2017
08.11

2017年8月11日 忘れ物3=完

らかす日誌

桐生祇園祭は3日間の宴である。6日、最終日を迎えた。

最終日ということは、祭のために神社からお出ましになった神様が、神社にお還りになる日である。神様の乗り物は御神輿。ということで、正午から「御神輿還御」の神事が開かれた。

 まあ、部外者の私の目には、前日催された神事と似たようなものである。参列者も(多分)同じなのだが、神主さんの衣装だけが違っているのがお分かりいただけると思う。
何故違うのか?
まさか、前日の衣装が汗びっしょりになって使えなかったから、というわけでもないだろうが、衣装を替えた理由を聞き忘れたので、これ以上の説明は不可能である。
ごめんなさい。

 御神輿還御の神事が終わると、神輿は御旅所を出て帰還の途につく。目的地は宮本町の美和神社である。
ご説明が遅くなったが、桐生祇園祭は八坂神社の祭りである。桐生の八坂神社はもと、本町三丁目にあった。ところが、何故か明治41年(1908年)、美和神社と合祀されることになり、場所が変わった。
ついでに書いておくと、桐生の美和神社は延暦十五年(796年)に官社になり、延喜式の神名帳に記載されている。いわば朝廷直轄の神社で、式内社という。朝廷にとってこの地は、北関東の戦略拠点だったのだろう。
地元の人はこれをたいそう自慢される。私には猫に小判程度の価値しかないが。歴史的には、領地を北に広げた当時の朝廷にとってこの地は、北関東の戦略拠点だったのだろう。

御旅所を出た神輿は、間もなく本町通を右に折れて美和神社の参道に入り、美和神社を目指す。
さすがに祭3日目の昼間ともなると、人出も少ない。
「あれだけ楽しんだんだから、もっと大勢で見送らんかい!」
と思ってしまうのは私だけか。
ん? 私は無宗教の旗を高々と掲げ続けてきたはずである。それなのにこの怒りは? 3日間祭とつきあって、無宗教の旗を降ろしたか?
いやいや、私にとって祭は祭。宗教とは何の関係もないエンターテインメントでしかない。その一線だけはきっちりと守り抜く。
ちなみに、この日は閑散としているが、毎年11月のえびす講(美和神社の隣にある桐生西宮神社の祭事)ではたくさんの露店が並び、人通りが絶えないのもこの参道である。

 神輿が美和神社に到着した。重い神輿を担ぎ続けた若衆の皆さん、お疲れ様でした。あとは美和神社の隣にある神輿蔵に神輿を収納するだけである。
このあと、若衆にはペットボトルのお茶が振る舞われた。給水は熱中症防止に欠かせない。いや、それよりも、炎天下の祭では、冷えた水は最大のごちそうだ。
皆さん、本当にうまそうにお茶を喉に流し込んでおられた。

 最後に、たくさんの若衆に担がれて祭を賑わした神輿をじっくりご覧いただこう。
この神輿が新調されたのは平成13年(2001年)。
「前の神輿の方がもう少し大きくて立派だった」
という声もあるが、なーに、これだってたいしたもの。屋根の漆塗りなどは立派なものだ。
「いくらぐらいかかったんですか?」
と聞いてみたが、
「内緒です」
とかわされた。
数百万円でできるのか、もう一つ上の桁までいかないと手に入らないものなのか。
まあ、個人で買うことは絶対にないから、値段が分かっても仕方がないけどな。

 

というわけで、3日間の桐生祇園祭は幕を閉じた。

昨夜、三丁目では「翁宴」が開かれた。いってみれば、3日間の祭に汗を流した人たちの打ち上げの飲み会である。何故か私もご招待を受け、1升瓶をぶら下げてはせ参じた。

「例年になく盛り上がった!」

皆さんは口々にそうおっしゃっていた。

祭全体の運営に責任を持つ町は毎年変わり、その町を「天王番」という。来年は、三丁目が「天王番」「天王町」である。
祭の興奮がまだ醒めやらぬまま、でも祭を無事に終えることができたという安堵感の中に、

「1年後は天王番。今年よりもっと大変だぞ」

という緊張感も入り交じる「翁宴」。
気楽に楽しんだのは、ビールと日本酒とマオタイをチャンポンして飲んだ私だけだったのかもしれない。