2018
05.21

2018年5月21日 相撲と女性

らかす日誌

ああ、そうなんだ、と突然腑に落ちることがある。昨日、私はそんな体験をした。

これまで腑に落ちなかったのは、大相撲を巡る話である。
記憶に頼れば、相撲協会がどこかで巡業をした時、アトラクションの相撲取りv.s.子供たち、という出し物で、女児が土俵に上がることを拒否した。

「それはおかしい。男女差別である。そもそも、このアトラクションに女児の参加を認めたこともあるではないか。突然の変心は許せいない」

というクレームがついた。
これに対して相撲協会は

「女の子が怪我をしたら大変だから」

という素っ頓狂な返事を返し、以後、うやむやとなった。

あの時から、何となくモヤモヤしていたのである。おかしいのは相撲協会か、それともクレームをつけた側なのか。それが、私の中でうまく答えが出なかったのである。

最近の「正義」からすれば、おかしいのは相撲協会である。女性は長い間、男性より一段劣る生き物として取り扱われてきた。もういいだろう? 男の子と女の子の平等がしっかり根っこを張ってもいいだろう? 女だからというだけ理由で、女の子を閉め出す不平等はなくそうではないか。

全く、正しい。その通りである。加えていえば、最近は男の子の方がだらしない。何かというと自分の殻に引きこもり、指示待ち人間になって自分を守ろうとする。現状を半歩でも前に進めようというエネルギーは女の子に溢れている。これからは女性が世の中を取り回していくのかも知れない。
私は、心からそう思う。何よりも女が好き、だからの信念ではない。

では、一連の相撲の騒ぎに、何故に答えを出せなかったのか?
最近、私の中で大きく育っている保守主義のためである。
変える、変えるというが、変え方には二通りある。よりよく変えることと、より悪く変えることである。だから、一つ一つの物事に対して、変えた方がいいものなのか、変えずにいた方がいいのかを判断しなければならない。世の中には、変えてはならないもの、守り通さねばならないものも厳然としてある。それが私の保守主義だ。
それは、おそらく民主党の大失敗から汲み取った教訓なのだと思う。

相撲は神事だという。日本の神事の世界では、最高神は天照大神という女性神であるにもかかわらず、何故か女性は汚れた生き物だとされる。だから相撲は、神聖な土俵に女性が上がることを拒否する。
なるほど、そういうものかと知ったのは、官房長官だった森山眞弓が内閣総理大臣杯を優勝力士に授与しようと土俵に上がりかけたら、相撲協会が拒否した事件からである。それが伝統行事における男女差別を洗い直すきっかけになったともいう。
内閣官房長官を拒否するぐらいだから、巡業地の市長が土俵に上がって挨拶したいなんてのを拒否することぐらい、相撲協会にとっては当たり前のことである。

そこで、お相撲さんと相撲が取れるアトラクションに女の子が参加できるかどうか、という最初の問題に戻る。
正しいかどうかなら、迷わず

「女児も参加させよ」

と私は答えを出していたはずだ。
では、なぜ答えが出せなかったのか。

伝統行事の中には、伝統のままに守り続けることに意味があるものもあるのではないか

という思いが消せなかったのである。
例えば、沖縄の久高島には男子禁制の儀式、場所がある。12年に1度行われるイザイホーと呼ばれる神女誕生の儀式と、その舞台になるクボー御嶽である。1966年、そのイザイホーの最中に岡本太郎(「太陽の塔」を作ったおっチャン)が男子禁制のクボー御嶽に立ち入り、写真を週刊朝日に掲載した。
さて、これは男女平等を実践した勇気ある行動なのか。それとも、芸術家という肩書きに思い上がって、長く受け継がれてきた沖縄の民俗文化を踏みにじった暴挙なのか。

元元は神事とはいえ、衆目を集めなければ維持、運営が出来ないプロスポーツと化した大相撲を、沖縄の民俗文化と同列に論じるのがいいのかどうか。
だが、

「変えていいのか? 守り抜いた方がいいのではないか? 伝統文化を否定し尽くせば、のっぺりした無表情の社会しか残らないのではないか?」

という思いが消せなかったのである。

私をすっきりさせてくれたのは、

親鸞 「四つの謎」を解く」(梅原猛著、新潮文庫)

だった。
論争好きの梅原翁は、この本でも、親鸞学の中核にある西本願寺派の論説をバッサバサと切り捨てる……、というのはどうでもいいとして、こんな話が紹介されていた。

親鸞26歳の時という。当時親鸞は範宴(はんねん)と名乗っている。
都で催された新年年賀の儀式を終えて比叡山に戻る途中の範宴に声をかけた女性がいた。どこに行くのかと問われた範宴が、比叡山に戻るところだと答えると、自分もこれから比叡山に行こうと思ってここまで来た。初めてのところなので、是非案内して欲しいという。

比叡山は女人禁制の山である。範宴は

「女人は罪深く、『法華経』にも女人は汚れており、仏法の器ではない、と説いている。あなたが山には入ることは出来ません。すぐにお帰り下さい」

と範宴は冷たく突き放すのだが、女性は諦めない。泣きながら痛烈な批判を浴びせるのである。

「あなたは情けないことをおっしゃったものです。伝教大師(=最澄)が本物の智者であるのであれば、『一切衆生悉有仏性』(すべて生きるものは仏になる可能性を持つ)という『涅槃経』の経文を見たはずではありませんか。人はもちろん、畜生にも男女の別がありますが、比叡山には女の鳥や獣は住まないというのでしょうか」

その場では、女性は入山を諦めて去る。だが、範宴は強烈なショックを受ける。それが後に、すべての人が救われるのだという

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

という究極の大乗仏教の思想に繋がり、さらには僧でありながら妻を持つという、仏教の革命に繋がったというのだ。

親鸞が、自分の見た夢を語った「三夢記」にある話だという。私、この一文を読んで感銘を受けた。800年も昔、日本には根本的な男女平等思想があったのだ。これに驚かずして何に驚けというのか?

なるほど、そうである。いかなる伝統でも、理にかなわぬ伝統は一日も早く廃絶した方が良い。そうしなければ救われない人がいる。

というわけで、女の子もどんどん土俵に上がりなさい。同級生の男の子たちを投げ飛ばしなさい。大きなお相撲さんを押し出しなさい。
それで相撲の何が変わる? 何も変わらない。
怪我をしたら困る? 男の子なら怪我をしても構わないってか?!

私は昨日を転機として、相撲協会批判派に籍を置く決意をしたのである。

それはそれとして、これ、面白い本である。お手すきの折には、是非手にとって目を通していただきたい。