2017
11.22

2017年11月22日 闘い済んで

らかす日誌

桐生えびす講が終わった。本日まで「戦況レポート」が書けなかったのは、えびす講中は自宅に戻るのが遅くなり、翌22日は飲み会が入っていたためである。

この「らかす」にアクセスしていただいている方々の行動を見ると、昨日から今日にかけて滞在時間が大変に短くなっている。恐らく、このページに来てはみたものの、

「何だ、まだ『えびす講に行く』で終わってるじゃねえか。詰まらん」

素通りされたのだろう。ま、私が読者でもそうするかも知れない。だがライターとしては

「じゃあ、ほかのページを見てみるか」

とお考えいただいて滞在時間を延ばしていただきたいのだが、これだけは私の力では何ともならない。ひたすら、

「お読みください」

とお願いするだけである。何しろ、新「らかす」にはすでに1131本の原稿があり、いま書いているのが1132本目なのである。


そこで桐生えびす講である。
初日が日曜日とあって朝から人出が絶えず、午前11時頃には参拝客が長蛇の列をつくり、社殿に至階段が人で埋まった。その人の列にさらに新たな参拝客が並び、一時は境内にからはみ出して道路にまで並ぶようになった。

不信心な私からすれば

「はあ、なんでみんな来るんだろう? 今日は寒いぞ。風邪引くな」

てなものである。
車いすで、あるいは杖をつきながら、というお年寄りも結構いて、

「桐生の人たちは、えびす講をよほど愛しているんだね」

と感じ入らざるを得ない。
この方々が、えびす様の御利益を信じているとは限るまい。御利益は信じないが、えびす講が始まると何となくそわそわして出かける用意をしてしまう。祖先から代々受け継がれてきた年間行事の動員力とはすごいものである。

という風景を眺めながら、私の仕事は写真で「2017えびす講」を記録することである。記録するためには神社に腰を落ち着けているわけにはいかない。露店は参道、参道がぶつかる一般道路(山手道路という)、それに参道が始まる本町通りにまで並んでいる。その範囲を動き回らねば写真は撮れないのである。

重い一眼レフを首から提げて、私は歩き回った。歩きながら、

「俺、歩くのが下手になったなあ」

と自覚する。
足の持ち上げ方がかつてより少なくなった。ために、時折、靴の底で道をこすってしまう。
しばらく歩いていると、膝からしたの筋が突っ張ってくる。

「おかしいな」

と思いながら歩き続けると、いつの間にか

「次は右足を出すから、一緒に左手を前に振るんだよな」

などと、歩き方を頭の片隅で考えている。
おかしい。俺、こんなに歩くのが下手だっけ?

そのためであろう。午後になると腰が痛み始めた。立っているのがつらい。腰の両側が張ってきて、思わず腰を前屈してしまう。座れるところを探して座ってしまう。

社殿に戻る。暇な時はここで待機するのだが、困ったことに椅子がない。床に腰を下ろし、火鉢で暖をとる。
この姿勢、腰にすこぶる良くない。座っていると、腰がしくしくし始める。それに、立ち上がるのもなかなか難しい。悪くすればよろけそうなのである。

桐生に来て歩くことが減ったということは何度か書いた記憶がある。多分、そのために下半身の筋肉が落ちているのであろう。筋肉が落ちた足で歩き回るから腰に負担がかかる。それが腰痛の原因ではないか。
とは考えるものの、急場の役にたつはずもない。

「あのさ、公式カメラマン、今年で終わりにしてくれる?」

と、あのO氏に懇願してしまう私であったのだが、

「だけど、余人をもって代え難いんだよね」

といわれると、

「だったら、せめてここに椅子を入れてよ。ほら、世話人さんたちはほとんどが大変な高齢者じゃない。そんな方々を床に座らせていたら、立ち上がった弾みでよろけて、よろけるだけならまだしも、ついには倒れてけが人が出る恐れがあると思うんだが」

と、設備の不備を指摘してしまう。私もそのけが人候補の一人であることは、哀しいが認めざるを得ないのである。

さて、1年後の桐生えびす講で、私はまた公式カメラマンを拝命しているのだろうか? 椅子席がなかったら絶対に受けないからね!


と、私が桐生えびす講で肉体を酷使している間、世間様ではお相撲さんの暴力事件が取りざたされていた。
悪いことに、ほかにたいした出来事がなかったからだろう。暴力を振るったという横綱は、なんだかもう極悪人のようなイメージを作り上げられてしまった。

でも、あなた、どう思います? 日馬富士って、常識が欠如した暴力人間なんかいな?

私は、最初にニュースで取り上げられた時から

「報道の仕方がおかしい」

と考え続けている。日馬富士を極悪人に仕立て上げてしまったのは、相当におつむが緩い記者たちである、と私は思う。

最初に出てきた診断書は、

「全治2週間」

である。
これ、少しばかり常識を持っていれば、怪我の程度がもっとも軽い診断書であることが分かる。医者は、全治2週間に満たない診断書は書かないのだ。

「これ、たいした傷じゃないわ。え? 診断書がほしい? じゃあ2週間だね」

というのが全治2週間の怪我なのである。

それなのに、

「頭蓋底骨折の疑い」

だって? そんな大変なところの骨が折れていたら、わずか2週間で治るか?

それが最初の疑いであった。
私の疑いは、その後の報道で証明されていく。頭蓋底骨折—重傷、との報道に、診断書を書いた病院が驚き、

「いや、あれはあくまで疑い、なんです」

と釈明会見をしたのである。

つまり、一連の騒ぎを起こしたのは、全治2週間の意味を知らずに報道の前線にいるアホウ記者どもであったわけだ。

が、である。1社の記者がアホウである確率は高い。だが、全報道機関の記者がアホウである確率はそれほど高くはないはずだ。それなのに、私が知る限り、全報道機関が、

「日馬富士が重傷を負わせた」

と報じた。これって何? マスコミって、みんなで渡れば恐くない、って世界か? みんなで渡ることが優先して、それによって傷つく人がでることには一顧だにしないのがマスメデイアか?

そのアホウぶりに加え、全ての暴力は悪である、という建前論に縛られるのもメディア人の通弊である。
確かに、暴力はよろしくない。できれば、暴力抜きですべての物事を解決したいものである。だが、それでも、人間とは、思わずカッとしてしまうことがある生き物である。カッとして、ついつい拳を振り上がることがある動物である。加えて、教え諭すためにげんこつの一つもくれてやらねばならない事態に遭遇するのが人生である。
そんな人の世で、

「暴力反対」

金科玉条とし、それによって極悪人を創り出す連中をアホウと呼ばずして何と呼ぶのだろう?

後の報道では、日馬富士に殴られた貴ノ岩は、日頃から先輩力士を馬鹿にする発言を繰り返していたそうである。日馬富士はそれを注意した。ところが、注意されながら貴ノ岩はスマホをいじっていた。
私が日馬富士なら、やっぱりカッとする。びんたの一つもくれてやるかも知れない。そして日馬富士はまずカラオケのマイクを投げつけ‥‥。

それって、とりわけ問題にするようなことか?
加えて、暴行事件の翌日には、貴ノ岩は稽古をしていたというではないか。重傷を負った力士が、怪我をした翌日に激しい稽古ができるものなのか?

今回の暴行事件の顛末は、マスメディアの一知半解がもたらしたものである。わずかの事実を知ったことで、全てを理解した気になるのが一知半解という。メディアの連中は、最初に出てきたホンの少しばかりの事実で全体をねつ造してしまった。

全治2週間がどれほどの怪我なのかを知っていれば避けられたことである。暴力=悪という建前論から自由であれば、避けられたことである。

いま報道は、被害届を出した貴乃花の問題に向かい始めた。たったこれだけのことで、何故に貴乃花親方は被害届を出したのか。被害届を出しながら相撲協会の事情聴取にきちんと応えなかったのは何故か。
それを解明するのは、騒ぎがここまで多きなった以上、必要なことであろう。

だが、地の底までおとしめられた日馬富士の名誉はどうなるのか?
日馬富士に謝罪し、自分たちの落ち度を世間に謝罪したマスメディアが1社でもあるか?

不幸なことに、私たちはメディアの報道一つ一つに疑いの目を持たざるを得ない時代を生き始めた。

「メディアよ、原点に戻れ。謙虚になれ」

というのは無い物ねだりなのだろうか?