2017
12.09

2017年12月9日 受信料

らかす日誌

長年支払ってこなかったNHKの受信料だが、昨秋、いまの家に引っ越したのをきっかけに払うようになった。

「払っていいのかな?」

と思わないでもないが、まあ、数十年にわたって支払いを拒否してきたのである。世の中の動きを見ながら、

「そろそろ年貢の納め時か」

とあきらめの境地に達したわけだ。
だから、最高裁でどのような判断が出ようと、私には一切関わりがない。最高裁判事の方々が勝手に作文をされれればよろしい。
とはいいながら、やっぱりあの最高裁判断、

「それでいいのかよ」

という気がする。
問題は一つだけである。

国民のメディアとは何か?

国民とは、雑多な考え、慣習、風習、生活習慣、反応、運動能力、趣味、理解力、関心などをもった人々の集まりである。そのような社会で、

「国民のメディア」

と呼べるものは成立するのだろうか?

私は、いまのNHKは堕落したと思う。上から目線で国民に媚びてみせる姿勢が気持ち悪くて仕方がない。ニュースのワイドショー化、どうでもいいお笑いタレントをつぎ込んでのバラエティ、先日も書いたが、歴史を捏造してまでの視聴率稼ぎ。どれをとっても、国民である私のメディアとは、とてもじゃないが思えない。

加えていえば、日本語の乱れがひどい。
なかでも、紋切り型の日本語には飽き飽きする。
首長選のお知らせ(これ、とてもじゃないがニュースとは呼びたくない)は、

「○○市は人口△△人。子育て世代への支援策や市経済の活性化について論戦が繰り広げられる見通しです」

と必ずいう。
ねえ、あなた。あなたの町の市長選挙で、「論戦」が繰り広げられた記憶はありますか? お願いします、の連呼はあっても、待機児童を解消します、などの空約束の陳列はあっても、候補者同士が

「あの人の政策はこの点が間違っている。あんなことをやったら、市の経済は立ちゆかない。私は‥‥」

など、一つ一つの問題について、候補者同士が政策の是非を論理的に並べ立てる図なんて、見たくても見られないのが地方自治体の選挙である。
論戦なんて、どこにある?

国際会議になれば、担当記者が現地まで赴き、政府の誰かにレクチャーされたに違いない中身を、さも自分が取材し、それまで蓄えた知識をもとに分析したかのような顔をしてしゃべる。記者とは恥知らずの別称なのか?

街頭でつまらない市民コメントを拾う。見ていると、NHKの主張にそうコメントしか出てこない。そんなコメントをいくつか並べて、あたかもそれが市民社会の総意であるかのような雰囲気を作る。

時折出てくる専門家は、いったい何を話してもらいたくて引っ張り出したのか分からないことが多い。

「そうですよねえ。いま北朝鮮からミサイルが日本に撃ち込まれれば、住民に大変な被害が出ることは確実です」

レベルのコメントは、べつに専門家にしゃべらせる必要はない。あんた、記者さんだろう? その程度の事は自分でしゃべれないのか? と腹立たしいことが多すぎる。

それでもNHKを見ていることは確かだ。が、とりあえずニュースの時間にNHKを見て世の動きを確認する(データ放送を見てたいしたニュースがないと判断すれば、ニュースすら見ない)ほかは、朝の帯ドラマを時計代わりにつけておくこと、日曜の夜、晩酌をしながら大河ドラマを眺める。それが私とNHKの付き合いの全てである。

それでも私はNHKに視聴料を払わねばならないのか?
それでも私はNHKを守らねばならないのか?

釈然としないのである。

公共放送の使命とは何か?
質の高い番組を作り続けることしかない。ニュースでもドラマでもドキュメンタリーでも、スポンサー、政府にまったく気を配る必要がない立場を最大に活かし、視聴率は気にせずに、100年先まで残しておきたい番組を制作し続けるしかない。

もしNHKが、そのような放送局であったら、私は喜んで受信料を払い続けるだろう。
だが、少なくともいまのNHKはれべるが低すぎる。これが日本の公共放送であると、胸を張って外国の知人に紹介する勇気が持てない。
それでも私は、NHKに受信料を払う義務があるのか?

最高裁の判事さんたちは、NHKをご覧になったことがあるのだろうか?
少なくとも私程度にNHKを視聴していれば、はたしてあんな判断を下すことができたろうか?

日本に生まれたから、日本人であることは仕方がない。
でも、日本に生まれたからといって、NHKを公共放送として日本人と呼ばれる人たち全員が支えなければならないという今回の判断は、私には

法律馬鹿

の空理空論に聞こえる。

以上は、それでもNHKに受信料を払っている私の考えである。
あなたはどう思われますか?