2017
09.09

#84 グッドナイト&グッドラック ― 違和感(2008年5月19日)

シネマらかす

1985年10月に産声を上げたテレビ朝日の「ニュースステーション」は鮮烈だった。午後10時スタートのニュース番組である。この時間帯は視聴率競争にしのぎを削る民放各局の主戦場だ。数字が稼げるドラマやバラエティで埋めるのが常識だったのに、固くて若者に敬遠される「ニュース」をぶつけた。御法度破りである。

当初は1桁台の視聴率に苦しんだらしい。だが、時を追って視聴率は上がった。やがて、テレビニュースの本家本元を自認するNHKの夜のニュースが逆立ちしても追いつかない高視聴率番組になる。
こうなるとスポンサーが放っておかない。固い番組だから視聴者の質は高い。何とか我が社のCMを潜り込ませたい。そんな企業が目白押しだったと聞いた。その分、広告料も高止まりする。
局のイメージが上がり、経営にも大いに貢献する。その後、民放各社が夜のニュース競争になだれ込んだのも記憶に新しい。

(注)
と書きながら、固い番組の視聴者は本当に質が高いのか、との疑いも拭いきれない。
メディアの特性を考えると、視聴者の質の高さとは、コマーシャルに直ちに影響されて財布の紐を広げるお金持ちのことをいう。これに付け加えるならば、自分で財布の紐を広げながら、周りを
「あんたも買いなさいよ」
と説得する影響力も持っていてほしい。これぞ、質の高い視聴者である。
我が妻も、よくこの番組を見ていた。妻に、質の高い視聴者と呼ばれる2つの必要条件が欠けていることは論ずるまでもない。私の疑いはここから生まれている。

 成功の立役者は、何といってもキャスターの久米宏である。最新のファッションに身を包み、あくまで軽やかに、都会風にニュースを家庭に届ける新機軸を確立した。ほら、こうすればニュースもファッショナブルで面白いでしょう? 柔らかい語り口、権力に対してやや半身に構えた皮肉っぽいコメントも久米ならではの味付けだった。

この時間に自宅にたどり着いたことがほとんどない私は、熱心な視聴者ではなかった。でも、時折目にするNステが体現するニュース番組の新しい姿は歓迎した。

そのNステに違和感を持ち始めたたのはいつだったか?

「これって、報道番組?」

Nステを録画したことはない。従って、手元に資料は何にもない。私の記憶に残るNステを対象にした印象批評だから事実に相違するところがあるかも知れない。そこはご寛恕を願う。

頭脳明晰な久米氏の話のつなぎ方に、一種の「」を感じ始めた。報道される側にアンフェアではないか?
音と映像で、編集済みの事実関係が示される。久米が短く辛口のコメントする。そして間髪を入れず、

「はい、では、コマーシャル」

(注)
という表現だったと思うが、自信はない。とにかく、彼はこのような表現で、自分のコメントの直後にコマーシャルを入れることが多かった。

 コマーシャルが絶妙の間となる。おかげで、私の頭の中には、久米の最後のコメントがくっきりと残る。恐らく計算しつくした演出だ。こうして、一言、二言のコメントが、絶対的なコメントに変わる。

これは、見方、考え方の押しつけである。田原総一朗氏は明瞭に自分を押しつける。押しつけるために論理を駆使する。押しつけが成功するかどうかは、彼の説得力にかかる。
久米の押しつけの手段は論理ではない。結論だけを視聴者の脳裏に焼き付ける手だてが

「はい、では、コマーシャル」

だ。 見事な芸である。だが、それでいいのか?
世には多様な見方、考え方がある。違った見方、考え方が、論理を武器に自らを主張し合って結論を得る。それが民主主義である。没論理的に、イメージだけを視聴者に植え付ける。これは洗脳ではないか? 洗脳と民主主義は相容れない。それが私の違和感だった。
後に政治の場で似た手法を駆使したのが小泉元首相である。

エド・マローは、アメリカ・CBSの伝説のキャスターである。1935年に入社、第2次世界大戦中、ロンドンからラジオ放送した「This is London」シリーズで高い評価を受けた。1951年に始まったテレビ報道番組「See It Now」は彼の名声を不動のもにした。猛威をふるっていたマッカーシズムに、敢然と戦いを挑んだ初めてのキャスターだったからだ。
グッドナイト&グッドラック」は、マッカーシズムに挑むマローの戦いを再現した映画である。

さて、この映画は、マッカーシズムについて多少の知識があった方が楽しめる。詳しくはウィキペディアをご覧いただくとして、概略を書いておこう。

第2次世界大戦後、世界は東西2陣営に分裂した。アメリカを中核とする西側陣営と、ソ連を盟主とする東側陣営による冷戦が始まる。資本主義を守り抜こうとする西側と、歴史の必然として共産主義化を目指す東側はことあるごとに対立した。
対立も、バランスが取れている間は安定する。だが、戦争終了とともにソ連は東欧に衛星国を増やした。48年、チェコスロバキアで共産党がクーデターをおこして政権を握る。49年、アジアでは中国共産党が政権を握った。東側は確実に勢力圏を広げた。そして同じ年、ソ連が核実験に成功する。アメリカは、核兵器を独占する世界最強の国家ではなくなった。
バランスが崩れた。アメリカに共産主義への恐怖感が生まれた。

マッカーシー上院議員が歴史の舞台に登場するのは、そんな最中の50年2月のことだ。上院で、国務省で大量の共産主義者が働いていると爆弾発言をした。告発対象は陸軍、ハリウッド、学界、マスコミへと広がる。共産主義に怯え始めたアメリカ社会はこれを支持した。
偽証、事実の歪曲、密告の強要。何でもありのマッカーシーの手法に疑問を持つ人間もいたはずである。だが、社会のバランサーであるはずのメディアも沈黙を決め込んだ。マッカーシーに弓を引けば、それが共産主義者の証拠だとして槍玉に挙がりかねない。
これが「グッドナイト&グッドラック」の背景である。

マッカーシーのデビューから3年半たった1953年秋、マローは、デトロイトの田舎新聞に載った記事に注目した。空軍がマイロ・ラドゥロヴィッチ中尉を解雇したという記事だった。ラドゥロヴィッチ中尉の解雇理由は、父親がセルビアの新聞を購読していることだ。セルビアは当時、社会主義国家ユーゴスラビアの一地域。だからラドゥロヴィッチ中尉は危険人物だというのだ。
ラドゥロヴィッチ家はそもそもセルビア系なのだ。父親はだからセルビアの新聞を読んでいたのである。だが、そんな事情は一顧だにされない。すべてを共産主義の陰謀に結びつけるマッカーシーの影がチラチラする。
マローは決意した。もう捨ててはおけない。ジャーナリストとしてなすべきことをなす。

マッカーシー旋風が吹き荒れている時代である。会議で上司は、

“You’re starting the goddamn fire.”
(そいつは宣戦布告だぞ)

 と尻込みした。マローは譲らなかった。空軍のあからさまな圧力にも屈せず、放送にこぎ着けた。1953年10月20日の「See It Now」だ。

マッカーシーのマの字も出さない放送だった。だがマッカーシー陣営は見逃さない。マローはソ連の手先だ。中央官庁がでっち上げた情報がCBS会長のビル・ペイリー会長に渡る。職場で上から圧力をかける。マッカーシーらしいやり方だ。

だがマッカーシーは、マローとCBSを舐めすぎていた。

Murrow:  Now we know how they’re gonna come at us. That’s the first shot. Somebody’s going to go down. Bill, it’s time. Show our cards.
(ヤツらが攻撃してきた。これが最初の銃弾だ。いまに誰かが傷つく。ビル、やるしかない。俺たちのカードを切ろうじゃないか)

マローはウィリアム・ペイリー会長を説得した。だが、このご時世である。経営に責任を持つペイリーが簡単に同意できるわけがない。

Paley:  My cards. You lose, what happen? Guys find themselves out of work. I’m responsible for a lot more than goddamn reporters. Let it go. McCarthy will self-destruct, Cohn, all of them.
(カードを持ってるのは私だ。君は持っちゃいない。なあ、君が負けたら何が起きる? みんなが職場を失う。君たちはそれでいいかも知れないが、私は従業員に責任がある。放っておけ。マッカーシーは自滅する。ヤツにくっついているコーンも、取り巻き全員も自壊するから)

経営からの報道の自立、国民の自由、報道の責任……。マローは説きに説いた。

Paley: Everyone of your boys needs to be clean. Do you understand? No ties.  If Aaron’s mother went to a group fundraiser in, he’s out. Hewitt, too. Anyone in that room. You make no mistake. I will cut them loose. Corporate won’t interfere with Editorial.
(君のチームは完全にクリーンでなければならない。分かるか? 厄介事はご免だ。アーロンのお袋が資金調達グループにいたら、ヤツを外す。ヒューイットも同じだ。チーム全員、そうだ。ミスを犯してはならない。そんなヤツがいたら外す。経営は報道に介入しない)

企業を存続させるのが経営の責任なのに、ペイリー会長は、まかり間違えば倒産の危機に瀕しかねない決断を下した。マローによほどの信頼を置かなければできないことである。
こうして1954年3月9日、「See It Now」の特別番組「A Report on Senator Joseph R. McCarthy」 が放送された。

マローは冒頭、

Murrow: Because a report on Senator McCarthy is by definition controversial we want to say exactly what we mean to say and request your permission to read from a script what ever remarks Murrow and Friendly may make. If the Senator feels that we have done violence to his words or pictures and desires to answer himself an opportunity will be afforded him on this program.
(マッカーシー上院議員についての報道は論争の的になります。我々が申し上げたいことを正確に申し上げるため、私とフレンドリーが書いた原稿を読み上げることをお許し願います。もし上院議員が、彼の言葉、映像に我々が圧力を加えたと思われ、自分で反論することをお望みならば、この番組でその機会を提供します)

とコメントした。マローはプロである知恵者である。この危険極まりない敵を相手にするには、独り相撲をしてもらうのが一番いい。そうすれば彼は勝手に傷を負う。
数ヶ月前のマッカーシーの演説を収録フィルムで流した。

McCarthy:  If this fight against Communism has made a fight between America’s two great political parties, the American people know that one of these parties will be destroyed and the Republic cannot endure very long as a one-party system. 
(共産主義との戦いがアメリカの2大政党の戦いを引き起こすならば、どちらかの政党が潰れ、政党が1つだけになれば共和制が潰れる)

あんた、こないなこと言うとったなあ。ほやけど、あんたがやっとる共産主義との戦いとかいうヤツで、共和党と民主党の関係はガタガタやんか! あんた、アメリカを潰す気か?

そして、論理的に畳み掛ける。キッチリと隙なく組み立てられた論理は、言論の最強の味方である。

Murrow: It is necessary to investigate before legislating but the line between investigating and persecuting is a very fine one and the junior Senator from Wisconsin has stepped over it repeatedly. We must not confuse dissent with disloyalty. We must remember always that accusation is not proof and that conviction depends upon evidence and due process of law. We will not walk in fear, one of another. We will not be driven by fear into an age of unreason if we dig deep in our history and doctrine and remember that we are not descended from fearful men not from men who feared to write, to associate, to speak and to defend the causes that were for the moment unpopular. This is no time for men who oppose Senator McCarthy’s methods to keep silent, or for those who approve. We can deny our heritage and our history but we cannot escape responsibility for the results. We proclaim ourselves, indeed as we are the defenders of freedom wherever it continues to exist in the world but we cannot defend freedom abroad by deserting it at home. The actions of the junior Senator from Wisconsin have caused alarm and dismay amongst our allies abroad and given considerable comfort to our enemies.
(立法に調査は欠かせません。だが調査と告発の間に横たわる一線を彼は何度も踏み越えています。反対することと忠誠が欠けることは違います。疑いは事実とは限らりません。有罪と決めるのは証拠と適法手続きです。互いを恐れず、恐怖で理性を曇らせず、この国の歴史を振り返って祖先の勇気を思い出しましょう。彼らは何も恐れず、書き、そして語った。少数の意見を守ったのです。マッカーシー議員の反対者も信奉者も沈黙すべきではない。伝統と歴史を捨てるなら、結果に責任を持つべきです。自由世界の旗手を名乗り外国を説き回るのはいいが、自国の自由なくして他国の自由は守れません。マッカーシー議員の行動は同盟国に動揺を呼び、敵国に便宜を与えています)

番組は、いつものように、

Murrow: Good night, and good luck.

で幕を閉じた。

世論調査では、1954年1月、マッカーシーの支持率は50%に達した。この番組が放送された3月でも46%である。マローはマッカーシーと、マッカーシーを支持する半数近いアメリカ国民に喧嘩を売った。
この番組がきっかけになったかのように、この後マッカーシーはつるべ落としに転落する。内部でマッカーシー批判が高まった軍部はマッカーシーを告発。そして年12月には上院がマッカーシー不信任を決議する。

いやあ、やったね、マローさん! あんたの恐れを知らぬ報道が、絶頂にあったマッカーシーの足をすくった。勇気あるテレビジャーナリズム万歳!!
ここで終わっていれば、伝説のジャーナリストエド・マローの最大の戦いを描き、ジャーナリズムの勝利を高らかに歌いあげた映画になった。
が、それだけだったら、3級映画にすぎなかった。

ジョージ・クルーニー監督は、そこでメガホンを置かなかった。
マッカーシーとの戦いで報道機関としての名声を高めたはずのCBSは、間もなく経営不振に陥った。やむなく、社員のリストラを始める。
マローのSee It Nowは放送枠を日曜日の午後、最も視聴者が少ない時間枠に移された。間もなく打ち切られる。
栄光の頂点に立って勝利の美酒に酔ってもいいはずのCBSが没落する。それが現実だった。何が悪かったのか?

1958年10月25日、報道番組制作者協会の集まりにゲストスピーカーとして招かれたマローの大演説には、そんな背景があった。

Murrow: Let us dream to the extent of saying that on a given Sunday night, the time normally occupied by Ed Sullivan is given over to a clinical survey on the state of American education. And a week or two later, the time normally used by Steve Allen is devoted to a thorough-going study of American policy in the Middle East.
Would the corporate image of their respective sponsors be damaged?
Would the shareholders rise up in their wrath and complain?
Would anything happen other than a few million people would have received a little illumination on subjects that may well determine the future of this country and therefore the future of the corporations?
To those who say, “People wouldn’t look, they wouldn’t be interested.””they’re tooc omplacent, indifferent and insulated.” I can only reply: There is, in one reporter’s opinion, considerable evidence against that contention. But even if they are right, what have they got to lose? Because if they are right. and this instrument is good for nothing but to entertain, amuse and insulate, then the tube is flickering now and we will soon see that the whole struggle is lost.
This instrument can teach. It can illuminate and it can even inspire.
But it can do so only to the extent that humans are determined to use it towards those ends. Otherwise, it is merely wiresand lights in a box.
Good night, and good luck.

(いつの日か日曜日の夜エド・サリヴァンの時間帯に、教育問題が語られることを夢見ましょう。1、2週間後にはスティーヴ・アレンの番組の代わりに、中東政策の徹底討論が行なわれることを。そうなったら、スポンサーのイメージは損なわれるのでしょうか? 株主から苦情が来るでしょうか? 数百万の人々が、この国と放送業界の未来を決める問題について学びます。それ以外のことが起きるでしょうか? 「そんなテレビ番組、誰も見ないよ。視聴者っていい加減だし、無関心だし、冷淡だし、バラバラなんだ。関心なんて持つはずはない」という人にはこうお答えしましょう。私の個人的な意見だが、正しいという確証はあるのです、と。だが、もし私の意見が間違っていたとしても、失うものは何もありません。もしテレビが娯楽と逃避のためだけの道具なら、我々は戦っても負けるだけです。テレビは人間を教育し、啓発し、情報を与える可能性を秘めています。でも、それはあくまでも使い手の自覚次第なのです。そうでなければ、テレビはコードと光の詰まった箱にすぎません)

マッカーシーに戦いを挑んで伝説のキャスターの座についてからわずか4年半。いまやマローは番組を奪われ、テレビの堕落に憤懣やるかたない。

この時代では珍しい白黒映画である。当時の実録フィルムをふんだんに使い、マッカーシーもアイゼンハワーも本人が登場する。限りなくドキュメンタリーに近い作品となった。だがクルーニー監督は、歴史の一幕できるだけ忠実にを再現しただけなのか?

ジョージ・クルーニー監督が憤懣やるかたなくこの映画を作ったのは間違いない。この映画ができた2005年は、「華氏911」でマイケル・ムーア監督が描き出したジョージ・ブッシュ大統領が2期目の選挙戦に勝利を収めた直後である。テレビよ、君たちがなすべきことをサボるから、こんな男が居座り続けるではないか! 怒りの矛先は、2005年の米国のテレビに向を向いている。

だがそれだけでは、一度は栄光のの頂点に立ったジャーナリストが失意の底にいて、彼を支えたCBSが経営的苦境に立ったこのシーンで幕を閉じる意味が分からない。 CBSはともかく、マローはその後、ケネディ政権の合衆国情報庁長官に就任する。ジャーナリストが政権内に入ることには批判もあろうが、ジャーナリストとしてのマローの活躍が評価された結果であることも確かである。いわばマローは、2度目の頂点に上り詰める。
そこまで描けば、様々な圧力に屈することなく戦ったジャーナリストのハッピーエンドは、2005年のジャーナリストたちへの励ましになったはずである。だが、クルーニー監督は、マローのその後を無視した。

恐らくクルーニー監督は、マローに違和感を感じていた。 マローよ、あんたは立派なジャーナリスとかも知れない。だけどあんたも考え違いをしていたのではなかったか? ブッシュ再選を許す今のジャーナリズムに、あんたも責任の一端があるのではないか?

マローよ。堅い話、立派な話、正論を述べれば視聴者が聞いてくれる、評価してくれるというのは君の思い上がりだ。君は親父の小言を喜んで聞く子どもだったのか? 上司の説教に感動した部下だっったのか? よほど酷い親父、上司に当たらない限り、小言、説教はおおむね正論である。でも、聞きたくない。そんなものだ。

君がテレビを去った後、エド・サリバンショーにビートルズが出た。視聴率は72%だった。君はこの裏番組で教育問題をやろうというのか? スティーブ・アレン・ショーを断念して中東政策の徹底討論を見たい視聴者がどれだけいるというのか?
君の時代。自宅にいながらにして動く絵が見られるテレビは、どんな番組であろうと娯楽だった。君のSee it Nowも 娯楽番組だった、と考えたことはないのか?
言論を支えきれなかったCBSの経営にも問題はあったろう。だが、音楽はダメ、小説は時間の無駄、映画は下らなく、バラエティは論外。そんな君も、テレビが衰退した責任の一部がある考えたことはないのか? 君が視聴者に見放されたのだと反省したことはないのか?

ジョージ・クルーニーの父はは映画評論家兼ニュースキャスターである。娯楽産業である映画とジャーナリズムの空気が充満した中で育ち、やがて俳優となった。大ヒットとなった「オーシャンズ11」は娯楽作品である。だから彼は、大衆の息づかいが分かる。大衆はきれい事やお説教では動かない。それが身に染みているから、この映画をマローの時代錯誤の大演説で締めくくった。
私にはそうとしか思えない。

メディアよ、思い上がることなかれ。大衆は、君らが思っているよりも遙かに賢い。大衆が君らを無視するとき、悪いのは大衆ではない。君たちである。
クルーニー監督はそういいたかったのに違いない。

もっとも、クルーニー監督も久米宏のニュースステーションは知らなかっただろうが。
でも、知っていたら、どんな感想を持ったろう? 聴いてみたい気がしないでもない。

【メモ】
グッドナイト&グッドラック(GOOD NIGHT, AND GOOD LUCK)
2006年4/月公開、93分

監督:ジョージ・クルーニー George Clooney
出演:デヴィッド・ストラザーン David Strathairn=エド・マロー
ジョージ・クルーニー George Clooney=フレッド・フレンドリー
ロバート・ダウニー・Jr Robert Downey, Jr.=ジョー・ワーシュバ
パトリシア・クラークソン Patricia Clarkson=シャーリー・ワーシュバ
レイ・ワイズ Ray Wise=ドン・ホレンベック=キャスター
フランク・ランジェラ Frank Langella= ウィリアム・ペイリー=会長
ジェフ・ダニエルズ Jeff Daniels=シグ・ミッケルソン
アイキャッチ画像の版権はワーナー・インディペンデントにあります。お借りしました。