2018
02.14

2018年2月14日 忘れるんだよなあ

らかす日誌

風呂に浸かりながら、あるいは食卓で晩酌をしながら

「おお、このテーマは書ける」

と思いつく。「らかす日誌」の中身は、おおむねこのようにして決まる。

それはいいのだが、最近、

「おお、書ける」

と思ったものが、いつの間にか脳裏から消えることが多くなっているような気がする。そのため、風呂を出たり、晩酌、夕食を終えたりしてしまうと、私の頭はノーテーマになり、いつものように映画鑑賞に打ち込むことになり、更新が滞る。

とでも説明しなければ、自分でも納得できない執筆本数の少なさが続いている。
そりゃあ、いくらかの弁解はできる。

・このところ取り上げたくなるニュースが途絶えていること
・これは、と思ってもたいした話ではないので忘れること
・それなりに仕事があること
・算数の問題集に追われていること
・旧「らかす」からの移設作業がまだ終わらないこと(やっと2015年8月まで進んだ。あと200本ほどである)

いかがだろう。これらは十分な弁解になり得るだろうか?
それとも、やっぱり私は惚け始めているのだろうか?
あるいは、根っからのサボり癖がまたや現れ始めているのだろうか?

まあ、それはそれとして。

盛り上がっているのだろうか、平昌オリンピック?
我が家ではちっとも盛り上がらない。テレビで競技を見るのは、朝と昼だけ。朝は7時のNHKニュース。昼は食事時にテレビをつけると、NHKは必ずオリンピックをやっており、他の局はくだらない番組しか流していないので、仕方なく見る、という程度である。食事が終わればそそくさとテレビの前を離れるのはいうまでもない。これ、応援の「お」の字にも届かない鑑賞の仕方である。

私だけ、あるいは我が家だけかとも思うが、待ちで知人にあっても、誰もオリンピックの話をしない。

「高梨がやっと銅をとったね」

「スピードスケートの高木は銀で惜しかった」

などという、まあ、あってもいい会話が、私の周りでは皆無なのである。
私がまったく関心を示さないから、私にそんな話をしかけるのを控えているのか。
当人も関心が持てないので、日本選手団の成績など記憶にとどめていないからだろうか。

それに引き替え、メディアはオリンピック一色といってもいい。NHKのニュースは必ず日本選手の活躍ぶりがトップだし、朝日新聞は1面と拡大スポーツ面で情報を垂れ流す。あんなもの、本当に読まれているのか?

まあ、夏のオリンピックに比べれば、冬は地味である。それも原因かも知れない。
しかし、個人的には、オリンピックの政治利用が鼻につきすぎて、大会が始まる前からしらけてしまったというのが原因である。問題は主催国にある。

そりゃあ、朝鮮の南北統一を成し遂げたいというのはわかる。しかし、だ。あの韓国の大統領、頭はまともなのかね? 北朝鮮が核兵器、ミサイルの開発を世界に誇示し、遠慮なく他国の支配領域に「実験」と称してミサイルを発射している時に、本当に南北統一の窓口が開くことができると思っているのか? それとも、結果はまったく期待せず、国内の有権者に自分の政治姿勢をアピールする機会と割り切った政治ショーにすぎないのか?

北朝鮮と統一チームを作る。美女軍団か3流バンドか知らないが、北朝鮮から大量に芸能人を招いて国内公演までさせる。いずれにしても、オリンピックの明瞭な政治利用である。これほどあからさまな事実に違和感を持つのは、私だけなのか?

これほどの政治利用を進める主催国である。日本の控え選手がドーピング疑惑で出場辞退に追い込まれたニュースを聞き、

「これも政治利用?」

と疑いを持ってしまった。
慰安婦問題を、政権が変わったからと蒸し返す国である。反日姿勢をとり続けなければ大統領の座に居続けることができない国である。国民の反日感情、日本侮蔑感情をあおるため、

「ほら、日本って国はこんなに堕落した国なのよ」

といわんが為に、禁止薬物をこっそり混入したのではなかろうか、と考えてしまったのだ。
99%、わたしの考えすぎであろう。だが、そう考えさせてしまうのは彼らの落ち度ではないか?

考えてみれば、オリンピック期間中は全ての戦闘行為を中止するという古代ギリシアのオリンピックも、政治利用といえば政治利用である。競技場の観客席では、現在交戦中のポリスの首脳同士が和平の道を探っていたかも知れない。ナチスが国威発揚の場としてオリンピックを開いたことは有名な歴史的事実だし、開催国、開催都市はどこもここも、いくらかの政治利用は計算に織り込んでいるのに違いない。
だが、目下世界中から危険視されている国との蜜月を演出する政治利用、何か次元が違うような気がして仕方がない。

「あんたもよくやるねえ」

と笑って肩を叩きたくなるものではない。

私は「らかす」で、何度もオリンピックへの違和感を書いてきた。その違和感もここに極まった感がある平昌オリンピックである。