2018
01.11

2018年1月11日 カトリーヌ・ドヌーブ

らかす日誌

とは、すでに年老いたりとはいえ、美人女優で一世を風靡したフランスの俳優さんである。代表作は「シェルブールの雨傘」か、それとも「昼顔」か。

まあ、それはいい。私、世評に反して、この方を

「美人女優」

として認識したことはない。何ともでっかい、大きな女である、程度にしか考えてこなかった。だから

「できれば一度お手合わせを」

などと願ったこともない(願っても叶うかどうかは別である)し、彼女が出た映画で特に好きなものもない。晩年になっても「輝ける女たち」や「太陽のめざめ」でみごとな「若い頃は美人だったんだろうな」おばあちゃんを演じていらっしゃるのを見て

「老けても自分をさらし続ける、根性の座った役者」

と関心はするが。

そういえばつい先頃、かのアラン・ドロンとジャン=ポール・デルモント(だったと記憶する)が、朝日新聞紙上のどっかの広告で、立派な老いをさらしていた。素晴らしい老けぶりで、小さく書いてある名前を見なければ、これがかの二人であることには気がつかなかったろう、というほどの変わりようだった。
だが、名前を見て

「ああ、そうだ」

と、写真に昔の面影を発見した私は、この二人に感心したのである。偉い! と。
そうだよね、老いって醜いものではない。老い方次第では美しく老いることができるのだ。いや、そもそも老いが醜いなんて誰が言い出したのだ? 年齢相応の美しさとは、いくつになっても存在するはずではないか。醜いヤツは20歳でも醜い。美しいヤツは80歳でも魅力的である。
私も、こんなじいちゃんになりたいな。

ま、それが「偉い!」の中身であるということで、本題に戻る。カトリーヌ・ドヌーブである。

今朝の朝日新聞の社会面に、

「セクハラ告発に異論 『口説く自由』説く」

の見出しで、ドヌーブおばあちゃんが登場されていた。

何でも、最近のセクハラ騒ぎに対して

「仕事上の会食中にひざに触れる、キスを求める、性的な話をするといった行為だけで男性が罰せられ、職を失っている」

「弁解の機会もないまま性暴力を働いたのと同様に扱われている」

と話した上で

「しつこく、不器用でも口説くのは罪ではない」

と、ル・モンド紙に寄稿したのだそうだ。

筆鋒はセクハラ、セクハラと騒ぎ回る女たちにも向かい、

女性を常に被害者として守ろうとするのは、女性のためにならない

とも言い放った。

いや、実に何とも、ドヌーブさん、素敵なおばあちゃんである。

この投書に対し、フランスでは

「性暴力の被害者をおとしめている」

という批判があるというから、受け止め方は様々なのだろう。だが、私は断固として、ドヌーブおばあちゃんを支持し、愛する。
 

そもそも、「セクハラ」という言葉は厳密に使おう、と書き続けてきた私である。厳密な意味とは

「相手に影響を及ぼすことができる地位や立場を利用して、性的関係を強要したり、性的嫌がらせをすること」

である。その限りであれば、セクハラは犯罪であると私は判断する。

だが、最近の風潮は、どこかたがが外れすぎている。あることないこと全てひっくるめて、女性が

「いや!」

と感じたこと、思ったことを「セクハラ」でくくってしまう。
そりゃあ、生きていればいいことばかりではないさ。この野郎、と思うことも、こいつ、殺してやりたい、と感じることもあるさ。だが、だからといって殴るか? 殺すか? そんなこと、しないだろう?

それが男と女の間で生じれば、すべてが「セクハラ」になる。
あんたたち、いったいどこで「我慢」を覚えるんだ?
あんたたちは、生まれたかも知れない人間関係を削り続けて、人生で損をしているとは思わないか?

ために、東京で環状線に乗る時は、男は両手を常に人目にさらすのだとか。

「ほら、私の手は決しておかしなことはしてませんからね」

とアピールし続けないと、いつ何時

「痴漢!」

の罵声を浴びかねないからだ。自己防衛である。

それだけなら笑い話で済ませることもできる。だが、私が1年半前までいた職場で起きたことは、決して笑い話にはできない。

群馬県の総括責任者は男であった。この男、セクハラ防止に実に熱心で、というか、実に注意深く、あるいは根性がなく、あるいはアホウで、という言葉が正確かも知れないが、

「私、例え部下であっても、女性と2人だけで食事をしたり酒を飲んだりはしません」

と公言したというのである。
ま、酒を飲んでも食事をしても楽しいヤツではなかったので女性軍には歓迎された宣言かも知れない。
しかし、上司と部下が友に食事をし、酒を交わすのは職場に欠かせないコミュニケーション手段である。この男も、男性の部下とはそんな場を持っていたようだ。嫌われながら、ということに気がつかないのはこの男の能力の限界である。
それなのに、女性の部下とはコミュニケーションの場を持たない。これ、差別である。どう考えても女性差別である。

きっと、我が身を守ることに最大の価値観を持っていたのだろう。

君子危うきに近寄らず

いまや、いつ何時セクハラで告発されるかも知れない時代である。であれば、セクハラをする機会をなくすことが、俺がセクハラで告発されない最大の手段ではないか。

たったこれだけのことで、上司として果たさねばならない責任(若い部下に仕事のノウハウを教える、仕事のヒントを与える、基本的な人間関係を構築する、など数多い)を、女性に対してだけ放棄する。

我が身大事ゆえに責任を放棄するこのうような男を、玉なし野郎、と呼ぶのは、実に正確な表現であると思う。

脇道が長くなったが、ドヌーブのおばあちゃんは、このような世の動きに

「あんたら、アホや」

と言ってのけた。素晴らしい!

検索したら、我が家にはおばあちゃんの映画が31本あった。若い頃の映画もあるから、おばあちゃんはかわいそうかも知れないが、まあ許されよ。
今日から私、ドヌーブファンになろう。31本の映画を鑑賞しよう。

そんな気にしてくれた記事だった。