2017
08.09

#16: 初恋のきた道 - 美しい、美しい、ほんとうに美しい!(2004年12月17日)

シネマらかす

ほんとうは身も凍るほどに怖い、でも限りなく美しい初恋の物語である。

学校を出たのにほかに就職先がなかったルオ・チャンユーは、教師になって田舎の村に赴任する。ろくな校舎さえない村だ。でもしか教師の典型である。

(注)
まさかいらっしゃらないとは思うが、ひょっとしたら、ご存じない方のために。
でもしか教師 = 教師にでもなるか、教師にしかなれない、という動機で先生になった方々。日本全土に幅広く存在するといわれる。

 馬車で村に赴任した。すると、何ということだ、村人がほとんど総出で、女たちは着飾って迎えてくれているではないか。こいつは気分がいい。
しかも、女どもはそれぞれに着飾っている。おっ、あの子、紅い服に赤い襟巻き、三つ編みにした髪を若草色の毛糸で留めている子、可愛いねえ。俺って、町では目立たなかったけど、ここじゃ結構もてそう!

あの子とは、村一番の美女、チャオ・ディである。彼女は盲目の母と2人で暮らす。

来た来た、あれが村の新しい先生? いいじゃん、若くて格好いいじゃん! 新しい服を着てきてよかった! 狙い通りよ。あれっ、この胸の高鳴りは何? えっ、えっ、これって、もしかしたら……、これが恋っていうの? 捕まえようと思っていた私が、先に捕まっちゃったわけ? きゃっ! 目が合っちゃった、どうしよう。じっと見つめているのは恥ずかしいし、でも、見たいし……。どうしてこんなに浮き浮きするのかしら? あ~あ、先生、もう行っちゃった。あれっ? なんだか駆けだしたい気分だわ。家まで走って帰ろうっと。

チャオ・ディは、枯れ草で黄色く染まった草原を抜ける道を走る。家に着くと勢いよく戸をあけ、戸口に佇んで、沸き立つ気持ちが溢れる瞳で家の中を見回した。見慣れた自分の家が、これまでとは見るまでとは全く違って、光り輝いていた。

(余談)
今年NHK BS2(だったと思う)で放映された「映画監督張藝謀(チャン・イーモウ)の世界」というドキュメンタリーに、チャオ・ディを演じた章子怡(チャン・ツィイー)が登場しました。彼女によると、この、家に入る場面は、なんと36回も撮り直したそうであります。私、映画というものはできあがったもので判断すべきものだとは思っておりますが、こうした苦労話を知ると、この場面が、この場面の章子怡の表情が、動きが、一際光って見えてくるのも事実でございます。

 こうして2人は出会った。こうしてディの恋が始まった。時に、ルオ20歳、ディ18歳。

これまで恋を知らなかったおぼこ娘の思いはひたすらである。彼女の目には、ルオしか見えない。言い換えれば、ゆとりも常識も消えてしまった。

(言い訳)
映画では、20歳、18歳が、彼らが結婚した年齢なのか、出会った年なのか明瞭ではありません。私に中国語の素養があれば分かったのかもしれませんが、字幕だけではどうしても判断できません。ここでは、総合的に判断して出会った時としておきます。

 新任教師を迎えて、村は新しく学校を建てることになった。校舎の梁には村で一番美しい娘が織る赤い布を巻くのがしきたりだ。その役目は、当然ディのものだ。この日から、布を織る仕事に力が入った。

水道がない村には井戸が2つあった。学校近くの表井戸と、集落の近くに新しく掘った裏井戸だ。みんなは裏井戸を使うが、ディはこの日から、わざわざ遠い表井戸に通い始める。

校舎建築は、先生と村人が総出であたる。昼食の用意は、女たちの仕事だ。1人前ずつ作って学校に持ち寄る。昼食時になると、村人たちが弁当が置かれた台まで取りに来る。だれがどの弁当を取るかは偶然でしかない。でも、自分の作ったものをルオに食べてもらえるかもしれない。初日、ディは自宅で一番いい丼に、葱のお焼きを入れた。以来、この丼は特別な丼になった。

女たちは建築現場に入ってはいけない。ルオは私のを食べてくれたかしら。気になる。でも遠くからでははっきり分からない。じれったい。
赤い布が織り上がった。やった! これをルオに手渡そう。そばに行ける。話す機会だってあるはずだ。抱きかかえて学校に運ぶ途中、赤い布に気がついた村人の1人が走り寄ってきた。もう、このおたんこなす! 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ!
そうか、聞いてやれ。ねえ、ルオがどの弁当を取ってるか知ってる?
翌日はルオがやってきそうな場所に弁当を置いた。今日こそ……。

校舎が完成すると、何と、毎日学校に行くのである。といっても、ディは生徒ではない。教室には入れないから、外で、校舎から漏れてくるルオの声を聞く。少しでも、声だけでもルオを感じていたい。

人間とは成長する動物である。最初はでもしか教師だったらしいルオだが、聖職に目ざめてしまった。遠くから通学する子供たちを、放課後、毎日送り届け始めたのだ。放課後、草原の中をうねうねと続く小道を、子供たちと一緒に歩く。

チャンス! 恋に狂う女、チャオ・ディはこいつに目を付けた。待ち伏せるのだ。ルオが子供たちと歩く時間を見計らって、小道から離れた丘の中腹の、黄葉した木々の陰で待ち受ける。ルオの姿が見えると、はっと立ち上がり、襟巻きを直して身だしなみを整える。きれいに三つ編みされた真っ黒な髪、三つ編みの先に巻かれた若草色の毛糸、花柄をあしらった桃色の服、紅い襟巻きのディが黄色く色づいた木々の葉を背景に立つ。恋する女の瞳がキラキラ輝く。こいつはもう一幅の絵だ。
が、ルオが近づくと、木の幹に姿を隠す。恋に恥じらう女性はいじらしい。

突然だが、恋愛には1.5mの法則がある。男女の仲が深まるかどうかは、1.5m以内の距離にいた時間に比例する。職場で1.5m以内の距離で机に向かう男女が、いつの間にかくっつく。あなたの周囲にも、似た例はたくさんあるはずだ。

この法則はかなりの確率で当てはまる。だからルオはまだ安全圏にいる。ディとの距離が1.5m以内に入ったことはないのだ。まだ、ディの一方的な片思いなのである。

ひょっとしたらディは、1.5m法則を知っていたのだろうか? それとも、恋に身を焦がす女は、本能的に1.5m法則を見出すのだろうか?
ディは、積極的にルオへの接近を試み始める。

ディは日々に大胆になる。子供と歩くルオを追いかけるように、木立に隠れながら歩く。送り終えてルオが戻ってくると、小道に出て跡をつける。
とうとう1.5mの壁を破る日が来た。子供と一緒のルオと、小道ですれ違うという冒険に出るのである。目を伏せながら、チラッチラッとルオの顔を見るディ。すぐそばまで来ると、視線があった。ルオが微笑みかける。やったー! 私に微笑んでくれた!
喜びで一杯のディは、持っていた籠を置きっぱなしにして歩き去った。

 「君!」

ルオの声だ。振り返ると、籠を手に持っている。近寄って籠を受け取った。黙って歩き去った。作戦成功! 籠はわざと置き忘れたのよ!

そうなのである。私、ルオは、このとき初めて彼女を意識した。それまでは村に着いたときに見かけた、赤い服がよく似合った子という程度の認識しかなかった。でも、いま、すぐ近くで見た。なかなかいいじゃないか。美人だ。うん、気になり始めた。でも、何という名前の子だろう? そうか、子供に聞いてやれ。ディさんだという。記憶しておかなくっちゃ。

 「先生が名前を聞いたよ!」

えっ、こら、余計なことを叫ぶなよ。まったく、子供っていうのは何をするかわからん。でも、聞こえたかなあ。うん、聞こえてたらいいなあ。

やはり、1.5mの法則は存在するのである。

でも、これってほとんどストーカーではないかい?
日本で2000年11月24日に施行されたストーカー規制法では、つきまとい・待ち伏せ・押しかけは、立派な犯罪行為だぜ。1年以下の懲役または100万円以下の罰金なんだよ。大丈夫なのかなあ。

恐らく、中国にはそんな法律はないのだろう。ディは気にしない。
村の学校の先生は、村内の家庭を回って食事をする。今日は待ちに待ったディの家が当番の日だ。まだ朝靄が漂う早朝に起き出したディは、腕によりをかけて朝食を作る。男をつなぎ止めるには、美味いものを作って食べさせること、という世の常識を、たぶん誰も教えないのに、ディは身につけている。女の一念、恐るべし。

朝。ディは入り口で待つ。来た! 左手で入り口に柱を掴み、少し顎を引き、上目遣いでルオを見つめるチャオ・ディの顔は、例えようもなく美しい。はじける笑みでも、こぼれる笑みでもなく、内側からわき上がってくる喜びを抑えきれない笑みとはこんなに素敵なものなのか。やがて体を半回転させると、ディは家の中に走り込んだ。そして、学校建築中に弁当を入れていたあの丼で、ご飯を出す。

ディ : これ、覚えてる? 青花の。
ルオ: いや。
ディ : 建築中ご飯は?
ルオ: 食べたよ。
母 : この娘ったら大変でね。見えなくても分かった。毎日手を替え品を替えて、美味しいものを、先生に食べてもらいたくて、青花の椀に盛って、私には箸も触らせず。
ルオ: ああ、思い出した。
ディ : 本当?
ルオ: うん、見覚えがあるよ。
ディ : 食べた?
ルオ:  うん。
ディ :  何食べた?
ルオ:  あー……
 ディ :  1日目は葱のお焼きで、次は栗ご飯と炒り卵、3日目はきのこ餃子
ルオ :  残念だな、きのこ餃子は大好物なのに。
 ディ :  午後作るわ。 
ルオ :  悪いよ。
 ディ :  平気よ。

ルオ君、あんたはアホか! 人間の知性って、会話の妙に表われるんだぜ! 女を喜ばせる嘘の1つもつけないとは!
だが、自分に向いたディの愛にはっきりと確信を持つ程度の脳みそはあったらしい。こうなれば、おべんちゃらの1つもいわねばなるまい。ルオの心も大いに動いているのだから。

ルオ:  赤が似合うね。最初の日も着てた。

かくして、ルオは完全にチャオ・ディの術中にはまった。こうして2人は相思相愛の仲となった。最後のダメ押しの場面も、1.5m法則の実在性を証明する。

確かに犯罪類似行為かもしれないけど、ま、なるようになったからいいじゃない。何が怖いの? とご不審のみなさん。これからなのです、怖い、の本番は。

時はプロレタリア文化大革命のさなかである。年端もいかぬ子供までもが紅い表紙の毛沢東語録を振りかざし、走資派、修正主義者らの「摘発」に走り回った動乱期である。ルオに右派の疑いがかかり、査問のため町に呼び戻されたのは、ディの家で朝食を食べた日だった。

午後、町に行くことを告げに来たルオは、冬休みまでには戻るといって、赤い色が混じった髪留めをくれた。ディはきのこ餃子だけは食べて行って、と懇願する。食べに来ると約束したルオだが果たすことができず、町から来た担当官と一緒に馬車で出発した。きのこ餃子ができあがったちょうどその時だった。

ルオの出発を知らされたディは、あの丼にきのこ餃子を詰めると、家を飛び出した。馬車を追いかける。道を走ったのでは追いつけないと見てとると、丘を横切る近道を駆け上り、必死に馬車を追う。が、追いつけない。それでも何とか追いつこうと駆けた。丼を胸に抱く不自然な姿勢で走っていたせいだろうか、ディは転んでしまう。きのこ餃子は飛び散り、丼は割れた。呆然とするディは、座り込み、声を挙げて泣き始めた。こぼれ落ちる涙を手の甲で拭きながら泣き続けた。泣き続けるディを抱きしめる山は、黄葉で真っ黄色に染まり、夕陽に照らされて輝いていた。晩秋だった。

ルオが戻ると約束した日は、雪だった。だがディは、町に続く道のそばに立つ。襟巻きを頭から巻き、目だけを外に出し、右手を左袖に、左手を右袖に入れて、じっと立つ。襟巻きも、前髪も、睫毛も真っ白くなった。でも、ディは立ち続ける。脚から寒気が這い上る。足踏みしながら、ディは立っている。

戻ってこなかった。日が暮れて自宅に戻ったディは、熱を出して倒れてしまう。吹雪の中で1日立ち続けた無理もある。が、より大きかったのは、約束した日にルオが戻らないことだったろう。
翌朝、やっと目覚めたディは布団から抜け出し、荷造りを始めた。訝る母に、

「町までルオを探しに行く」

と告げると、押しとどめる母を振り切り、ふらつく足で雪の降りしきる道を歩き始めるのだ。

どうです、怖いでしょう?
えっ、怖くない? 逆にいじらしいですって?
あなたは未熟です。恋に狂った女の恐ろしさをご存じありません。

ディの思いは熱い。そして、あまりにも純粋だ。彼女にはルオしか見えない。度を超した純粋さは、狂に似る。いや、狂そのものである。

雪の降る日、なぜ降りしきる雪の中に立ちつくさねばならないのか? ルオが戻れば、まず自分の家に来るとは考えられなかったか? まず学校に立ち寄るとは思いつかなかったか? 役場に帰還の報告に行くと判断できなかったか? 吹きさらしの路傍に立ちつくさずとも、温かい屋内で待ち受ける方策はいくらでもあったのである。
翌日も同じだ。熱でふらつく足で町までたどり着けると考えるのは、あまりにも無謀である。雪は相変わらず降りしきり、風も治まる様子がない日なのだ。どれほど心が急こうとも、まず体力の回復を図ること。そうしなければ途中で倒れて人様に迷惑をかける結末に至るのは火を見るよりも明らかである。いや、迷惑をかけるぐらいならまだしも、雪中に倒れて帰らぬ人になる恐れだって大きい。そうなれば、ルオに会うこと自体が叶わなくなるではないか。
これは、恋に狂ってまともな判断ができなくなっているというしかない。

自分の身を省みず、一途にルオへの思いに殉ずる。それがいじらしいじゃないか、とまだおっしゃるか?

よろしい。では思いを寄せられるルオの立場に身を置いてみようではないか。
そりゃあ、熱い瞳で見つめてくるのが章子怡演じるディであれば、天国に登るような喜びを感じるのは充分に理解できることである。ひたすら思いを寄せてくるのを、可憐だともいじらしいとも思える。
でも、である。追いかけてくるのが○○○○だったら、可憐だとかいじらしいとかいっていられるか?

(注)
○○○○には、頼まれても、懇願されても、絶対に一夜を共にしたくないと思っている女性の名前を入れてください。いや、奥様の名前でも何でもかまわないわけでありますが。

 悪夢である。東山三十六計逃げるにしかず、なのだ。
だが、こいつも難物だ。恋情が狂の段階まで至っている女というのは、その思いが叶わないとどのような行動に出るか、分かったものではない。世を捨てて尼僧にでもなってくれればまだ救われるが、睡眠薬を飲んでみたり、あることないことを書いた遺書を残してビルの屋上から飛んでみたり、悪くすると刃物をふりまわして恋しい男に迫ったりしかねない。
おいおい、俺が何をしたっていうんだ? なんていう理性的な言葉は、いっさい通じなのである。どうしたらいい?

(余談)
私も1度だけ、変な女につきまとわれて困り果てたことがありました。その気はない、妻子ある立場であると何度いっても追いかけてくるのであります。これは怖いですぞ!
何とか逃れきったあと、彼女は週刊誌に載りました。なんでも、彼女の迫力に負けたのか、あるいは勝手にその気になったのかは不明ですが、一夜を共にしたあとで彼女から離れようとした男が、自宅に電話は来るわ、会社には怒鳴り込まれるわ、とさんざんな目にあって、ついには左遷までされてしまったという、身も凍るような話でした。男は我が知人でした。
私は記事を読みながら、私には危険を事前に察知する能力があるのではないか、と胸をなで下ろしたものであります。

 「初恋のきた道」のディさん、どうもその段階に至っているのではないか。それが私の懸念なのである。
えっ、まだ納得できない? よろしい。みなさん、まだ章子怡の魅力にひれ伏していらっしゃるから、見えるはずのものが見えない。我が論旨は、この映画自体が充分に証明しているというのに。

年老いたディは、当然別の女優が演じている。したがって、観客は章子怡の魅力からやっと自由になる。正常に物が見えるようになる。
この人、ややおかしくはないか? 40年間、夫のルオの声を聞きに学校に通った、というのは、ギョッとするがまだおとなしい方である。なにこれ、と呆れてしまったのは、町で亡くなったルオの遺体を村に運ぶのに、トラクターを拒否し、どうしても人の足で運ぶことに執着する場面だった。このばあさん、決然と言い放つのである。

「40年以上も生徒を教えてきたんだ。(当時の生徒たちが)かつぐぐらい当然じゃあないか」

誰かの面倒を見て、後で恩をきせる人間を下種という。ましてや、ルオは職業として教壇に立ってきただけではないか。彼に学んだかつての生徒たちが、自主的にかつぎたいと言い出すのならいいが、ルオの、しかも妻にしかすぎなかった女がいうべき言葉ではないだろう。
このばあさん、まだ狂気から覚めていない。普通の判断ができない。

だが、しかし、なのである、お立ち会い。
章子怡って、素敵な女優ですな。女優に対してこんな褒め言葉を使うのは、久々のことであります。決してセクシーではないものの、ひたむきな目、引き込まれそうな笑顔、女になる直前の純真さ、どれをとっても、

「ああ、ルオになりたい!」

と思わせるに十分な魅力をたたえた女優さんであります。彼女とだったら、いくら怖い体験をしてもかまわないではありませんか!
映画監督張藝謀(チャン・イーモウ)の世界」に登場した彼女は、どこにでもいそうな綺麗な女の子としか見えませんでしたのに、この映画では、世界一の魅力をたたえた可憐な美女に見える。この役がよほどあっていたのでしょう。いまの日本では見向きもされないであろう、中国の、ド田舎のファッションも、彼女が纏うと、王侯貴族のイブニングドレス以上の輝きを発するのであります。

だからなんでしょうね。頭では、「ほんとうは怖い」話であるなどと考えながら、でも、この映画を見るたびにいつしか画面に引きずり込まれ、あまりに切ない章子怡の思いに、目頭が潤んできたりするのも事実なのであります。

素敵な、この上なく美しい女性を堪能させていただきました。
章子怡の魅力を、最大に引き出した張藝謀監督に、最大の感謝を贈らねばならないと思っている私でした。

【メモ】
初恋のきた道 (我的父親母親)
2000年12月公開、上映時間89分
監督:チャン・イーモウ 張藝謀
出演:チャン・ツィイー 章子怡 = チャオ・ディ(若き日の母)
チョン・ハオ = ルオ・チャンユー(若き日の父)
スン・ホンレイ = ルオ・ユーシェン(私)
チャオ・ユエリン = チャオ・ディ(老母)
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