちゃんに挨拶しろと母にいわれると、「なんで?」。
- 礼儀知らず
・初めて見る孫に触ろうと手を伸ばすおばあちゃんに、「汚いな!」。
- 露骨な差別
・母が去り、おばあちゃんが手を引いてやろうとすると、「触るな」と手を振り上げる。
- 同上
・だけでなく、嫌な目でおばあちゃんを見ながら、「バカ」「聞こえないだろう」「お馬鹿なばあさん」「間抜けばあさん」。
- いじめ

(余談)
弱者を遠慮会釈なくいじめる。日本で時折起きる、子供によるホームレス襲撃にも通じる。

 のっけから、この有様である。映画が始まって、まだ6分26秒しかたっていない。このあとも、クソガキぶりはエスカレートする一方である。

・おばあちゃんの作った食事は食べず、持参した缶詰をおかずに食事。もちろん、おばあちゃんには一口もあげない。
- 食生活の欠陥、礼儀知らず
・テレビが映らないと、ひっくり返って携帯ゲームを始める。
- コミュニケーション能力の欠如
・水運びするおばあちゃんを手伝うそぶりすら見せない。
- 孝心、奉仕の精神の欠如
・近所の男の子・チョリがおばあちゃんにリンゴを持って来る。サンウが持つ都会の玩具に興味を示すが、触らせようともしない。チョリの犬が吠えかかると、蹴飛ばす。
- けち、都会者の思い上がり、田舎者への差別、思いやりの欠如
・庭でインラインスケートを始めるが、土の上ではやりにくい。目をつけたのは家。最初は縁側で、やがて部屋の中で走り回る。
- 常識の欠如
・繕い物中のおばあちゃんが、針に糸を通してくれとサンウの前に糸と針を差し出す。寝ころんで携帯ゲーム中のサンウは寝返りを打って無視。さらに糸と針を差し出されると、にらみつけながら糸を通し、乱暴に床に突き刺す。
- いやなガキ
・もう一度糸通しを求められると、「もう、面倒くさいな」。しかめ面をしながら糸を通し、なるべく糸通しの仕事がこないよう、目一杯長くした糸を通した針を、おばあちゃんの前に放り出す。
- ケツを20回ほどペンペンしたくなるガキ

(解説)
 針に通した糸は、長すぎると作業がやりにくいものである。

・翌朝、携帯ゲーム機の電池が切れる。「電池のお金ちょうだい」「お母さんがお金を返すから」。お婆ちゃんは、金とはほとんど無縁の、自給自足に近い暮らしをしている。請われても金はない。すると、「役立たず。バカ」。
―バカはお前だ!
・翌日も金、金、金とつきまとい、応えない洗濯中のおばあちゃんを突き倒す。
- 金、金、金
・おばちゃんが留守中に、金を求めて家捜し。
- プライバシーの侵害、いや窃盗未遂
・それでも金は出てこない。すると、昼寝中のおばあちゃんの頭から髪留めを盗み取って町へ。おそらく、このおばあちゃんの家で唯一の金目のもの、電池と交換できる価値を持つものと目をつけたのだろう。
- 自分の都合しか考えない、窃盗

 いかがであろう? あきれるほどにどうしようもない、都会のガキである。サンウにとって、おばあちゃんは婢女(はしため)以下の存在である。
子供は親の鏡である。社会の鏡である。とすると、母と2人で暮らす都会とはいかなる所であるのかを、サンウはみごとに映し出しているともいえる。
時折電車で出会う、日本のいやなガキどもとダブって見える。都会での暮らしの歪さは、日本も韓国も大差ないもののようである。

ところが、まだまだなのだ。

・数日たって、おばあちゃんはサンウに何が食べたいか聞く。「お金もないくせに」と毒づくサンウだが、食べたいものはしっかり伝える。ケンタッキー・フライド・チキンである。サンウによると、「ケンタッキー・チキン」である。
おばあちゃんは畑の作物を風呂敷に包んで出かけ、やがて雨にズブ濡れになりながら帰ってくる。生きた鶏を運んできた。サンウは待ちくたびれて寝ている。
おばあちゃんは鶏を絞め、調理を始める。出来上がったのは、鶏の丸煮とでも呼ぶべき料理だった。サンウはいう。
「ケンタッキー・チキンじゃない」
「こんなのイヤだ」
「ケンタッキー・チキンといったじゃないか」
「フライだよ。なぜ溺れさせるのさ」
「何も分かっていないんだから」
「ケンタッキー・チキンじゃないとイヤだ」
「食べるもんか」
いいながらサンウは、ご飯茶碗をはねとばし、やがて何も食べないまま泣き寝入りしてしまう。
- 勝手に飢えて死ね!

(余談)
だけど、
「フライだよ。なぜ溺れさせるのさ」
という発想はすごい。憎たらしいクソガキの言語センスに、ここは脱帽した。

 ね、ここまでわがまま放題に育ってしまったクソガキである。私だったら、この間、何度パンチを見舞っていたことか! サンウの顔は腫れ上がっていたに違いない。

ところが、このおばあちゃん、決して殴らない。殴らないどころか、怒りさえしない。何を言われても、何をされても、ちょっとばかり悲しそうな目をしてサンウを見るだけなのだ。
悲しそうな目をしながら、でもサンウのために食事を作り、夜中に便意を催したサンウのそばについてやり、サンウの服を洗濯し、サンウの帰りが遅いと、曲がった腰に鞭を当て、細い山道をとぼとぼと下って迎えに行く……。

あんたは慈母観音か? いくら孫だからって、こんなクソガキに何をしてやっても無駄じゃないか。こいつは、都会の塵芥(ちりあくた)が頭のトッペン先まで染みついてるんだよ。洗い流せるもんじゃないぜ……。

ところが、だ。おばあちゃんの無私の愛は、都会で真っ黒けになって固まってしまったサンウの心を、少しずつ、少しずつ溶かしていくのだ。

始まりは、夕立だった。おばあちゃんが出かけていた午後、突然激しい雨が降る。縁側で昼寝をしていたサンウは、雨音で目を覚ます。ふと庭先を見ると、差し渡された紐に、洗濯物がぶら下がって濡れている。それを見ながら、また眠りの世界に入り込もうとしたサンウだったが、さすがに気になったのだろう、雨に濡れながら洗濯物を取り入れる。
雨が上がった。サンウは洗濯物を紐につるす。つるし終えて縁側に戻ったサンウは、自分の干した洗濯物を眺めていて、再び紐の所に戻る。戻って、おばあちゃんが干していたのと同じ順に洗濯物が並ぶよう、つるし変えるのだ。
これまでさんざんバカにし、無視し、こき使い、コケにしてきたおばあちゃんの手伝いをしたことが、おばあちゃんに知られることが恥ずかしかったのに違いない。

ん? サンウよ、お前もなかなかやるじゃないか。照れるという感覚をもっているとこなんざ、褒めてやるぜ!

が、なかなか一筋縄ではいかない。あの、「ケンタッキー・チキン」騒ぎが起きるのは、なんとこの後なのである。
あー、進歩しねえな、サンウよ!

だけど、このころからサンウは、確実に変わり始める。

ケンタッキー・チキンの日、泣き寝入りしたサンウは夜中に腹が減って起き出し、溺れたチキンに齧り付く。要は、まだ子供なのである。
翌朝、おばあちゃんの様子がおかしい。いつもならサンウよりずっと早く起き出して働いているのに、まだ寝ているのだ。恐る恐るそばに寄ったサンウが額に手を当てると熱がある。雨に濡れて鶏を持ち帰ったのがいけなかったのだ。
と、サンウはタオルを取り出し、冷たい水に浸しておばあちゃんの額に乗せるではないか!
ちっちゃなサンウが、いくつものドジを踏みながら食事を作り、おばあちゃんの所に運ぶではないか!

「朝……、いや昼ご飯食べて」

実にかわいらしい顔なのだ。誰かに優しくすること、尽くすこと、誰かを愛することの楽しさ、嬉しさを初めて知ったのである。

ま、そのまま一直線にいい子になるわけではない。散髪してくれたおばあちゃんに文句を言ったり、せっかく買ってもらった靴を、

「ダサい靴だな」

と蹴飛ばしたり、近所の子にいたずらを仕掛けたり、相変わらず悪童なのだ。でも、サンウはもう、クソガキではない。

バスに乗って町までカボチャを売りに行った日。なぜかおばあちゃんは帰りのバスに乗らず、サンウだけがバスで帰宅した。なかなか戻ってこないおばあちゃんが心配になり、バス停まで迎えに行く。ずいぶん待って、曲がった腰に手を当てながらおばあちゃんが坂道を登ってくる。どうしてバスに乗らなかったのか。訳は分からないが、サンウの顔にホッとしたような笑みが浮かんだ。おばあちゃんが抱えてきた荷物を奪い取り、家まで運ぶサンウ。思い出して、ポケットからチョコパイを取り出し、おばあちゃんの荷物の中に滑り込ませた。町で買ってもらって、明日自分で食べようとしまっていたヤツだ。

ありったけのおもちゃを持って、村の友達の所に遊びに行った。おもちゃをバッグに詰めていると、おばあちゃんが携帯ゲームを包装紙でくるんでいる。

「電池が切れてるだろ!」

とおばあちゃんを怒鳴りつけるサンウだが、知らぬ間におばあちゃんがバッグに滑り込ませていた。
その日、サンウはけがをして脚を引きずりながら戻ってくる。途中、思い出して携帯ゲームの包み紙を破ってみると、ゲーム機と一緒にお金が出てきた。おばちゃんが入れてくれていたのだ。電池代である。町からおばあちゃんが歩いて帰ってきた、バスに乗らなかったのは、このお金を工面するためだった……。
サンウの目から涙がこぼれ始めた。泣きながら歩き続けていると、おばあちゃんがいた。サンウの中で堰が切れた。大声で泣き始めた。
汚くて、口がきけなくて、字が書けなくて、腰が曲がっていて、お金がちっともないおばあちゃんの、サンウに寄せる大きな愛情がサンウに通じたのだ。サンウは、実は、この汚くて、口がきけなくて、字が書けなくて、腰が曲がっていて、お金がちっともないおばあちゃんが大好きであることに、初めて気がついたのだ。

その時、なのである。おばあちゃんが手紙を取り出したのは。ソウルに戻っていた母からだった。明日、サンウを迎えに来るとある。明日、サンウはおばあちゃんと別れる……。

その夜。サンウはおばあちゃんに文字を教えていた。「体が痛い」「会いたい」という文字である。

「こんな字も書けないの? 話せないし、電話もできないだろ。手紙ぐらい書けなきゃ」

おばあちゃんは一所懸命にサンウの字をまねるのだが、形にならない。

「体が痛いときは、何も書かないで僕に送って。おばあちゃんのことろに飛んでくるよ。いいね?」

サンウはもう、バカともアホともいわない。優しい声でおばあちゃんに語りかける。やがて涙声になり、とうとう泣き始めるのである。

(余談)
いかん。筆が、いやワープロがこのあたりにさしかかると、キーボードをたたきながら、なぜか涙がにじんでくる。数回しか見ていない「おばあちゃんの家」のシーンが脳裏を駆け回るのである。
いま、トイレの裏の喫煙コーナーに行って、一服してきた。気持ちを落ち着かせないと、この後が書き継げそうにない。
いつの間に、こんなに涙もろくなってしまったのか……。

 縫い糸に張りを通すシーンは、この後に来る。
手前におばあちゃんが寝ている。ということは、もう夜中である。後ろ向きになったサンウが何かやっている。サンウが、左手をスッと上げた。手元から糸が伸びている。そうか、自分がいなくなった後で、おばあちゃんが困らないように縫い針に糸を通しているんだ。
カメラが前に回る。でも、見えるのはサンウの正座をした足と、針と糸とはさみを使う手だけである。顔は見えない。ありったけの縫い針に糸を通し終えたサンウは、段ボール箱を使った裁縫箱に、糸の通った縫い針がたくさん刺さった針山と、糸を切るのに使ったはさみと、糸巻きを丁寧にしまい、段ボール箱を部屋の隅の方にそっと押す。
サンウは、どんな顔をしてこの仕事をしているのだろう? 泣いているのか? 笑っているのか? 淡々と仕事をしているのか?
わずか42秒間の短いカットである。でも、あれほど面倒くさがっていた糸通しを続けるサンウから、おばちゃんへの熱い思いやりが切々と伝わってくる素晴らしいシーンである。

翌日、サンウは母と一緒にバスに乗る。母はおばちゃんにいろいろと話しかける。でもサンウは何も言わない。顔を背けて立っているだけだ。

「何か言うことはないの?」

といわれると、逆に顔を背けてしまう。
バスが来た。母が乗り込んだ。サンウは、乗降口でためらい、思いを決したかのようにバスに乗り込む。が、すぐにバスを降りてくると、おばあちゃんにカードを押しつけ、バスに引き返す。ついに一言も口をきかない。おばあちゃんは、席に座ったサンウを、窓越しにじっと見ている。でもサンウは目を合わせない。
バスが動き出した。おばあちゃんがバス停で見送っている。すると、サンウが動き出した。一番後ろの座席に行くと、バス停で立ちつくしているおばあちゃんを見ながら右手を自分の胸に当て、大きく円を描いた。口のきけないおばあちゃんの手話を覚えていたのだ。おばあちゃんのことが心にかかっているよ。大好きなんだよ。そして、おばあちゃんに向かって大きく手を振り始めた。サンウは、都会に戻っていった。

家に戻ったおばあちゃんは、サンウがくれたカードを取り出してみた。

1枚には、人が寝ている絵が描いてあり、「体が痛いよ」と字が書いてある。
次の1枚は、口を開けている大きな顔の絵だ。文字は「会いたいよ」。
3枚目は寝て汗をかいている人の絵で、「からだが痛いよ」。
4枚目は笑っている顔。「会いたいよ」。
5枚目は遊んでいる子供の絵。「会いたいよ」。
そして、すべてのカードに
「おばあちゃんより」「サンウへ」と書いてあった。
縫い針に糸を通し終え、一度は寝ようとしたサンウが、話せない、字が書けないおばあちゃんのために、また電気をつけて、遅くまでかかって作ったカードだった。

(余談)
Webで検索したら、この映画、プロの俳優はサンウ役のユ・スンホだけで、後は全員素人とのこと。
おいおい、待ってくれ! だとすると、高い金を取ってスクリーンやテレビの画面に顔をさらし続けているプロの俳優さんって、あれ、いったい何?

 いま日本では、人情は紙のように薄い。この映画で見る限り、儒教の国といわれる韓国でも事情は似たようなもののようだ。
この映画、干からびてしまった感のある現実から、残り少なくなった、一番大切にしたいものを掬い上げたのであろうか。
それとも、干からびきった現実への強烈な皮肉なのであろうか。

こみ上げてくる涙を拭きながら、ふとそんな思いにも駆られてしまった。

【メモ】
おばあちゃんの家 (THE WAY HOME)
2003年公開、上映時間87分
監督:イ・ジョンヒャン
出演:キム・ウルブン おばあちゃん
ユ・スンホ サンウ
アイキャッチ画像の版権は東京テアトルさんにあると思います。お借りしました。