2018
05.31

2018年5月31日 定型化

らかす日誌

この頃気になることがある。記者を職業としている連中の、思考の定型化である。定型化とは、何事かが起きた時、その出来事を慣れ親しんだいくつかのパターンのひとつに当てはめ、

「これはこういう現象である」

と理解しようとすることをいう。
茅ヶ崎市で起きた、90歳の老女による交通死亡事故の報道にその典型を見た。

この事故についてはかなり報じられたから皆様もご存じであろう。簡単に振り返ると、90歳の老女が車の修理工場に行き、自分の車を受け取った。テレビで見る限り、車種は日産プリメーラのかなり前のモデルである。色は赤。あ、これはことの本質とは何の関係もない。ただ、

「へーっ、90のばあさんが赤い車ね」

という意外性に驚き、

「相当の年代物だな。物持ちがいいね」

という感想を持っただために書き記したにすぎない。

彼女はハンドルを持って工場を出て左折した。工場の人たちが外にまで出て見送っていたので、

「早く見えないところに行ってやらないと、あの人たちに気の毒だ」

と思ってアクセルを踏み込んだというから、人への思いやりがある人である。

そこから10mほど行ったところに信号機付きの横断歩道があった。信号はだったが、彼女は早く工場から離れてあげなければ、という思いに駆られ、信号を無視することに決める。幸いなことに、横断歩道の前で待っている歩行者は、渡り始める様子がない。これなら行ける。
ところが、その直後に歩行者たちが横断を始めた。慌てた彼女はハンドルで避けようとするが避けきれず(ブレーキを踏んだかどうかは未確認)、4人をなぎ倒した。あおりで歩道に乗り上げ、さらに2人を引いてしまった。

という事故である。

その報道のどこに、記者連中の思考のパターン化を感じたのか。

また高齢者が事故を起こした」

という報道姿勢である。
いや、それが間違っているというのではない。90歳は確かに高齢であるし、事故を起こしたのも事実である。最近、高齢者が思いもかけない事故を起こし続けているのは記憶に染みついている。そのどこかいけないのか。

この事故をつぶさに見よう。
事故の原因は信号無視である。では、この90歳の女性は、高齢だったから信号無視を敢行したのか? 違う。工場の人を思いやる気持ちに加え、ルールを守らなければならないという順法精神が薄かったから信号無視に打って出たのである。この時の彼女にとって、法律を守ることより、一刻も早く工場を離れることが優先した。
これは、運転者が高齢であることが引き起こした事故か? 違う

この事故が運転者の高齢が原因であるためには、この女性の認識能力、判断能力、運動能力が、高齢であるために劣化していたことを証明しなければならない。
これまでの報道を見る限り、信号が赤であったことがちゃんと分かっていたのだから、認識能力に問題はない。
では、判断能力はどうだろう。この女性は歩行者が横断歩道を渡り始める様子がなかったから、と話している。ということは、状況もわきまえていたわけである。ただ、人辺も気遣いを、ルールより優先させた。判断の誤りではあるが、高齢ゆえの判断ミスとはいえまい。法を犯す若者だってたくさんいる。
運動能力についてはわからない。90歳だから、若い頃に比べれば劣っているだろう。だが、車を運転するのにスポーツマン並の運動能力は必要ではなく、通常の日常生活が送れれば、いや、身体障害者もハンドルを握る時代だから、日常生活に多少の不自由があっても、車の運転には差し支えないと見るのが常識だろう。

「いや、この事故のようなとっさの時には、運動能力が高ければ事故を防ぐことが出来る」

という反論もあるかも知れない。
だが、私がこの女性と同じ状況にいて、同じ判断ミスで信号無視をし、その直後に歩行者が車の前に出てきたとしたら、私なら事故を避けられたか? オリンピックに出場するほどのアスリートなら避けることが出来たか? あなたなら事故を防げましたか?
無理である、と私は思う。

であれば、この事故の原因は、運転者の高齢にあるのではない。
この事故の原因は、信号は無視してもいいという、間違った価値観をこの女性が持っていたことである。ルール無視が引き起こした事故なのだ。

何故このような些細なことにこだわるのか。
事故の原因を明瞭に区分けしなければ、その後の安全対策が狂ってくるからである。

いま主流となっている

「また高齢者が事故」

からは、高齢者に免許を返上させよう、という結論しか出てこない。もちろん、人は誰でも加齢に伴って衰えるのであり、認識、判断、運動の能力がハンドルを握るのに足りなくなれば、免許は返上させるのではなく、取り上げるべきである。例えば、80歳以上には運転免許を認めないようにしていれば、この事故が起きることはなかったろう。
では、一律の基準で運転年齢に上限を設けるのがいいのか? 今の日本の、とくに地方都市の現状を見れば、自らハンドルを握らねば暮らしが成り立たない高齢者がたくさんいることが分かる。80歳で一律に免許を取り上げるのは過剰防衛である。このあたりは、曖昧にするのが人の知恵である。
高齢者の事故率が高まったと言いつのっても、言いつのる人の自己満足は得られても、社会的には何も変わらないのである。

では、私の分類ではどうなるか。
この事故の原因は交通ルールの無視である。であれば、交通ルールを守らせるしかない。
毎日のように車を運転する私は、交通ルール、特に信号を無視するドライバーの多さに驚いている。黄色の信号は「進め」である。赤に変わっても、変わった直後は「進め」である。直後でなくても、左右の車が動き出しているのに強引に右折するドライバーもいる。目に余る時は、クラクションを長く鳴らして脅かすのが私の仕事になっているほどである。
しかも、そのような信号無視をすルドライバーは、運転が下手な人に多い。制限速度40kmの道を30kmでトロトロ走り、後ろを走っている私をいらだたせていた車が、赤に変わった信号を無視して交差点に入っていく現場に、何度遭遇したか。
車の流れを無視したのろのろ運転、左右の車が動き始めているのを無視した強引な右折。いずれも、自分のことしか考えないドライバーの仕業である。自分さえ良ければよしとする。自分の行為が他人にどのような迷惑を及ぼすのかという想像力がない。
こうした背景があって、

「信号なんてどうでもいいのよ」

という人が現れる。
同じ信号無視でも、歩行者として無視するのは理解の範囲内だ。万が一の時に犠牲になるのは自分だからである。だが、ハンドルを握る人の万が一は、他人を傷つける。平気で信号無視するドライバーは、そんなところに思いをはせることがないのに違いない。

交通法規は守らなくてもいいという風潮を生み出すもう一つの原因は、いまの交通ルールである。
群馬県を通る国道50号線は速度規制の看板をほとんど見かけないので、多分、最高速度は60kmである。だが、この道を60kmで走っていたら後ろから煽られる。おおむね80kmで流れるのがこの道の特徴で、ここを90km、100kmで突っ走る剛の者もたくさんいて、時には私もその仲間入りをする。
後に県警の交通部長になったお巡りさんに、

「あの道、何㎞で走る?」

と聞いたら、

「80㎞、ですかね」

という答えが返ってきた。慢性的に速度違反が横行する道なのである。

いや、私は速度違反がいけないといっているのではない。国道50号線で警察の監視が厳しくなったという話は聞かないから、この程度のスピードで車が流れても特に問題は起きていないのだろう。しかし、慢性的な速度違反が起きるような規制のあり方、ルールの決め方がおかしいといいたいのである。
ルールを守らなくても何も問題も生まれないと、

「交通ルールはお巡りさんが見ている時だけ守ればいい」

という暗黙の合意が生まれる。事故を起こした90歳の女性も、

「交通ルールはお巡りさんが見ている時だけ守るもの」

という自主ルールを設けていたのではないか。だから、見送ってくれている工場の人が気の毒だから、お巡りさんもいないし、信号ぐらい無視しなきゃ、と突っ走った。

この事故をそう捉えれば、違ったアプローチが生まれる。交通ルールを全面的に見直し、誰もが納得して守ることが出来るものにする。国道50号線の最高速度は80㎞あたりまで引き上げても問題はないはずである。その上で、違反者は厳しく取り締まる。あるいは、ルールに違反して事故を起こした場合は罰を重くする。
 

起きたことを決まり切ったパターンに当てはめたくなるのは理解できないことではない。頭脳労働が軽減され、何となく全体を把握した満足感が持て、しかも立派な仕事をした気になれるからである。
だが、考え抜くことを避けてパターンでしか物事を判断しない知性は、当然のこととして劣化する。いま、マスメディアに劣化した知性が急速に増殖していないか?

今週初めに、北海道で生まれ、東京で場が年働きながら、定年後の終の棲家として全く縁がなかった桐生に移住してきた、一風変わった方と話した。東京では私立の学校で教頭を務めていたという方である。
話はあちこちに飛んだが、その方がこんなことをっしゃった。

「この頃の新聞記事は深みがない。記者さんが薄っぺらくなった」

ふむ、そう感じていたのは私だけではなかったか。

「だって、この頃の記者さんは、取材に来る時に質問項目をノートに列挙している。そして、すべて1問1答で、こんな答えで良かったのかなとこちらが考えるようなケースでも、絶対に再質問をされない。事前に予定した、必要なことだけ聞けばこれでいい、とでもいいんでしょうか。取材って人と人が顔を合わせて会話をすることでしょう。話が弾んで、考えても見なかったところに話が発展する、なんてことを繰り返さないと、記事に深みは出ないですよね」

茅ヶ崎の事故も、おそらくそんな記者が取材をし、記事を書き、そんなデスクが目を通して紙面に出た。
たかが交通事故、されど交通事故。

現役の記者の方々よ。もっと深い世界を描き出す努力を積み重ねていただけませんでしょうか。