2017
08.28

#62:皇帝のいない八月-底なしの穴(2006年6月17日)

シネマらかす

今回は、初めての試みに挑む。
これまで「シネマらかすは」、見て面白かった映画、楽しかった映画、うなってしまった映画、涙した映画、考えさせられた映画、一言で言えば、あなたにも是非見て頂きたい映画を取り上げてきた。いくつかあった苦言は、まあ、おまけである。
でなければ、書く私にとっても、読んでいただいているあなたにとっても、時間の無駄である。

しかし今回は、あきれてしまった映画を取り上げる。時を追ってダメさ加減を加えてきた日本映画を確認する作業として、時間の無駄をあえて引き受ける。日本映画よ、どこへ行ってしまったんだ? 年々充実する韓国映画、中国映画に比べて、この惨状は何なのだ? ふんどしを締め直せよ!
という愛国精神の発露である。
読者の皆様に膝を屈してお願い申し上げる。今回に限っては、時間の無駄にお付き合い頂きたい。

(余談)
ま、このサイトをお読みいただいていること自体が、壮大な時間の無駄かもしれませんが、その点はとりあえず無視して話を進めます。

 存在しなかった歴史を、あたかもあったかのごとく構成し、スクリーン上に映し出す。映画の醍醐味の1つである。だが、映し出された虚構の歴史で観客を包み込めない映画は、無惨な結果となる。

皇帝のいない八月」は、自衛隊のクーデタという、日本の歴史にはまだ存在していない虚構を描いた作品だ。監督は、「白い巨塔」「華麗なる一族」「金環食」など、数々の社会派ドラマを手がけてきた山本薩夫。吉永小百合から佐分利信、三國廉太郎、太地喜和子、渥美清、それに現在は政治家であらせられる森田健作まで揃えた出演者も豪華絢爛というほかない。大作である。

私は硬派である。日本という国を愛おしく思う者である。我が国の行く末に心を痛める者である。なよなよとした恋愛ものより、社会の暗部を、深いところで歴史の駒を進める力学をえぐり出すような作品を好むものである。
であるから、巨匠といわれる山本監督が、どのような「存在しなかった歴史」を語り、何を訴えようとするのか。いやが上にも期待は高まった。

見た。高まっていた期待が冒頭からへこんだ

「なんじゃ、こりゃ?」

ご覧になっていない方のために、慣例に従ってざっと粗筋をご紹介する。

1970年代と思しきある年の8月14日、自衛隊員と元自衛隊員による大規模なクーデタ計画が動き始める。黒幕は首相を引退した後も隠然たる影響力を保持する大畑剛造で、バックには右翼の大物、財界の大物がつく。米CIAも絡んでいる様子である。実行部隊は、防衛庁を国防省に昇格させ、自衛隊を明確な軍隊にして軍国主義を復活させようという若手将校たちだ。
計画を知った政府は、内閣調査室を中心に対策を打ち、入手した実行計画書「皇帝のいない八月」をもとに、クーデタ鎮圧に動き出す。ほとんどのクーデタ部隊は決起前に鎮圧されるが、寝台特急さくらをハイジャックした藤崎顕正が率いる部隊は生き残り、一路東京を目指した。列車の車両には爆弾が仕掛けられ、藤崎は起爆装置を握って離さない。さくらには、乗客360人、乗員5人が乗っている……。

てな話である。

まずへこんだ冒頭とは。

岩手県の国道4号線。巡邏中のパトカーに県警本部から無線連絡が入る。車の接触事故が起きたので、近くにいるパトカー全車は現場に向かえとの指令だ。

(つぶやき)
おいおい、たかが接触事故である。数十台が巻き込まれた玉突き事故でもなく、複数の死者が出た恐れがある大事故でもない。なのに、近くにいるすべてのパトカーが現場に急行する? 我が愛車がお釈迦になった大事故(「事件らかす #3 交通事故に遭う」を参照してください)でも、やってきたのはたった2人のお巡りさんだぞ。岩手県警って、そんなに暇なのか? 交通事故がそんなに珍しいのか? 日本全体を震撼させるような政治ドラマがこれから始まろうというのに、この杜撰な作りはないんじゃないかい?

 指令を聞いて事故現場に向かい始めたパトカーの正面に、突然トラックが登場する。なんと、車は左、の大英帝国風交通ルールのもとにある日本の国道を、猛烈なスピードで右側走行しているのだ。急ハンドルで衝突を避けたパトカーはUターンすると、このけしからんトラックを追跡し始める。

(つぶやき)
まもなく、このトラックがクーデタ部隊の一味であることが分かるのだが、おいおい、これからクーデタを起こそうという連中が、何でわざわざ右側走行して目立たなきゃいかん? 大事を起こす前は、交通法規に則って左側を、制限速度を守って走り、目立たないよう、パトカーなんかに止められないようにするのが常識ではないか? そんな常識もわきまえずに、クーデタを起こそうってか? 舐めんじゃないよ!

 トラックの幌からニューっと機関銃が突き出され、パトカーに向かって発砲する。哀れ、我らがお巡りさんは殉職され、パトカーはガードレールを突き破って崖下に転落、爆発炎上してしまう。これがクーデタ計画発覚の原因である。

(つぶやき)
ここまで来ると、あきれてものも言えない。ね、だから言わんことじゃないのである。クーデタなんてものは、決起の寸前まで秘密を保たなければ成功はおぼつかないものだ。それが、反対車線を、猛スピードで走ったが故にパトカーに追跡され、ついには機関銃まで持ち出して銃撃する。当然パトカーには弾痕が残り、調べれば、スーパーでも百貨店でも売っていない機関銃が使われたことは当局の知るところとなる。これって、わざわざクーデタ計画を事前に広く宣伝する行動じゃない? 本気かよ?
それに、銃撃を受けた後のパトカーの動きも、とっても変だ。ハンドルを持っていた警察官はハンドルに被さるようにして絶命する。パトカーはしばらく直進するが、直進しているにもかかわらずタイヤがキキキーッと泣く。不思議な車である。で、パトカーは突然左折し、ガードレールを突き破って崖下に転落するのだ。ん? 誰がハンドルを左に切ったのかな……?
かてて加えて、だ。パトカーは崖下に転落したと書いたが、その崖、どう見ても4~5m程度しかない。たった4~5mの落差しかないところに落ちた衝撃で直ちに爆発炎上する車って、正面衝突なんかしたら確実に燃えるわけでしょ? 欠陥車だ! 危なくって乗っていられないじゃない!
このパトカー、クラウンだと思うけど、トヨタ自動車はこのシーンに抗議しなかったのかな?

 いかがであろう。ここまで、まだ始まって2分足らずである。これほどの手抜き工事を、こんなに短時間の間にこれでもかこれでもかと見せつけられると、観客は白けざるをえない。とにかく、作りが雑なのである。

こうした雑な作りで、様々な社会的問題が語られる。

 金で記事を売る業界紙記者、
 派閥力学で動く政治、
 自分の妻が「足が不自由でおとなしいだけの女だよ」と表現される結婚、
 政治・財界・右翼の癒着関係、
 政界の黒幕、大畑の情婦に金を渡して情報を買おうとする一流新聞政治部長、
 政府のコンピュータで管理される危険人物情報、
 不確かな情報で強行される逮捕劇、
 再軍備問題、
 憲法改正問題、
 政治家の暗殺、
 クーデタ部隊に乗っ取られた列車を武力鎮圧した場合の乗客の損傷率を10%とはじいて強行される鎮圧作戦、
 政府による報道管制に易々と乗るメディア……。

どれをとっても、国論を2分するような大問題がてんこ盛りだ。その大問題が雑な作りでたいした分析もなく次々と列挙されて滑っていく。すると、「山本圭演じる石森」の恋人だった「吉永小百合演じる藤崎杏子」を強姦しちゃった「渡瀬恒彦演じる藤崎顕正」の3人の愛憎劇を彩る背景、舞台装置にしか見えなくなる。そうか、強姦1つするにも、人はこれほどの問題に取り囲まれなければならないのか、と妙に感心したくもなる。
それでいいのか?

いや、個々の問題点をあげつらっていたのでは、どこまで行ってもこの原稿は終わりそうにない。仕方ない。おおかたには目をつぶることにしよう。
それでも、これだけははずせない点がある。
この映画をこの映画たらしめているクーデタが、実に空虚なのである。

国を憂う若者はいつの時代にも存在する。

明治維新は、一面では、東洋に帝国主義の牙をのばしてきた欧米列強の動きに危機感を募らせた若い下級武士たちが、江戸幕府ではこの難局に対処できない、国が危ないと立ち上がった政治行動の成果だ。
愚挙とされる5・15事件、2・26事件は、娘を女郎に売らねば食いつなげないほど疲弊した農村の暮らしが背景にあった。青年将校たちは、その原因を一部政治家と財界との癒着にあると見て、武力をもってこのただれた関係に終結を迫ろうとした。
1960年と1970年に学園や街頭を埋め尽くした反安保の人の波は、日本は、世界の一方の覇権国家である米国の極東軍事戦略に組み込まれて軍事国家への道を歩もうとしているのではないか? 第3世界に対して抑圧者として臨もうとしているのではないか? いつかきた道を辿ろうとしているのではないか? という危機感のほとばしりだった。

むろん、若者たちの思いこみは、時として間違う。いや、間違うことが多い。だが、右翼であれ左翼であれ、若者たちが思いこんで過激な行動に打って出るには、思いこんでも仕方がない社会背景があるのである。

では、「皇帝のいない八月」の青年将校たちは、何故にクーデタに立ち上がろうとしたのか? 藤崎の言葉を拾ってみる。

「我々は5年待った。もう待てん。我々の愛する美しい歴史と伝統の国、日本を骨抜きにした憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。我々は武人の魂を持つ一個の男子として、真の武士として蘇るのだ。ともに立って義のために死ぬ奴はいないのか!」

「我々日本人は古来から道義、忠誠心篤く、一億一体となって皇室を中心とした民族国家を形成してきた。しかるにいま、どこに愛国心があるか、どこに日本固有の文化があるか。道義は綿のごとく乱れ、秩序は破壊されようとしている。国体を守るのは軍隊である。自衛隊が目覚めて真の軍隊たらんとするときこそ、日本が目覚めるときである。建国の本義とは、天皇を中心とする日本の歴史、文化、伝統を守ることにしか存在しないのである。我々は耐えた。ただひたすら耐えた。日本人自ら、自衛隊員自らが目覚めてくれる時を。しかし、聞け! 憲法改正は既に政治的プログラムから除外されたのだ。憲法改正が我が国の議会制民主主義の元で不可能であるのならば、我々の取りうる道は1つ。我々自身が決起することである。自衛隊が健軍の本義に立って真の国軍となるために、我々は怒り、悲しみ、(一部聞き取れず)、我々は命を捨てて国の礎石たらんとしたのである」

自衛隊の数千人の兵士が、クーデタに立ち上がった動機は、たったこれだけなのである。

(余談)
こんな軍人さんたち、三島由紀夫が自衛隊のクーデターを煽って割腹自殺したとき、どこにいたんだろう?

 そりゃあ私だって、いまの社会に腹が立つことは多い。
やむなく原宿を歩いていて、何が楽しいのかぞろぞろと歩いている若い連中に思わず目をつぶりたくなり、我らが世代は、こんなガキどもを製造するために働いてきたのか、と絶望したくなる、なんてのは序の口である。

企業は株主のものである、なんてゴタクを並べてマネーゲームにうつつを抜かす奴らを見るたびに、おいおい、もう少しコーポレートガバナンスの神髄を考えたらどうだ? すべてを市場原理に委ねていては世の中全体がうまくいかないから様々な工夫を重ねてよりよい社会を作ろうとしてきた近代の歴史を否定するつもりかね? と苦言の1つも呈したくなる。

だが、今のところ武装蜂起をする気はない。それだけの根性がないことがもっとも大きな原因である。が、いまの社会の病理は、そんなことで解決するような生やさしい問題ではないとも考えるからだ。

「皇帝のいない八月」は立ち上がった。収奪に疲弊した農村はどこにもないのに立ち上がった。立ちゆかなくなった一家の暮らしを支えるため、苦界に身を沈める乙女は存在しないのに立ち上がった。帝国主義的な侵略の魔手を日本に伸ばそうとしている外国の脅威も登場しないのに立ち上がった。日本が侵略国家になって歴史に汚点を残そうとしているとう兆候も見えないのに立ち上がった。
薄っぺらな思考というほかない。もっと骨太の、現実に太い根を下ろしたスローガンでない限り、多くの人を動かす力は持たないのではないか?

「皇帝のいない八月」計画書に従って決起した自衛隊員は、いったい、何のために命をかけて立ち上がったんだ?

それにさあ、365人の列車乗客、乗務員を人質にとっての決起って、高邁な理想らしきものを説く割には、手段として薄汚いではないか。我が身を死の淵に置いての決起だからこそ、大衆の同情、支持を期待することもできる。それが政治である。一般の人々を人質にとっての決起なんて、大衆の理解を得られるはずがないのである。

そして。
皇室中心の民族国家だって?
さて日本の歴史で、天皇家が政治的、軍事的実権を握って君臨した期間はどれほどあったろうか? 君臨はしていた。だが、実権を持っていたのは蘇我氏であったり、藤原氏であったり、鎌倉幕府や江戸幕府であったりという時間の方がはるかに長いではないか。そうした期間を通じて、天皇家は宗教の教祖にも似た存在として心のよりどころになってきたのではなかったか?
近代になって天皇家が歴史の表面に浮かび上がったのは、革命のシンボルとしてであった。「尊皇」は幕末にあって、体制の転換を図る革命のスローガンだったのだ。幕藩体制の元で複雑な身分制度に縛られてきた人たちが、天皇の元ではすべての民が平等であるという一君万民思想を手にしたからこそ、下級武士による革命が成功した。当時、天皇は革命の象徴だったのである。
政権の奪取には成功した。次の課題は世界の列強に押しつぶされない近代国家の建設である。幕藩体制から抜け出して近代国家の入り口に立った明治の元勲たちが、効率的に国を作る手段としたのが、皇室中心の民族国家というイデオロギーだった。

愛国心? これも明治以降に作り上げられた政治的イデオロギーにすぎない。江戸時代、藩はあっても国はあったのか? 江戸時代まで、自分は日本人であると意識する民が、果たしてどれほどいたか?
支配階級だった武士にしたところで、江戸時代になって戦乱が収まって初めて、忠義という新しい思想を注ぎ込まれたに過ぎない。それまでは、主君と家来の間柄は、単なる契約関係にすぎなかった。家来は、自分の利益になる主君を選んだのである。裏切りは日常茶飯事であった。加藤清正や福島忠則が豊臣家を見限って徳川家の傘下に入ったから、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利を収め、天下人になったのだ。
君たち、勉強が足りないのではないかね?

勉強が足りないから、あるいは純粋であるかも知れない青年将校たちの決死の行動が、薄汚い政治家に利用される羽目になる。藤崎は、官房長官の問いかけに答えていう。

官房長官 : 君たちの、君たちの要求は何だ?
藤崎 : 衆議院議員、大畑剛造氏を出しほしい。
官房長官 : 我々も大畑を捜しているところだ。
藤崎 : 既に逮捕したのではないのか?
官房長官 : 大畑はいち早く情報をつかんで姿を消した。
藤崎 : 繰り返す。大畑先生を出せ。30分以内に先生を出さない場合は、まず乗務員を射殺する。
官房長官 : 君、待ちたまえ。我々は君たちの要求を-
藤崎 : これ以後30分ごとに1人ずつ、今度は乗客を射殺する。
官房長官 : 藤崎、藤崎君、待ってくれ! 藤崎!
江見 :  藤崎、私だ、分かるか?
 藤崎 :  お久しぶりでございます。
 江見 :  杏子は君を信用しきっているんだ。娘のためにも、頼む! 投降してくれ。君は私の部下でもっとも優秀な軍人であった。
 藤崎 :  お叱りのお言葉、もう聞きたくありません。私は死を覚悟しております。
 江見 :  死ぬな! 大畑は本当にいないんだ。要求があれば私に言ってくれ。よし、責任を持って要求は私が受け入れる。言いたまえ。
 藤崎 :  要求を言う。大畑先生を首班とする内閣を作れ!

これがクーデタ軍の要求なのである。 まったくもう。だからいわんことではないのだ。それともあれかい? 純粋な青年を悪用する大人の汚れ具合を描こうとでもしたのかい?

そしてそのころ、大畑は葉山の別荘に愛人を呼び寄せ、ワインを飲みながらよろしくいたしておるのである。元々が、財界&右翼と癒着した政治家にすぎない。死を決して、薄汚い政治家を担ぎ上げるクーデターって……。

これって、漫画じゃない? この映画を作った人たちは、政治家の薄汚さを抉るつもりだったのだろう。だが、大畑の薄汚さを見抜けないままに死を賭して決起した青年将校って、単なるバカにすぎないではないか。
ま、バカに武器を持たせることの恐ろしさを描いた映画というのかも知れないが……。
これでは政財界の薄汚さを撃つことは、絶対にできないのである。

いやはや、2時間20分にも及ぶ長い映画である。なのに、見終わって感じるのは、日本映画の、それも社会派といわれる映画の落ち込んだ底なしの穴の1つでしかない。

心から残念に思う。

【メモ】
皇帝のいない八月
1978年9月公開、上映時間140分
監督:山本薩夫
出演:渡瀬恒彦=藤崎顕正
山本圭=石森宏明
吉永小百合=藤崎杏子
滝沢修=佐林首相
佐分利信=大畑剛造
小沢栄太郎=小山内建設大臣
永井智雄=山村防衛大臣
渥美國泰=黒須官房長官
高橋悦史=利倉保人
三國連太郎=江見為一郎
丹波哲郎=三神陸将
鈴木瑞穂=真野陸将
岡田英次=徳永陸将補
山崎努=東上正
永島敏行=矢島一曹
橋本功=島三曹
神山繁=正垣慎吾
森田健作=有賀弘一
岡田嘉子=金田
渥美清=久保
香野百合子=石森千秋
大滝秀治=野口
中島ゆたか=紀子
デニス・ファーレル=トーマス准将
太地喜和子=中上彩子
アイキャッチ画像の版権は松竹にあります。お借りしました。