2017
08.11

#22 : シカゴ - 日本は人材不足(2005年2月10日)

シネマらかす

世界の歴史は、日本ほど豊かで平等な社会を持ったことがない。最近はやや崩れてきたが。

日本ほど素晴らしい色彩感覚を持った社会は、おそらくほかにない。Redという色を、日本人は、赤、紅色、紅、深紅・真紅、薄紅、退紅・褪紅、今様色、唐紅・韓紅、緋色、浅緋、深緋、猩々緋、蘇枋、薄蘇枋、茜色と見分けてきた。最近はとんと聞かなくなった、見なくなった色ばかりだが。

日本は、世界中で絶賛される優秀な工業製品を作り出す企業群を誇り、それを支える世界一の技術を持つ中小企業を持つ。ま、経済一流、政治は三流ともいわれるが。
これだけ……、

この辺にしておこう。
いずれにしても、齢を重ねるにつれて、日本は世界に冠たる素晴らしい国である、との感が強まってきた。
だが、泣き所がないわけではない。その一つが芸能界である。レベルが低い。嘆かざるをえない。
だから、テレビの歌謡番組は見ない。妻や子供が見ているのが、隣の部屋からドア越しに聞こえることがある。ドアを開けてテレビのスイッチをオフにしたいという衝動と戦うことになる。頼む、俺の耳を汚してくれるな!

(余談)
現実には、じっと我慢するしかない。家庭の平和を守るのは、この「我慢」というやつである。

 どう聞いても、素人芸以上には聞こえないゴスペル。
音楽の楽しさがちっとも伝わってこないロック。
聞いていてどこかしら不快になる音程のズレ。
幼稚園の音楽発表会か、といいたくなるグループ。

昨年のオリンピックは最悪だった。競技自体は素晴らしかった。しかし、放送が始まると、必ずテーマソングが流れる。この儀式を経ないと、見たい競技に行き着けない。私は思わず口走ってしまった。

「鶏が首を絞められているような声で、よく恥ずかしげもなく歌うもんだ!」

老人めくが、ひと昔前はましだった。私の趣味ではないので我が家にはCDもレコードもないが、演歌の世界には、うまいなあ、と感心してしまう歌い手さんがたくさんいた。ひどくなったのは、Jポップと呼ばれる音楽が幅をきかし始めてからであると感じている。

いや、ことは映画やドラマの世界も似たようなものである。
演技力とは何なのか。表現力を磨くにはどうすればいいのか。シナリオはどう書けばいいのか。
ちょっと待てよ、といいたくなるドラマを、やたらと目をむき出すしか脳がない俳優や、どんなに真面目くさってみてもぼけ役にしか見えない俳優が、演じる。
救いは、中年過ぎの俳優さんに、ほれぼれするような演技を魅せる方々が残っていらっしゃることだ。だが、観客を集める力を持っているのは彼らではない。のどから手が出るほど視聴率がほしい民放だけでなく、最近は我らが国営放送まで、演技力よりファンの数でタレントを使い始めた。
かくして、悪貨が良貨を駆逐する。ああ!

どこかがおかしい。何かが間違っている。
芸能人の採用システムかもしれない。いったいどうやれば、あれほど歌えない歌手、演技のできない俳優を発掘できるのか?
渋谷を歩いていたらスカウトされて、テレビに出たら人気が出て、歌を歌ってみないかと勧められて歌手になってみて、ドラマもやりたいからってマルチタレントになって。
そんなもんか?
隣に住む兄ちゃん、姉ちゃんが、ほとんど何の訓練も経ずして人気者になる。そうとしか思えない例が多すぎる。

だが、どんな素材をタレントとして売り出すかは、事務所の経営戦略である。経営である以上、売れないタレントに資金を投ずるわけはない。いまの日本で、これなら売れるはずという素材を鵜の目鷹の目で発掘しているはずだ。その中で生き残った素材が表舞台に登場する。私を嘆かせるために
とすれば、もっとも問題なのは、ファンと呼ばれる人たちということになる。
嘘! これって、玄人が歌ってるの?! といいたくなるCDがベストセラーになる。歌だけではない。彼らがテレビで見せる、一般的にはダンスと呼ばれるらしきものもひどいできである。そして彼らがドラマの世界にまで進出する。彼らが出ないと、視聴率がとれないのだそうだ。ああ!

思い起こしてみれば、このようなファンが増えてきたのは、いまの40歳代ぐらいの方々がティーンズだったころからだろうか。そう、韓国のタレントを空港までお出迎えに行き、どこへ行こうと追い回し、

「目が合っちゃった! もう死んでもいい!」

などとテレビカメラに向かって叫んでいるおばさまたちの世代である。死んでいただくのは勝手だが、あなた方は、日本の芸能界にとっては悪貨製造機である。自らが果たしている役割にはもう少し自覚的であっていただきたい。

かくして、ゼニのとれる芸能人が減少の一途をたどる。

(余談)
ある日の、私と同僚H氏の会話。
「いやあ、大道君、ヨンさまって凄いね。ほんと、中年の女が群がってるもんね」
「なにそれ、羨ましいの?」
「いやあ、そういう訳じゃないけどさ」
「じゃあ、君の奥さんが追っかけの1人だったりして」
「いや、うちは無事だよ。でも、韓国ではあまり人気が高くないんだって?」
「そりゃあそうさ。それは名前だけで分かる」
「どうして?」
「だってヨン様だろ? 一流、二流、三流と来て、その次がヨンじゃあないか。三流にもなれないってことさ」
「あ、面白い。これ、面白い。あんたがいったジョークの中で最高に面白い!」
そんなに面白いか?
2人は酔って夜の繁華街を歩いていた。たぶん、そのための判断ミスであろう。

 「シカゴ」を見て、私の嘆きはますます強くなった。

1920年代のシカゴ。かつてバックダンサーだったことがあるロキシー・ハートは、ショービジネスに見切りをつけて手近な男と結婚したが、いまだにスターになる夢を捨てきれない。その日、ロキシーは愛人と一緒にキャバレーに出かけ、憧れの専属ダンサー、ヴェルマ・ケリーの舞台に見入っていた。こいつと懇ろになったのは、このキャバレーの支配人に紹介してやるといわれたからだ。
舞台に視線が釘付けになったロキシーと、その視線などものともせずに、いや目にもとめずに歌い踊るヴェルマ。この2人の運命がこの日を境に激変することに、2人ともまだ気がついていない。

その日ヴェルマは、舞台でペアを組んでいた妹と、この妹とできてしまった自分の亭主を射殺してキャバレーに出勤していた。舞台がはねると逮捕される。
一方のロキシーも1ヶ月後、愛人を射殺して逮捕される。キャバレーの支配人に紹介するというのは、ロキシーの体を狙った男の真っ赤な嘘だったと知って、怒りのあまりの殺しだった。
こうして2人は、殺人犯として刑務所で出会った。

刑務所でも先輩となったヴェルマは、負け知らずという辣腕の悪徳弁護士、ビリー・フリンを雇った。ビリーは罪を免れる工作をするだけでなく、マスコミを通じて夫と妹に裏切られた悲劇のヒロインのイメージを広めた。おかげでヴェルマは、身は獄中にありながら世間ではヒロインとして、これまでなかった人気を博していた。無事出所すれば出演料は跳ね上がる、はずである。
ロキシーはこれをまね、やはりビリーを雇う。やがて世間の人気はヴェルマをしのぐようになった。そして計画通り、ビリーの悪知恵でロキシーは無罪判決を手に入れた。思惑通りである。

ところが。判決が出た直後、法廷の外で妻が夫と弁護士を射殺する殺人事件が発生する。マスコミは浮気だ。あれほどロキシーを持ち上げ続けてきたのに、カメラマンたちは無罪になったロキシーを放ったらかしにし、新しい事件現場に駆けつけた。世間の関心はロキシーを離れ、新しい事件に移ったのである。

獄中で手にした世間の人気を梃子にショービジネスの頂点を目指そうとの計画は、こうして挫折した。ヴェルマも起訴取消処分を手にして出獄したが、事情はロキシーと同じ。世間の関心は2人の上に瞬時とどまった後、よそにいってしまったのだ。
出所したら一躍スターに、という2人の計画は見事に挫折した。だが、転んでもただで起きる2人ではない。ヴェルマは考えた。人殺し女が1人だからいけないのよ。人殺し女2人のチームを作ったら……。
こうして、なんと2人はキャバレーではなく、客席がぎっしり埋まったシカゴ劇場で、華やかなショーを演じることになった。

「広い世界でも前代未聞のショー」
 「1人ではなく2人組」
 「新聞を賑わせたあの記事の主人公」
 「人を殺めたという華麗な過去を持つ2人」
 「ロキシー・ハートとヴェルマ・ケリー」

2人の野望は、こうして実現したのだった……。

と粗筋を書いてしまうと、まあ、荒唐無稽な物語である。だが、これが2時間近い時間を忘れてしまうほど面白い。

元々はブロードウェイで大好評を博したコメディタッチのミュージカルである。映画は、華麗なミュージカルの舞台を再現しながら、舞台では絶対に不可能な、映画ならではの工夫を凝らした。ドラマと舞台を交錯させたのである。フラッシュバックの応用なのだろうか。こいつがなかなか良くできている。

ロキシーの亭主、エイモスは、女房に浮気をされるような存在感の薄い男である。獄中のロキシーが身ごもっていることを知って大喜びするのだが、弁護士ビリーの事務所で、自分が父親ではあり得ないことを宣言される。ロキシーが身ごもったというころ、彼は妻といたしていなかったのである。気落ちして、帰宅すべく帽子をつかむのだが、次の瞬間、彼は舞台に立っており、帽子をかぶりながら“Mr. cellophane”(セロファン男、まあ、透き通っちゃうような存在感のない男、ということでしょう)という曲を歌っている。

女囚カタリン・ハレンスキーが絞首刑になるシーンでは、現実と舞台でのショーが交錯する。現実の彼女は絞首台に登り、首にロープを巻かれる。舞台の彼女はきらびやかに着飾り、瞬間蒸発芸を見せるべく、高所に設けられた台に上ってロープを腰に巻く。現実の彼女が1歩進むと舞台の彼女も1歩進む。舞台の彼女が台から跳ぶと、現実の彼女の足下がポッカリ割れ、舞台の彼女は大喝采を受けるが、現実の彼女はロープにぶら下がる。

ロキシーが無罪を勝ち取る法廷のシーンも、舞台とドラマが交互に進行する。裁判なんて、舞台で演じられているミュージカルみたいなもの、単なる見せ物、演出次第でどうにでもなる物、とでもいわんばかりだ。そしてその通り、ロキシーは無罪を勝ち取る。
ドラマとミュージカルが見事に合体させたこの見せ方には、思わずうなってしまった。お見事というしかない。

毒は笑いの隠し味である。私をうならせた手法に加えて、舌がピリピリしびれるような毒にも事欠かない。

法廷のシーンをミュージカル仕立てにしたのは、米国で日常的に繰り広げられている裁判へのブラック・ユーモアに違いない。
浮気相手を殺す意志をもって引き金を引いたロキシーが無罪になり、自分の亭主と妹を殺したヴェルマは司法取引で起訴が取り消される。そんなことってありか? の世界も、司法の世界に向けた、あんた方の世界では、そんなことって日常茶飯事じゃあないか、だから弁護士さんって高収入なんでしょ、という揶揄なのに違いない。

腕利きの悪徳弁護士ビリーの

「キリストがシカゴにいて5000ドル用意できていたら、死刑にはなっていなかった」

つまり、私ならキリストを無罪にできる、という神をも恐れぬつぶやきも、地獄の沙汰も金次第、が日々行われている司法の世界、いや浮き世全体への痛烈な皮肉である。

もとはミュージカルでありながら、この作品は映画でありながら、ショービジネス界のえげつなさ、つまり自分たちのえげつなさも笑い飛ばしてしまう。
キャバレーのマネージャーに紹介するといわれただけで男と寝てしまうのはまだまだ序の口。大衆の関心が自分から去りかけると、婦人科医に一発やらせてあげて、見返りに妊娠中の診断書を書かせ、偽装妊娠するなんて朝飯前。
スキャンダルなんて単なる芸の肥やしにすぎない。嘘なんて可愛いものである。何をしようと人の注目を引き、同情をかえば目的に近づける。とするなら一番人目を引くのは人を殺すことでしょ? せっかく殺しちゃったんだから、この経歴を使わないのはアホ以外の何者でもないでしょ、という具合にお話は展開する。そして、大成功をおさめそうになる。

ところが、成功の寸前で、あっという間に見向きもしなくなる大衆。そう、大衆というやつは移り気で、常に新しい、より強い刺激を求めるものなのである。こいつはもう、いまの大衆社会と芸能界への、あんたら、くだらないんじゃねえの、という正面切っての異議申し立てではないか。

(余談)
日本でのスキャンダルは、せいぜいのところくっついた、離れた、というところ。芸能人の誰が誰と寝ようとどうでもいいことだと思うが、日本の芸能ジャーナリズムは、張り込みをしてまであいつとあいつがやった、と暴き立てることに血道を上げる。芸能人とはセックスショーを見せる人たちではないと思うのだが。

 芸能人への究極の皮肉は、ヴェルマの一言である。無事出獄したものの、浮気な大衆に忘れ去られて職にあぶれた2人が出会い、ヴェルマが2人で組もうと持ちかけるシーンだ。
人殺し女が1人なら珍しくない。でも2人なら? と口説くヴェルマに、ロキシーはうまくいきっこないわ、と見向きもしない。何故? ロキシーの答えはこうだ。

“’Cos I hate you.”

そいつに返すヴェルマの一言が秀逸なのだ。

“There’s only one business in the world with us that’s no problem at all.”
(私たちの仕事って、そんなこと関係ないでしょ)

(お断り)
この台詞、何とか英語のまま書きたいと思い、何度も繰り返して聞き取りを行いましたが、一部聞き取れないところがありました。したがって、上に書いた英語の台詞は一部間違っているかもしれません。ごめんなさい。正しい台詞をご存じの方がいらっしゃったらお教えいただけると幸いです。

 そう、芸能界で生きるということは、そういうことなのである。舞台で、スクリーンで、テレビの画面で見せるのは、所詮虚構にすぎない。実生活がどうあろうと、重要なのは大衆に与える幻影なのである。

ふんだんな毒と笑いも素晴らしいが、この映画の最大の魅力は歌と踊りである。なかでも、ヴェルマを演じたキャサリン・ゼタ=ジョーンズは素晴らしい。
美人である。きらきら光る、挑みかかるような目。吸い込まれそうな妖しさだ。そして、綺麗でバランスのとれたセクシーな体。が、それだけならいくらでも代わりがいるだろう。彼女、歌手でもないのに歌がうまい。これだけでも充分に飯が食えそうだ。日本で歌手として活動したら、レコード大賞の歌唱賞は、毎年彼女のものであろう。
彼女の踊りの素晴らしさを表現する言葉を持ち合わせていないのが残念である。体の動きのダイナミックさ、しなやかさ、切れの良さ、決めたポーズの姿形の良さ、指先の動きまで計算された緻密さ、まっすぐ伸びたまま高く蹴り上げられる足……。どれをとっても素晴らしいというほかない。もとはロンドンでミュージカルの主役を務めていたという経歴も、さもありなんと頷くばかりである。

(余談)
では、彼女がテーブルを挟んで私とコーヒーを飲んでおり、あの顔で、あの目で私に嫣然と微笑みかけてきたらどうするか?
「すくんじゃって動けないんじゃないかな。だって彼女、俺の手に負えそうにないもん」
そう私が話したら、一緒に酒を飲んでいた友が言った。
「俺なんか、ちびりそうだよ。お前の気持ち、よくわかる」
情けない中年オヤジの実感であります。

 彼女に比べればやや劣るが、ロキシー役のレニー・ゼルウィガー、ビリー役のリチャード・ギアの歌と踊りも充分に見応えがある。ゼルウィガーは独特のハスキーボイスが魅力的だし、ギアは玄人はだしの隠し芸を見せられているような驚きがある。
この3人を支える脇役たちの歌と踊りも、米国のショービジネスの層の厚さを見せつける。

だから、なのだ、日本の芸能界に危機を感じるのは。

日本にも、プロの歌手といわれる人たちがいる。プロの俳優と呼ばれる人たちがいる。で、この映画をそっくりそのまま日本で作るとしたら、誰にロキシーをやらせて、誰にヴェルマの役を振って、誰にビリーを演じさせる? 勝手に様々なタレントを割り振ってみるのだが、歌といい、踊りといい、全く思いつかないのである。
欧米のジョービジネスの世界は、この上なく厳しい世界であると聞く。1人のスターが誕生する裏には、夢破れて社会の底辺に沈んでいく数百、数千のスターの卵たちがいるそうだ。だから、トップに上り詰めたスターたちは、素晴らしい技量の持ち主なのである。
日本の芸能界は、2軍どころか、控え選手も持っていないプロ野球のチームのようなものではないか。なんとも層が薄いのである。

日本の芸能界、人材不足だ。
男あさり、女あさりはどんどんやってよろしい。そんなことに目くじらは立てない。
離婚、再婚を繰り返すのもかまわない。父の分からない子供を産むのも勝手だし、認知した子供が100人を超えようと、問題ではない。
ゴルフもギャンブルも酒も、気が済むまで楽しめばよい。醜態もいくらでもさらしてくれ。

ただし、本当にゼニのとれるタレントであるのなら。
大人から賞賛される芸を持ち合わせるのなら。
世界に評価される見せ物ができるのなら。

現状は、あまりにも人材不足である。
かくして私の手は、アチャラものの映画、アチャラものの音楽に伸びるのである。

【メモ】
シカゴ (CHICAGO)
2003年4月公開、上映時間113分
監督:ロブ・マーシャル Rob Marshall
出演:レニー・ゼルウィガー Renee Zellweger = ロキシー・ハート
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ Catherine Zeta-Jones = ヴェルマ・ケリー
リチャード・ギア Richard Gere = ビリー・フリン
クイーン・ラティファ Queen Latifah = ママ・モートン
ジョン・C・ライリー John C. Reilly = エイモス・ハート
アイキャッチ画像の版権はミラマックスのものです。お借りしました。