2018
06.12

2018年6月13日 一夜明けて

らかす日誌

そう、気分はかなり平常に戻ってきた。

まあ、起きたことは起きた。起きたことをいつまでもくよくよ考えていても意味はない。
というのは、私の人生哲学に等しい。

今日も経済企画庁時代の出来事をご紹介する。我が人生哲学の一例として、である。

ある日、部長から電話が来た。なんでも、知り合いが経済企画庁の記者クラブで発表をしたいといっている。

「大道君、済まないが面倒を見てやってくれよ」

話は少し飛ぶが、昨今は評判の悪い記者クラブであるが、私は功罪相半ばする組織であると考えている。
発祥は、政府や企業という大組織を相手にする記者は、単身では無力であるという自覚にあると聞いたことがある。どんなメディアに属していようと、記者は一人では無力な存在で、だから、企業の枠を超えてまとまり、取材先との力関係を出来るだけ同等にすることにあったというのである。
まあ、個人では無力な労働者が、会社と対等に交渉するために労働組合を結成するようなものであると理解していただけると話が早い。その文脈では、記者クラブにはれっきとした存在理由がある。
なのだが、長い歴史の中で記者クラブは体制側にいつしか組み込まれた。最初は

「あいつらがまとまるのは面倒だな」

と思っていた体制側も、いつしかその利用価値を見いだすようになった。記者クラブまで足を運べば、いつでも記者がたまっているのである。世に知らしめたいことはそこに持ち込めばよい。これは便利である。
加えて、形だけはまとまっていても、記者は同業他社と常に競争を繰り広げている。であれば、分断して統治するのに苦労することはない。記者連中の競争心を煽ってやれば、記者は縦横に操れる。

記者の側も、当初は

「権力とたいまんを張る」

と意気込んでいたものの、記者クラブには別の利用価値があることに気がついた。記者クラブにひっくり返っていれば、次々に情報が飛び込んでくるのである。足を棒にして飛び歩き、記事のネタを探す必要がない。人間はややもすると楽を求める生き物だ。

こうして堕落が続き、最近の悪評が形作られていった。

悪評の最大のものは、その閉鎖性である。記者クラブに所属する記者でなければ部屋に立ち入れない。記者クラブを設けている官庁、企業、団体以外の人も立ち入れない。こうして二重の閉鎖体制が出来上がった。

「だが、それはおかしい。たくさんの人が知るべき情報は、たくさんのメディアが報じるべきである」

とは、不思議なことに、若い頃から私の中にあった価値観であった。
初任地、三重県津市にいたころ、読売新聞が中部読売新聞という会社を作った。どういう訳かこの新しい会社は日本新聞協会に入らなかった。この協会に入らないと、各地にある記者クラブに加えてもらえない。

だが、記者クラブには入れなくても、取材先では中部読売の記者とも顔を合わせる。仲良くなるヤツもいる。

「大道君、先日、市があのことを発表しただろ。あの資料が欲しいんだけど何とかならないかな?」

頼まれた私は気楽なものである。もともと、会社の都合で記者クラブに入れない彼に同情していたこともある。そうか、記者クラブにいないから、市が配った報道用の資料が手に入らないんだ。

「いいよ」

と二つ返事で引き受け、津市役所にあった記者クラブまで同行した。彼が欲しがった資料はそこに置いてあった。
部屋の前まで来た時だった。彼が言った。

「俺、ここで待っているから、悪いけど、資料をここまで持ってきてくれないか?」

不思議な行動である。ここまで来たのだから部屋に入ればいいではないか。中にいるのは、取材先で顔見知りに担った記者仲間ばかりなのである。

「何いってんの。入っておいでよ」

私は何度も促した。だが彼は

「いや、俺はやっぱりここで待つから」

というばかりである。やむなく、私一人で部屋に入り、資料を手にして外で待つ彼に渡した。

そんな経験がある。私は、

「少なくとも記者クラブはオープンでなければならない。誰でも入ることが出来る場所にしなくてはならない」

という信念の持ち主になり、その後、出来るだけ実践を心がけた。

そこで経済企画庁である。
そんな信念の持ち主だから、部長の頼みを気楽に引き受けた。民間の人が経企庁の記者クラブで発表する。したければすればいい。私が面倒を見ましょ。
経企庁の広報課に話を通し、クラブの所属員にも説明して了解を得た。そして当日。

発表は

「土地問題を根本的に解決する手法を開発した」

というものだった。
土地問題。つづめていえば、高騰する一方で、庶民から持ち家の夢を奪ってきた土地価格をどうすれば引き下げることが出来るか、である。本当にそれが出来れば素晴らしいことだ。期待しながら彼らの説明を聞いた。

彼らの手法は、土地の債券化であった。例えば、東京の土地を小口の債券にして売り出す。3億円の土地を100口に分ければ一口300万円である。それなら庶民の手にも届くのではないか。

話を聞きながら、どこかがおかしいと感じた。

まず、土地債券は土地そのものではない。300万円で債券を買うことは出来るが、その債権の上に家を建てて住むことは出来ない。それじゃあ、土地の所有者にはなれても、自分の家を持つことは出来ないではないか。

それに、だ。そんな債券が売り出されればひょっとしたら人気が出て買い手が増える。買い手が増えれば債券の価格が上がる。この債券は土地を体現したものだから、元元の土地の価格だって債券価格に合わせて高騰してしまう。マイホームの夢はますます遠ざかってしまう。

「と思うのですが、これじゃあ、マイホームの夢をますます遠ざからせてしまいかねない。ということは、土地問題を悪化させるだけで、土地問題を解決することなんて出来ないでしょう」

まっとうな疑問であり,質問であると今でも思う。そして、出てきた答えに唖然とした。

「いいじゃないですか。債券化することで庶民も土地の所有者になり、地価が上がることで恩恵を受けるのですから」

トンでも説である。こんなアホウな話を記事にすることは、良心の塊である記者(=私のこと!)としてできない。私は没にした。他社の記者の多くも取り上げなかった。記事にしたのは,記憶では日本経済新聞だけである。

「時間の無駄だったね」

紹介者となった私は、他社の記者にわびた。

数日して、部長から再び電話が来た。

「大道君、あれ、何故記事にしなかったのかね」

ああそうか。発表に来たのは部長の知り合いであった。だから気にしていたのか。

「ええ、話を聞いたんですが、とてもじゃないけど理にかなっていないので見送りました」

それで済む話だと思った。

「何を言ってるんだ。土地問題には読者の関心も高い。君が理解できなかったとしても、記事にするのが記者だろう」

ここは弁解をしなければならない。なにせ、相手は部長さんなのだ。

「いや、先ほどもご説明したとおり、あの案は土地問題を悪化させこそすれ、解決には全く結びつきません。こんな話を記事にする必要はないと思います」

部長は言葉を重ねた。語気が荒くなったと感じたのは私の気の迷いだったろうか。

「そうか。この案を書いたのは、筑波大学(だったと思う)の教授だ。君がそこまでいうのなら、君、筑波まで行って先生と議論して来いよ」

ほとんど叱責に近い。だが、そこまでいわれれば、私だって言わざるを得ない。

「分かりました。時間を作って行ってきます」

夜になった。ふと、昼間の部長との会話を思い出した。思い出してゾッとした。

「俺、部長に逆らっちゃった!」

その部長、将来の社長候補といわれていた(実際、社長になった)。その部長に逆らう。サラリーマンとしてこれほどまずいことはない。

「あちゃー」

理解がそこまで及んだ時、私は落ち込んだ。

「ああ、俺のサラリーマン人生もこれで終わりかよ!」

そんな気分が、確か3日ほど続いた。だが、4日目には何故か立ち直っていた。

「いっちゃったんだもんな。やっちゃったんだもんな。どれほど落ち込んだって元に戻すことは出来ないんだよな。だったら、落ち込んでいたって無駄じゃないか」

もちろん、サラリーマン人生がそこで終わりになることはなかった。それからしばらくして名古屋に転勤した。それが報復人事だったかどうかは分からない。だが、その後の記者人生で、あまり優遇されなかったのは事実である。もっとも、それは私に力ながなかったからに過ぎないかも知れないが。

いや、ここで書きたかったのは、私はそれほど立ち直りが早いということである。経企庁時代のエピソードは、私の立ち直りの速さをご説明する資料に過ぎない。誤解されませんように。

というわけで今日は、5月24日の「らかす」でご紹介した、桐生に移り住まれたご夫妻を、「笠盛」と「松井ニット」にご案内してきた。10日ほど前にお目にかかった時、この2社の製品にご夫妻で関心をお持ちであると知り、

「では、私がご紹介しましょう」

と約束していたのである。お二人は「笠盛」では3点、「松井ニット」では2点をお買い上げになった。紹介者の私には、リベートが……、入らなかった。紹介業はビジネスにならないらしい。

午後は、瑛汰の塾の問題を解いた。「算数 ハイレベル問題演習」と題された難問である。瑛汰が30〜40分取り組んでバンザイした問題である。
なんと、すぐに解法が見つかり、20分ほどで解き終えた。

その後、横浜の次女から電話があった。事故を起こした私を気遣ってのものである。

「お父さん、大丈夫?」

という質問に、私は胸を張って答えたのである。

「うむ。ハイレベル問題演習を解けるほどにまでは回復した。回復率は70%かな」