2018
09.02

2018年9月2日 サラリーマン化

らかす日誌

安倍首相、強いね。20日に党首選があるが、いまの勢いなら破竹の勢いで3選を達成するのだろう。あれだけスキャンダルまみれになりながら、少なくとも国会議員のレベルでは石破さんをものともしないようだ。恐れ入ったことである。

でも、本当に安倍政権が続いていいのか? ひょっとしたら石破さんの方が首相には相応しいのではないか? 少なくとも、物事の説明能力と政治家としての倫理観・感においては石破さんに軍配をあげてしまう私は、

「なんでこうなるの?」

と考えてみた。
といっても、かつては経済担当の記者ではあったが、政治の世界なんて覗いたこともない。以下は、

当たるも八卦、当たらぬも八卦

の世界であるとご了解いただいた上で読み進めてもらいたい。

私が思うに、このような異常事態の原因は小選挙区制にある。この小選挙区の問題点は何度か書いた記憶があるが、いまの自民党総裁選を見ていてあまりのくだらなさに、もう一度書く気になった。

なぜ小選挙区が悪の根源なのか?
小選挙区制とは候補者同士の闘いではなく、党と党が政策を掲げて戦う選挙だとされている。だから2大政党制が実現し、政権交代可能な政治制度と鳴るという。その建前はひょっとしたら立派なのかも知れないが、世は建前だけで出来ているのではない。一皮むけばすぐに実態が現れる。どの選挙区に誰を候補者として立てるかは、党の幹部が一手に判断するという実態である。
すると何が起きるか? 政治家のサラリーマン化である。政治家になろうとすれば、党の幹部に認められなければならない。認めていただけなければ候補者にもなれないのだから致し方のないことだ。そのため、候補者は自分の選挙区の有権者に顔を向ける必要がなくなった。そんな暇があれば、せっせと党の有力者のもとに足を運んで

「是非私を」

とごまをすった方が国会への早道である。

これ、会社をダメにするサラリーマンと全く同じ構図である。いい製品を開発したり、不良品率を減らしたり、足を棒にして取引先を開拓する、というのが本来の会社員のあり方である。上が間違った判断を下したら、後難を恐れず

「それは間違っている」

と指摘する。その地道な努力が会社を強く、大きくする。

ところが、そんなことをしていても、上に立つ者にものを正しく見る目がなければ評価を得ることは難しい。そして、いい目を持った上司はなかなかいない。器量の狭い上司に逆らったりすれば、悪くすれば昇格という名の左遷をされかねないのが会社員の世界である。

だからサラリーマン化が起きる。コツコツ努力するヤツは馬鹿だ。それより盆暮れの贈り物は欠かさず、とにかくごまをすりまくれ。それが出世の早道だ。
そしてほとんどの場合、そんな輩が他を差し置いて上に登っていく。あなたもそんなシーンをたくさん見てきたのではありませんか?

いまの政治家はそんなサラリーマンとそっくりである。政治家は有権者の、国民の代表であるはずだ。そうであれば、最大の努力を有権者の声を聞き、自分の想いを分かってもらうことに注ぐべきものである。ところが小選挙区制になって、そんなことしていても、党幹部の覚えが目出度くなければ候補者にもなれなくなった。無論、無所属で立候補するという道は残されているが、何期も議員歴を重ねて選挙区にしっかりした地盤を持っているベテランならいざ知らず、なり立ての議員、あるいはこれから議員になろうと考えている新人には、絵に描いた餅でしかない。大政党の狭間でたった一つだけの椅子にたどり着くのは、ラクダが針の穴を通るより難しいのは誰にだって分かる。だから、サラリーマン化する。

そして今がある。自民党の国会議員は、次の選挙でも候補者にしてもらわなくては困る。いま自民党を取り仕切っているのは安倍首相を中核とした幹部連中である。この連中に弓を引くような言動を取れば、次の選挙で候補者から外される恐れがある。そんな中で、安倍首相に逆らう根性を持て、という方がどだい無理だろう。

ことは他の政党だって似たり寄ったりだ。ために、大局に立ってものをいう国会議員が激減した。政治家の言動の貧困さはの根源は、小選挙区にあると私は思う。

かつての中選挙区では個性のある政治家がたくさんいた。一つの選挙区に3つ、5つの椅子があるから、一念発起すれば無所属でも戦える。大政党の公認候補と戦って3つ目の、5つめの椅子を獲得するため、彼らは必死で選挙区を周り、有権者と絆を築こうとした。それが人を育てた面がたくさんあったと思う。

選挙制度改革の大義名分のもと、小選挙区を実現させてしまったのは田原総一朗を筆頭とした、メディアに巣くう連中である。たしか朝日新聞もその流れに乗ったのではなかったか。連中がいまの自民党総裁選をどんな目で見ているのか。最近の、小粒しかいなくなってしまった政界にどんな思いを持っているのか。かつての自分の、あるいは自分たちの言動を反省とともに思い起こしていればまだましである。ときおりテレビ画面で見かけるとあいかわらずご大層なことをしゃべっておられるので、多分、何の自覚もないのだろうな、と想像するしかない。

私は、中選挙区を復活してもらいたいと思う。中選挙区は政治を志すものを育てる教育機関でもあると思うのだがいかがだろう。

そうそう、政治家のサラリーマン化を嘆いたので、ついでに思い出話を。

1989年のことだった。朝日新聞は珊瑚記事捏造事件を起こしてしまった。褒められたことではないが、起こしてしまったのだから取り消すわけにはいかない。

ある日、そろそろ日付が変わろうという時刻、私は帰宅しようと、経済部を離れて編集局内を出口に向かった。すると、編集局長室から出てきた編集局長とバッタリあった。新人記者時代、社会部長として私の上司だった旧知の人である。編集局長は私の顔を見るといった。

「何だ、大道。いやに嬉しそうな顔をしてるな。俺は珊瑚事件でぐちゃぐちゃになっているのに、お前はそれが嬉しいのか?」

無論冗談であろう。それは分かったが、何故か私はムカッとした。

「珊瑚事件? 私が嬉しそうな顔をしている? 冗談はよして下さい。あの事件で一番困っている、被害を受けているのは我々一線の記者であることをご存じですか? それなのに私が嬉しそうですって?」

編集局長の顔色が変わった。

「お前がどんな迷惑を被ってるってんだ?」

私は率直に申し上げた。

「アポイントを取って取材に行きます。もらった時間はおおむね1時間です。まず相手と顔を合わせる。そのとたんに出てくるのが珊瑚事件です。いったいどんな事件なのか、何故起きたのか。私はどう捉えているのか。その説明を求められます。それに30分、40分はゆうにかかる。取材しようと思っていたことがいつも中途半端で終わってしまう。会う人、会う人、そんな調子で、私は困り切っています」

編集局長は言葉を重ねた。

「なるほどな。分かった。それで、お前はあの事件は何故起きたんだと思っているんだ?」

えらいご下問が来た。私は記事を書いた社会部記者は知っていたが、自分で傷つけた珊瑚の写真を撮った写真部員は知らない。だが、あちこちで聞かれるうちに、私なりの考えがまとまりつつあった。

「記者のサラリーマン化、だと思いますよ」

「サラリーマン化? どういうことだ?」

「会社の出張費を使って沖縄まで出かけ、潜水具も多分借りたんでしょう。かなりの社費を使って珊瑚にたどり着いたら、あると思っていた傷がない。こりゃあ、このまま写真を撮らずに戻ったら上司から何を言われるか分からない。査定も下がるだろう。だったらいっそのこと自分で傷つけて、と思ってやっちゃんたんじゃないですかね」

「なるほどな。しかし、内の記者のサラリーマン化ってそんなに進んでいるか?」

「編集局長室に鎮座していらっしゃるから現場のことが分からない。私の見るところ、相当なモンですよ」

かなり生意気だったかも知れないが、そういってしまった私であった。もちろん、自分の中にも、抑圧しなければサラリーマン化してしまいそうな自分がいることを自覚しての発言であった。

おそらく、私のいうサラリーマン化はあらゆる組織につきものなのだろう。だから、あらゆる組織が

「サラリーマン化しなくても生きていける道」

を用意しておかねばならないと思うが、さて、それがどんな制度であるのか私にもよく分からない。
しかし、政治の世界では、中選挙区という制度に政治家のサラリーマン化を防ぐ効能があることは実証済みであると思う。それを捨て去った愚を一刻も早く正してもらいたいと私は思い続けているのだが、発言に社会的影響力があると思われる人は誰もそんなことはいわない。百年河清を待たねばならないのか?

やっぱ、安倍ちゃんが3選しちまうんだろうなあ……。