2018
06.05

2018年6月5日 読書

らかす日誌

先週末は長男夫婦が、一粒種のあかりを連れてやってきた。あかり、1歳と3ヶ月足らず。まだ足取りは怪しいが歩くことを覚え、我が家に少しなじむと、家中歩き回る。マンション暮らしのせいか、なじみの薄い階段がお気に入りで、自分の腰ほどもある段差をものともせずになんとか登ろうとする。降りようとする。その付き添いや、ウイスキーをなめながらの息子との会話で土曜日が過ぎた。

日曜日は伊勢崎のスマークまで、あかりの絵本の買い出しに繰り出した。もちろん、まだあかりにはまだ本を選ぶ能力は身についておらず、もっぱら両親が選択した。会計は、もちろんこちらに回ってくる。本の所有者になるあかりは、自分の前で何が起きているかを理解する力はまだなく、これがボスのプレゼントであるという感謝の念もあるまい。
啓樹に始まり、瑛汰、璃子、嵩悟と、ボスに本を買い与えられ続けているメンバーに、あかりが自覚的に加わるまで、さてあと何年かかるか。
あかりも、

「ブックオフの方がたくさん買ってもらえるから、ね、ブックオフに行こうよ」

と言い始めるのだろうか。

そのあかりは、寝室に使った和室の障子を破って帰って行った。障子破りは子供の必須課程である。

台風一過の昨日月曜日は、ある団体に講演を頼まれており、何とかこなした。この団体で講演するのはもう3度目になる。

「人前で話をするのは緊張するものです。そんなときは、目の前に座っているのはジャガイモであると思い込め、とは誰がいったのかは忘れましたが、何故か記憶にくっきりと残っています。さて、今日はたくさんのジャガイモさんがおいでになって……、こうやって見回すと、ずいぶんひねたジャガイモばかりだなあ、という気もしますが」

と緊張もせずに話し始め、「読書」というテーマで40分ほど話した。

目の前のひねたジャガイモは、みな経営者である。講演を頼まれたあと、さて何を話そうかと考えていて、経営学者ドラッカー(だったと思う)の著書の一節を思い出した。
将来経営者になろうという人は、大学で何学部を選ぶべきか。そんな問があり、それへの答えが常識破りだったからである。

「なのですが、さて何学部だと思われますか?」

居並ぶひねたジャガイモたちに問いかけた。しばらく待ったが、答えは返ってこない。そうか、ドラッカーの著書を読んだ人はいないのか。

「彼は、文学部に進め、と書いています」

意外そうなため息があちこちから漏れた。

「何故か。ドラッカーはこういっています。経営者にとって一番大事なことは、自分の考えを正確に従業員に伝えることです。つまり、誰でにでも理解できる言葉で自分の考えをまとめる。それが一番大事だというのです。加えて、従業員の話も正確に聞き取って理解しなければならない。つまり、言葉のプロになることが経営者片も第一歩だというのです。言葉を正確に理解し、文章を生み出すようになるためには、文学部こそ選ぶべき学部である、というのが彼の経営学の第一歩なのです。と思いついたので、今日は読書の話をしてみようと思います」

それから30分ほど、子供の頃はほとんど本を読まなかったこと。高校3年の国語の時間に、教師が

「漱石の『猫』をまだ読んでない人」

といったので、正直に手を挙げたら、クラス全体で3人しか手を挙げておらず、その一人である私は名指しで馬鹿にされたこと。悔しくなって放課後、書店に足を伸ばして「吾輩は猫である」の上巻を買ったが、読み始めたら面白くなく、あまり読まずに放置したこと。

ところが、大学受験に失敗して浪人生活をしている時、福岡の予備校で受けた模擬試験の国語の問題に夏目漱石の「門」が出てきて、何故かその文章に魂を奪われたこと。試験が終わると書店に走り、「門」を買い求めてむさぼり読んだこと……。

ま、おおむね自分の読書体験を話しただけである。

それだけでは,人前でする話には足りないと思ったので、一工夫した。読書を人としての成長と結びつけたのである。

いまから思えば30年ほど前になるが、取材で仲良くなった野村證券の広報部長が、新宿西口支店の支店長に栄転した。

「遊びにおいでよ。飲みに行こうよ」

と誘われていたので、素直な私はえっちらおっちら西新宿まで足を伸ばした。飲みに行こう、というのだから、着いたのは午後5時半を過ぎていたと思う。

「さ、行こうよ」

という私を、支店長は

「ちょっと待って」

と引き留めた。そしていうことには、

「俺さあ、支店長になってからね、この店に遊びに来てくれた人には、社員の前で話をしてもらうことにしてるんだ。あなただけ例外にすることは出来ない。10分か15分でいいから、ちょっと話してやってよ」

ちょっと待て、である。こちらは酒を汲みかわしながら旧交を温めようとやってきたのである。人前で話す準備なんかまるでしていない。というより、人前で話した経験なんかほとんどない。中学校時代の生徒会長選挙以来ではないか?

「いやだよ。出来ないよ、そんなこと」

と拒絶するのだが、許してくれない。

「しょうがないか」

と諦めたのは、

「だったら、今日はあんたの奢りだからな」

というスケベ心も手伝ってのことだったかも知れない。
が、5分もすると私の「講演」が始まるのである。始まるのは仕方ないとして、いったい何を話せばいい?

窮鼠が猫を噛んだわけではないが、窮すれば通ず、というのも人生の真実かも知れない。よし、これにしよう、と思いついたことがあったのである。それが読書だった。

人が熟成するには、多分、二つの道しかないと思う。一つは本を読むことである。もう一つは人と議論をすることである。2つの道と書いたが、一方をやれば他方はどうでも良いというのではない。どちらも平行して進めることが必要だと思う。
これと思う本は出来るだけ幅広く読む。読んで知識を蓄える。蓄えた知識は使わねば錆びる。だから、その知識を充分に活用しながら、相手を選んで議論をする。それによって、自分の中に論理が生まれる。知識と論理がどんどん積み重なれば、人として先に進めるのではないか。どのような事態に直面しても、それを乗り越える知恵を生み出す素地が出来るのではないか。

というような話をしたと記憶している。
昨日の講演でその昔話を紹介し、本を読むこと、人と真摯に話し合い、議論を積み重ねることの大切さを話した、つもりである。私はドラッカーの教えを忠実に実行し、あのジャガイモさんたちに正確に伝わる言葉を紡ぐことができただろうか?

と思っていたら、話し忘れていたことがあったことに気がついた。
本を読んでも、記憶る必要なんてサラサラないことである。そもそも、私を含めたひねたジャガイモには、かつてのような記憶力は残っていない。読んでも読んでも、読んだ中身はざるで水をすくうみたいにこぼれ落ちていくばかりである。だから、覚えなきゃ、などと思っていては、本を読むのがいやになる。

でも、なのだ。人の記憶中枢には、人によって形も数も違うが、とげみたいなものがあるらしい。そのとげが、若いうちはたくさんあってそれぞれが鋭く尖っているが、年を取ると本数が減り、生き残ったとげも先が丸くなってなかなか刺さらないようになってしまう。そうなのだが、それでも先が丸くなった、数少ないとげに刺さって残る知識もある。若い頃にはとげに引っかかりもしなかった知識が、この先が丸くなったとげにはぶすりと貫かれることがままあるのも人生の不思議である。

だから、覚えようなんて意気込むことはない。読んだら、すべて忘れてもいい。記憶しようとしなくても、記憶に残るものがあるのが人生の不思議なのである。
力まずにページを繰ってみませんか?

それを話すことを忘れていた。困ったものである。

ということで、先週末から日誌を更新するゆとりがなかった。お許しを願って、今日はこのあたりとする。