2018
02.17

2018年2月17日 ……

らかす日誌

手元のiPhoneが突然鳴りだしたのは正午前だった。また啓樹かな、それとも瑛汰か。璃子、嵩悟ということもあり得る。何の用だ?
と思いながら取り上げると、まったく違う発信人の名前が表示されていた。

Kさん。

かつての勤め先の上司である。駆け出しの頃東京に出張し、右も左も分からぬ街で、仕事の肝が把握できずに途方に暮れた時、

「俺はこう思うんだ。あれがこうなって、これがこうなって、だからこんなになっている。そこまでは分かるんだが、それから先は俺にもよく分からん。君、自力で調べろよ」

と、実に分かりやすい解説をしてくれた。

多くの先輩が

「何、あれ? 決まってるだろ、そんなこと。あれはこういうことだよ」

と独断と偏見を交えた解説をし、私が

「いや、だけどそれはこんなこともあるんじゃないですか?」

と恐る恐る質問すると

「何いってんだ、君。だから君はダメなんだよ」

と訳の分からぬ怒り方をし、それでも理解ができない私が

「でもですね……」

と追加質問を試みると、

「俺、これから用事があってさ」

と立ち去る姿をが多数あった中で、ずっと下の後輩である私に

「うん、そこは俺もよく分からなくてね」

と誠実に、懇切丁寧に説明してくれた知的誠実さが実にすがすがしかった。
当時は独身で、話を聞くと奥さんを病気でなくしたのだという。神奈川県の病院に入院していた奥さんの元に、仕事を終えたあとで毎日駆けつけていたそうだ。ずいぶん遠い病院で、車で、恐らく片道2時間ほどはかかったのではないか。

「知的に誠実な人間とは、人間的にも誠実なのだ」

と頭の下がる思いがしたものである。

縁あって、2度目に名古屋に赴任した時は、直属の部長だった。よく飲んだ。殴り合いまでは行かないが、喧嘩もした。部長は私に命令する権限があるので喧嘩は私が負けたが、お互い、いまの仕事をうまく進めるにはどうするかで意見がぶつかり合った喧嘩はまったく後腐れがなかった。

だから、桐生に来てからも賀状だけは差し上げていた。ところが、数年前から出した賀状が戻ってくるようになった。Kさんからの賀状は来ない。

「ということは、私とはもう付き合いたくないということか? それとも、ひょっとしたら亡くなったか?」

とまでは考えたが、それを探っても仕方がない。いつしか私も賀状を差し上げなくなった。

そのKさんからの突然の電話である。

「どうしたんですか。本当にお久しぶりで」

と戸惑いながら電話口で答えた私に、Kさんは

「いや、僕ねえ、脳梗塞で倒れてさ。いま、施設に入っているんだわ。それもね、心筋梗塞になる恐れもあるといわれて寝たきりなんだよ。それで、死ぬ前に、ご縁のあった皆さんの様子が知りたいと思ってね。それで電話したんだけど、君、引っ越したの? 新しい住所が分からないから教えて」

脳梗塞、施設、心筋梗塞、死ぬ前に……。短い話の中に、いくつものキーワードがあった。これだけのキーワードを本人から並べられて、私は言葉を失った。

「あ、そうだ。大道君、手紙をおくれよ。うん、施設はね、○○で、ホームページがあるから住所はネットで分かる。僕、100号室だから、手紙をくれよ」

はい、早速手紙を差し上げます。

「君の住所もきちんと書いておいてね。それからH君とも連絡を取りたいんだが、大道君は連絡先知らないかなあ」

申し訳ないが知りません。でも、分かるように手配します。

「頼んだよ。とにかく、いまのうちにみんなと連絡を取りたくてさ」

5分ほどの会話だったろうか。呆然としたままH君にメールを書き、名古屋で一緒に仕事をした仲間たちの幹事役をつとめるF君にもKさんの現状を知らせ、できるだけたくさんの仲間に知らせてくれるようメールで頼んだ。

しかしKさん。私と10歳ぐらい離れていたろうか。だとすると、まだ80歳前後のはずだ。それがあれほど弱々しい声しか出せなくなるとは……。
酒は好きだったし、ヘビースモーカーでもあった。しかし、脳梗塞で施設に入るとは。再婚された2度目の奥さんはどうされたのだろう? 子どもさんはいなかったっけ?

「大道、俺さ、お前のことを信用してるんだよ。口じゃあいろいろ悪いことをやってるようなことをいってるけど、君は絶対に悪いことができない男だよ」

そんなことを口癖のようにいっていたKさんを思い出しながら、すぐに手紙を書いた。

突然のお電話で、驚きました。
数年前から賀状を差し上げても戻ってくるようになり、それについてのお知らせもなかったので、

「私との付き合いを切ってしまわれたか」

「手紙を書けない事情ができたか」

とは思うものの打つ手はなく、すっかりご無沙汰しました。今日の電話で初めて事情を知った次第です。

あなたの事情がそれだけしか分かりませんので、とりあえず私の近況をお知らせします。
2016年8月いっぱいで再雇用期間が終わり、普通なら横浜に戻るのでしょうが、その2年ほど前から

「桐生に残ってくれ」

といってくる人が増えました。
相変わらずの生意気さで、街の再建や市民運動、教育、経営など様々な分野で発言を続けたことで、私を「誤解」した人がいたのだと思います。
しかし、会社を離れれば収入は年金だけになります。横浜の自宅に戻れば何とか暮らせるのでしょうが、桐生に残るとなると家も借りなければならなくなり、活動費も必要です。

「収入の道がなければ残ることはできない」

と言い続けたところ、その仕事をつくってくれる人まで現れ、後に引けなくなりました。
現在は「Labo-d」という個人事業を始め、4社からWebの原稿を書く仕事を受けています。加えて、桐生西宮神社のえびす講を差配する知人から、「えびす講通信」の執筆を頼まれ、また桐生祇園祭をになう町内の一つ、本町3丁目の町会からは「祇園祭を盛り上げたい」と、これもパンフレットの作成を委嘱されました。

月収20万円、といいたいところですが、現実はそれにはるかに届かない収入で働いています。
しかし、個人的に仕事を請け負うのと、会社の一員として仕事をすることはまったく違うのですね。会社にいた時より、はるかに責任感のようなものが生まれ、それなりにこまめに仕事を進めています。

これだけ書けば、ほかにはあまりご報告することもありません。身体の方はそれなりに老化してきましたが、慢性となった腰痛の他は症状として表れるものは少なく、年の割には元気なのだろうな、と思っています。

横浜の我が家には、次女一家が住んでくれています。ここの長男が小学5年生で、中学受験するとかで塾通いをしています。ところが、次女も次女の旦那も算数が不得意で、自宅学習の指導役はもっぱら私の責任となり、最近は月に1、2回は横浜に戻り、家庭教師を務めさせられています。

小学生の算数も相当高度になっており、突然問題を突きつけられると身動きが取れなくなることもありますので、桐生では日常的に算数の「中学受験問題」に取り組んでいます。ウンウン唸ることも多いのですが、これも惚け防止にはなるだろうと思っています。

私事ばかり書き連ねました。お許しください。

私のメールソフトを見てみたら、H君から来たメールのがありましたので、彼女にはあなたご意向を、携帯電話番号と一緒に伝えておきました。

また、余計なことだったかも知れませんが、F君にも同趣旨のメールを送り、名古屋で一緒だった連中に伝えてくれるよう頼みました。

私も、仕事をしているとはいいながら、それなりに時間は自由になります。できれば旧交を温めにお住まいまで出向こうかとも考えるのですが、いかがでしょうか?
ご都合、ご意向をお知らせいただければ幸いです。
落ちこぼれのまとまらない文章で申し訳ありません。字が下手なのでパソコンに頼ってしまいました。
末筆ですが、一日も早いご快復を祈っています。

大道裕宣拝

 

これだけである。
さて、返事をいただけるかどうか。その体力がKさんにのこっているのか。

しかし、このような症状の先輩に、土産は何にしたらよかろう?
早くも、お見舞いの計画を練り始めている私である。